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愛しき日々は──春、風が踊りだす      菅原千恵子

のかすい

春、椿の葉の上で風が踊りだす

 春は、風が揺れた。土蔵の白壁や、庭先の椿の葉の上で風が踊りだすと、子供達は皆、外にはじき飛ばされるように、駆けて出ていく。小さなかごを持って、田ゼリを摘みに行くのはこの季節である。頬に感ずる風はまだ冷たいのに、光の誘惑には勝てないのだ。まだ田んぼを吹き渡る風には雪原を越えてきたような雪の匂いが残っていた。

 四月の終わり頃になると、急にほんのりと風がぬるんできて、女の子たちはズボンからスカートにはきかえる。
「急に脱いだら風邪を引くよ」
 と母が心配そうに首をかしげても、スカートという言葉には心をわくわくさせるものがあって、幼い私は「スカート、スカート」と連呼して。あせりながらはきかえたことを覚えている。

 カーディガンを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、外に飛び出していけば、風に抱きとめられたようにふんわりとからだが軽くなり、全身で春の到来を感じることができた。
 外では、黒々とした畑の上が、いかにもしっとりとうるおい、取り残されて腐りかけてきている白菜や、とうのたった大根などが、あちこちに点在していた。イヌフグリやハコベが、ちょっと見ぬ間に勢力を拡大して盛り上がった畝の上にまではびこっていたりする。そして、ところどころに、破れた黄色く色のついた新聞紙の破片もあった。

 当時は、人糞を肥料にしていたので、春の風には風化した肥やしの匂いがしたものだが、それをいやだと私は思っていなかった。
 雪の野面を渡ってくる風の匂いが、土と肥やしの匂いにかわってくると、やっと春が来たんだというよろこびが条件反射みたいに、体中から湧きあがってくるのである。
 環境とは恐ろしいものである。私の中には、爛漫の花の匂いをいとおしむのと、なんら矛盾することなく、畑の土と肥やしの匂いを春の匂いと感じ。今でも春風の中にその匂いをかぎわけようとしていることかある。

 この季節は、足を踏み入れれば、いたるところが花盛りで、よく何の目的もなく、そうした花をむしっては空中に舞上げ、地面に捨て、あるいはもみくちゃにして手を染め、口にくわえて、かんでは吐き捨て、ただぶらぶらと手あたりしだいに花を手折っては徘徊していた。
 そういえば、こんなこともあった。
 父は花を植えるのが好きで、家の前の畑を花畑にして楽しんでいた。花を育てることが好きだったのか、あるいは花のある風景が好きだったのか、それはよく判らぬが、戦時中でさえ、父が畑に花を植えていたため、母は肩身の狭い思いをしたとよく話していたものだ。植えられるところがあれば、誰もがイモやカボチャを植えているのに、父だけはがんこに花を植えとおしていた。

 こうした父であったから、私が幼い頃は、家の板塀のすぐわきにまで花を植えて楽しんでいた。そこは狭い道であったが、一応、公道といえる場所である。父は、そこを通る人が花を眺められるようにとでも思ったのかもしれない。植えていた花は除虫菊であった。父はマーガレットと呼んでいたが、花も茎もマーガレットよりはるかに丈夫でたくましい。
 ある日のこと板塀づたいにずっと続いている満開の花びらを友達と二人で何気なくむしっているうち、白い花びらの中央にある黄色い部分に爪があたり、少し力を入れて掻くと、おもしろいようにサクッと萼からはがれ落ちた。それは言葉では表しようもない快感だった。
 私たちは話すのも忘れて、ただただ夢中でさくさくとむしり取り、そして掻き続けた。

 さて、そんな遊びにもつかれて、他のことに気が移っていったときには、さっきまで塀に沿って咲き乱れていたはずの花はことごとく地面に落ち、むさ苦しい葉っぱだけが取り残されていたのである。地面の上には、塀づたいに一面白い花びらが散り、そのうえにカレー粉でもまき散らかしたかのように黄色いおしべが積もっていた。その夜父にしかられたのはいうまでもない。
「なぜ、あんなまねをしたんだ」
 と問いつめられても、私には答えようもなかった。理由など何一つなかったからだ。何か一つの熱中させる遊びがあり、次の熱中する遊びへと移行する間の手すさび、あるいは、ある遊び場から、次の遊び場へ移助する道中に、たまたま手に触ったからだとしかいいようがなかった。

 そうした遊びは一体何だったのかとときどき考えることかある。しかし、当然のことながら、はっきりとした答えが見つかるわけでもない。
 ただひたすら春の日の中でカッコウの声を聞き、戯れに花を摘んだり踏みつぶしたりしていたのだ。
 花に対し、こんな荒っぽい接触のしかたをしていたのだから、どうつくろっても植物を大切にしていたとは言えないのだが「春の花」という言葉を耳にするだけで、頭の中には数えきれない花々が次々と浮かんでくることは確かである。

コグサのゆで卵の黄身のような乾いた花、田のあぜ道にはうように平たく咲くサギゴケの花、スズメノテッポウ、ヘビイチゴの地味な花と赤い実、カラスノエンドウの赤紫の花。どれもこれも、印象は鮮やかで風に揺れる様から、摘んだときに手に残された感触と茎のつゆの色、噛んだときの味までも一度によみがえってくる。

 菜の花につながる記憶を、私は長い間、人に語ることがなかった。それは、あまりにもおかしな記憶であったし、何よりも同じ体験をした幼なじみとでなければ語れないもののように思ってきたからである。しかし、もしかしたら、こんな事ができるのは私たちぐらいしかいないかもしれないと思うと、やはり記しておくべきかもしれないとも思うのだ。

