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碌山の源流をたずねて 3  一志開平

 憧れのフランス

 守衛は高なるパリヘの勃々たる思いを胸に七日目、即ち十月八日の朝フランスのル・アープル港に着き、そこから汽車で四時間かかってあこがれの都パリの土を踏むのであった。守衛はかねてからフェアチャイルド家の三男プラヤが音楽の勉強のためにパリに滞在していて、守衛への文通で「もしパリに来るようだったら君のために適当な仕事を見つけてあげよう」との約束でもあったので、まずプラヤの家を訪れているが、意に反して仕事にありつけなかったので、とりあえずニューヨークの学友パックに紹介されてアメリカ人の家にお世話になり、そこを拠点にパリの学校を見てまわっている。

 先輩の中村不折や岡精一ともアカデミ・ジュリアン校で会うことができ、親しみが一層湧くとともに心の落ちつきも増している。不折の紹介で屋根裏のせまい安宿を借りることができて守衛は心から満足感を覚えている。不析はその一室を「竜がひそんでいてそこを抜け出た後のようだ」ということから脱竜窟と名づけられ、そこで自炊生活がはじまり、昼はパンと牛乳、夜は卵と玉葱を刻んだものをかけて食べるという極めて質素な生活をするのであるが、年来望んでいた独立と自由がかなえられた喜びに胸をふくらませながら画業に専念することができたのであった。

 守衛は昼はプティ・アカデミーで、夜はコランのグランド・ショーミエで学んでいるが、やがて不折の師ローランスを知ってからアカデミー・ジュリアンで指導を受けることになった。ローランスはデッサンにきびしく、指導も批評もていねいで守衛のデッサンの基礎はここで培われている。ローランスは裸体のデッサンを重んじ、基礎ができれば何でも自由なことができるという主義で、守衛のデッサンを見て「だいぶうまくなったからそろそろからだを描け」と裸体を描くことをすすめている。しかし守衛は未だじゅうぶんではないといって腕一本の写生を続け、口ぐせのように「腕一本卒業しないやつは、何をやってもできるものではない」といい続け、遂に腕一本を一年間も描き続けている。

 さすがのローランスも守衛のひたむきな努力と精進をたたえ、その前途に大きな望みをかけながら見守っている。ローランスは日本人やその文化にも理解をもっていて、日本の能面や刀や鍔なども所持していたといわれ、特に日本人画家には「どうも弱くていかん、筆に力がない」とよくいわれて励まし続けている。不折は貧乏の中で三年間留学して画業に励みながら守衛に終始懇切な助言を行ない、守衛もまた相変わらず自分の納得のいくまで稽古に精を出している。

 その年の冬、前々から井口にお願いした大西祝の「西洋哲学史」や坪内逍遥の「英文学史」その他の書籍が届き、寒いパリの冬の夜を哲学史や文学史を読みふけりながら人生を深く考えることができたのであった。これらの書籍は日本に持ち持ち帰り現在碌山美術館の蔵書としていまも後世に伝えている。

 明治三十七年の正月、日ソの国交がけわしくなり、二月には遂に日露戦争に突入するという事態が生じ、異国の地での守衛にとっては案じられる毎日であったが、芸術の都パリでは戦争をよそにそしらぬ気風が流れていた。そんな時守衛は日本をしのんで次のような漢詩を作っている。

 去家一日巳思家
 浩渺帰期末有涯
 潜眼春風晨多恨
 無言笑似小梅花

 異郷の守衛にとって郷里の研成義塾や東京の「不同舎」のことども郷愁の念は強いものがあったのである。

 ロダンの「考える人」

 守衛は持ち金が底をつき、いよいよアメリカへ帰って稼がねばならない日が近づいていた頃、パリは美術展が開かれてアカデミック、そしてモダンの二つの大きなサロンが賑わっていた。守衛はそこで運命を左右する彫刻作品ロダン作「ラ・パンサー(考える人)」に出会うのである。何かうずくまって頬づえをつきながらじっと考え込んでいるその彫刻をみた瞬間、守衛は作品の前に釘づけになり、おどろき、おそれ、ショックを受け、しかも「考える人」の彫刻には詩があり、倫理があり、宗教があると考え、守衛は「私の精神が一体彫刻的であって、彫刻の如く何かまとまったものでなければ十分の感興を生じないという特性が有るかもしれぬ」と深く考えるようになり、それ以来自分の思想を形にすることのできる彫刻が真の芸術だと思い、絵画の鉛筆から立体的な彫刻のためのノミをにぎろうと決意したのであった。

 「考える人」はダンテの「神曲」の地獄の入口にうずくまってその門を眺める、宇宙、人生の真相を黙想し続けるいわゆる考える人であるが、守衛は後年その感激を次のように回想している。「之に出陳せられた芸術品は数千点の多きに達している。絵だけでも二千枚も有ったでせう。其中には面白いもの、可愛(おか)しいもの、美しいもの、美しくないものなどもとより多く、一覧の価あるものが少くはなかった。しかしながらそれらは私の精神に対して、何等の威厳だにも持ってをらなかったからして、名声さくさくたる大家名匠の作品に接して後来衿式(きょうしょく)する所を得ようとする私には、窃(ひそ)かに索漠の感に禁(た)えなかったが、廻り廻りロダンの作に対するに及び、駭然(がいぜん)として驚き、悄然(しょうぜん)として怖れ、稍々(やや)久しくして神往き魂飛び、又私自力の存在を感ずることが出来なかった。

 宿に帰って寝食の間にも、彼のロダンの作は依然として私の目前に聳立(しょうりつ)してをる。其作品は「想う人」といふので、ダンテ戯曲中の一人、地獄の入口に立って、其の門を眺め、以て宇宙人生の真相を想像しつつある人であって、実に想う人である。頭の天辺から足の爪先きまで、一点の隙間も無く想に満ちている。若しも世に人間の想というものが有ったならば、其形は必ずかういふものであると感じた。私は作品に接して、始めて芸術の威厳に打たれ、美の神聖なるを覚知して慈(ここ)に彫刻家になろうと決心した」とあり、これは自著「彫刻真髄」にも述べられている。

 守衛は次の日から毎日のように「考える人」の前に立ったり、ぐるぐる回ったり、かがんだりしながら見つめ続け、そしてまた〈芸術とは何か〉を考え続けるのであった。既に絵画から彫刻への転換に意を決しながらも再度アメリカに戻って金の工面をするのであるが、ただこの際イギリスの美術を勉強しておこうと中村不析とイギリスに向かい、ロンドンを中心に約十日間美術館めぐりをしている。そこではさほど感銘した作品はなかったようであるが、エジプト彫刻、古代メソポタミヤの作品、そしてサウスケンシントンの美術館で見た文芸復興期のラファエロの作品に心を打たれ、何より見たいと思っていたロンドン美術館を見ることができて満足感を深めている。いよいよ不析とも別れ、ルアプール港から今度は絵画から彫刻を夢みながらニューヨークに向かうのである。

 五月末アメリカに戻った守衛は早速フェアチャイルド家を訪ねるが、一家はすでにニューポートへ出発した後であったので、次の朝、追いかけるようにニューポートヘ向かい、以前と同じように働きながらの別荘生活が繰り返された。ただ今度のニューポートの生活は以前とは全く違って、ロダンの「考える人」との出会いとその感動が大きかっただけに、絵画から彫刻への転換、その目的を達成させるための策をいろいろと構じ続けるのであった。それは彫刻へ向かう今までのデッサン、絵画、そしてパリやロンドンで見た美術の上にどう構築すればよいか大きな課題であった。

 守衛は先ず孤雁とともにリチャーズ家をたずね、リチャーズの海洋画を描いたいくつかの作品を見せてもらっている。守衛にとってもその絵は今まで学んできたデッサンや絵画とは全く趣を異にした洋画家のスケールの大きさ、広漠として限りない海の広さ、そしてその豊かさをひしひしと感じ、改めてまた〈芸術とは何か〉を自己に問うのであった。

 トルストイの非戦論の共鳴

 ロダンの「考える人」との宿命的な出会いはアメリカに戻った守衛にとって、かたときも忘れることのできない大きな体験であった。このロダンの「考える人」は一八八〇年に制作され、その後「地獄の門」シリーズとして一九一七年ロダン逝去の年まで続けられている。

 守衛は以前のニューヨーク・アート・スクールをやめて、アート・スチューデント・リーグに入学して彫刻家になるための勉強をはじめることになり、ここでは午前九時から午後四時まで、午前は主としてケニヨシ・カックスから石膏を、そして午後はアーサー・ブリッジマンについて人体を学んでいる。

 ロダンの教えのなかに「モデルを心の眼でとらえ、それを自由自在に表現するデッサンこそが出発点である」と言われたことや、守衛自身の自然観即ち自然に従って自然に学ぶことが美術の本道であると考え、その上で作家には精神がこもっていなくてはならないことや、熱情が感じられるものでなくてはならないことなどを念頭におきながら、堅い信念で主体の世界をねらっての研究に専念し、人体のデッサンにおいては骨格や筋肉の解剖学などの人体の構造までを学んでいる。

 明治三十七年のはじめ日本とロシアは満州問題をめぐって国交がけわしくなり、日本の軍艦がロシアの軍艦を撃沈したという報道が流れ、二月にはロシア皇帝の日本への宣戦文が新聞に掲載されるなど、事態は極めて険悪な状況になっていった。