 狹い道をはさんで、家の向かい側は広い畑だった。そこは五月も半ばになると菜の花が子供の背丈よりも高く、一面に咲き出す。
私たちは、その菜の花畑の中を泳ぐようようにして走り、かくれんぼやおにごっこをしたものだ。
 髪の毛にも菜の花の花びらが落ち、一日遊べば、体中に菜の花の匂いがうつってしまうため、
 「畑で遊んだでしょう」
 と、毋にとがめられることかよくあった。

 その日も、私たちは、菜の花畑の中を、迷路のように続く畝の間をねり歩いて遊んでいた。すると、「あっ、誰か来た」という、同い年のきのえの声で、私たちは音をたてないように互いにより集まって息を殺した。
 畑は近くの農家の人の土地で、菜の花のほかに、キャベツやイモなども植えており、子供達がみだりに畑にはいるのを嫌がっていることを私たちは知っていたのだ。

 菜の花のすきまから見えたのは、いつも私たちが叱られる農家のおばあさんだった。頭に日本手ぬぐいをかぶり、茶色の縞のモンペをはいている。クワとカゴも持っていた。畑仕事に来たらしい。
私たちは、出るに出られず、困り果てていた。
 「青虫とりにきたって言うべ」
 光男がいいアイデアだと言わんばかりだ。キャベツ(当時は玉菜と呼んでいた)につく青虫を捕ってやると、農家の人はとても喜んでくれるのだ。
「空き缶も持っていないもの、嘘だって言われるよ」
 きのえの一言で、私たちは再びおし黙った。

 その時、キャベツ畑にいたおばあさんか、菜の花畑の方へのそのそとやってきた。私たちはとうとう見つかったのだと思ったが、それでもしゃがみ込んで、体を小さくして、息を殺して見守った。
おばあさんは誰か見ていないかと、あたりをうかがうように、二度頭を左右に動かし、そのあと、わけ入るように菜の花畑に踏み込んできた。ニメートル後ろの方でかがみ込んでいる私たちには全く気づいていない。
 おばあさんは何かぶつぶつ口の中で独り言を言いながら、モンベの紐をほどくと、私たちの方にくるりとお尻を向けたのである。

 私たちはぎょっとして顔を見合わせた。黄色い花の間に、大きくてたるんだお尻が丸見えなのだ。しかも、おばあさんは、お尻を少しつき出してはいるものの、しゃがんではいない。膝を伸ばし、立ったまま、「く」の字の姿勢でおしっこをしていたのだ。
 深々と耕された土におしっこのしみこむ音がして、それが止むと、おばあさんはまたするりとモンペを上げて、菜の花畑から出ていった。

 驚いたのは私たちである。女でもしゃがみ込まずに立ったままオシッコができるということを私たちは初めて知ったのだ。今までだれも教えてくれなかったではないか。もう試してみたくて、試してみたくて、どうしようもなくなっていた。光男がとめるのも聞かず、私ときのえと淳子は走って菜の花畑を飛び出すと、夢中で逃げた。最後に走った光男だけかおばあさんに見つかって叱られている姿がかげろうの中で小さくゆらいで見えていた。

 その日以来、私たちは何度も立ってオシッコをする練習をくり返した。初めの頃は、パンツにオシッコがひっかかり、濡らすこともあったが、そしらぬふりをして遊んでいるうち、ひとりでに乾いてしまう。何度か失敗をくり返すうち、いつ、どんな所でも、立つたままうまくできるようになった。
 淳子もきのえも皆できるようになった。三人で並んでやって成功を喜んだことも一度や二度ではない。うまくできるようになると、家でも外でもしゃがんですることはもうめったになくなった。そのうち、朝顔型の男子用便器にでさえうまく用が足せるようになっていた。

 しかし悲しいかな、まだ私は小さすぎた。夜中にオシッコに目が覚めても、外にあった便所ヘー人で行くことはできず、母を起こさなければならないのだ。母は母で、危ないからという理由で、夜は戸を開けたまま用をたし終わるまで見張っている。
 その日は私も少し寝ぼけていたのか、母が見ていることも忘れて、男便器で立つたままオシッコをしてしまったのだ。驚いたのは毋だった。それ以来、絶対立つたまましてはいけないと、きつく注意されたか、一度獲得した技術を、やすやすと捨てることなどできるものではない。

 私はその後、小学三年生ぐらいまで、ずっとひそかに男子用便器を使っていたか、いつのまにか止めてしまった。そして、もうそんなことかできるということさえ忘れて幕らしている。
 けれど、菜の花畑を見ると、いつもあの農家のおばあさんのように昔の技術を大胆に使ってみたいという誘惑にかられ、そのたびに、きのえや淳子も、私と同じ思いでいるだろうか、聞いてみたいような気がするのだ。

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菅原千恵子さんについて
それは1994年だった。一冊の驚くべき本が読書社会に投じられた。菅原千恵子著「宮沢賢治の青春」である。おびただしいばかりの宮沢賢治を書いた本がでているが、菅原さんが投じたその本は、いままでだれも書いたことがないことが書かれていた。まったく新しい宮沢賢治が現れたのだ。この本を契機に、「草の葉」と菅原さんとの交流が始まり、彼女の作品が「草の葉」で連載された。そして一千枚になんなんとする大作「愛しき日々はかく過ぎにき」が投稿されるのだ。その数年後に御夫君から葉書が届けられた。「妻千恵子は数十万人に一人の難病を患い、読み書きが不能になりました。これまでの妻とのご交誼、深く感謝いたします」。彼女は驚くべき作品を私たちに託して立ち去っていった。「愛しき日々はかく過ぎにき」は昭和の時代を描いた、永遠に読み継がれていく名作である。


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