 その年の六月二十七日、ロンドンタイムズにトルストイの非戦論「悔い改めよ」が掲載されることになり、日本においては雑誌《太陽》に「トルストイ伯の戦争観」として紹介され、東京朝日新聞、そして週刊平民新聞も掲載している。守衛はニューヨークでこのトルストイの論文に接し、生命の尊さや人間愛の大切さからこの非戦論に強く共鳴するのである。守衛はその時の心境を書簡で郷里の兄に次のようにしたためている。

「戦報伝わる毎に連勝に候は賀すべき事に候。然しトルストイ伯も申され候通り、虫一匹殺すなという仏者の国と、大慈悲基督の教義を遵奉すという国と、互いに大殺人犯を満州の野に演じつつあるは何ぞやと思うことこれあり候。人類進歩の上に人類の血は必要なるべけれ共、さりとて遼陽六万の生霊皆之れ父あり母あり妻子あり。禁ぜんとして止めあへぬ血涙を、笑ふて国家の為めとて快活を装ふて去れる同胞ならずや。敵の敗を聞いて喜ばんか、そはあまりに残酷ならずや、彼等も亦人の子ならずや。人類は遠く野蛮の境にあり、剣刀に血ぬらずして世界の平和を得んや、尚幾万の日と月と出で、而して没するや」とあり、心を痛めた守衡が虫一匹殺すなと教えている日本と、キリスト教を信ずる国ロシアとが互いに殺しあいをするのはどういうことであろうか、そして遼陽で戦死した六万の兵隊、それは勝った負けたで評価するのはあまりに残酷であると戦争に対する痛烈な批判を精神的な遍歴として述べている。

 次の年の一月には旅順を、そして三月には奉天と勝ちいくさが伝えられ、そのたびに祝勝のさかずきを挙げるといった狂喜する状態を耳にしながら守衛は人道的立場と、人類愛の必要さとを説きながら、それがこれからの自己への心の戦いに勝たねばならないと再認識するのであった。

 ニューヨーク・アカデミー

 明治三十八年の夏はニューポートヘは行かずにニューヨークでもっぱら午前中は画学校ヘ、午後は美術館へ出かけて作品の研究、そして夜は読書に専念するといった生活が続いている。その頃守衛はかけがえのないよき友、画家志望の柳敬助に出会っている。柳は明治三十六年渡米してニューヨークの画学校で勉強していたが、戸張孤雁とも一緒に逢う機会も重なり、接するごとに柳の人柄と才能を高く評価するようになっている。明治三十九年はアメリカでの最後の年であるが、この夏も昨年同様ニューポートヘは行かずフェアチャイルド家を中心にデッサンの勉強に明け暮れている。

 ニューヨーク・アカデミーで知りあった戸張孤雁との親交は日に日に深まり、当時ふたりは午前中を同じリーグで学んでいるが、孤雁は当時の守衛の様子を「有の儘」で次のように記している。「当時ミケランゼロ、ミケランゼロと口ぐせのように云って其の素描の写真を眺めて居た。而しミレーが好きで、君の薄暗い居室にはミレーの書物が二、三冊と壁にはミレーの写真画がピンで止められてあった。アカデミーに在学中暇さえあればミケランゼロの写真画の前に、若し夫所(そこ)に居らぬ時は、人骨の前に椅子を持って行って解剖を研究して居た。あまり骨を熟視して居るので、骸骨と円い君とがポンチ画に描かれた事がある」とあり、孤雁はまたリーグでの守衛の様子を次のように記している。

「教場に入ると直ぐ上着を脱ぐと、他生徒が若し教室内で騒ぐと大きな声で『騒がしい』と而かも日本語で怒鳴るのは君であった。怒鳴った後誰れが怒鳴ったかといふような顔をしているのもまた君であった。君の無邪気は有名で、全ての人々からオギャラー又はミスターゴッデームと呼ばれて可愛がられて居た。ゴッデーム(こん畜生)は、此の言葉の乱用から、誰れ命ずるとなく何時か一つのニックネームとなったのである。尻の飛び出した光った黒ズボンとゴッデームの名は他校にまで有名なものであった」とある。

 八月にその最も親しかった戸張孤雁が病気のため日本に帰ることになり、貧しいふたりは学校の食堂で一杯のコーヒーを分けあって飲みながら別れを借しんでいる。守衛は「日本に帰ったら信州の僕の家へいけ、古い土蔵があるからそこで制作したらいい」とも伝えている。互いに心を通じ合う孤雁と守衛。病を得てのやむない帰国、そして再度のフランスを夢みながらの不安が募るふたりの別れであった。

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