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いま、私の目に見える景色 山崎範子


 小宮山量平さんの単行本「千曲川」を八月の船のなかで読んでいた。すでに「草の葉」で何度も読み返していた文章は、頁をめくる前に次の文章が口からこぼれてしまう。
「眠いだらずよ」「おやげねえ‥‥」「‥‥買ってくれるに」、おばあちゃんの信州の言葉を音にして呟いてみれば、私までが小諸のおぱあちゃんちにいる子どものようになる。

 そういえば、おばあちゃんの部屋の茶箪笥の引き戸の中に、藍色の瓶があって、孫がいくたびに蓋をそっと開けては「ほら、たんとたまっているずら」と見せてくれた。それは瓶の口までいっぱいに詰まった水飴であったのだけれど、私はおばあちゃんが言うように、田舎の虫たちが子どものためにセッセと瓶の中に運んだ蜜だとずっと信じていた。

 おばあちゃんはその瓶の中に割り箸をつっこんで、グリグリ回しながら水飴を絡ませ、私の手にもたせてくれる。それは親に、秘密の儀式のように子どもを一人ずつ部屋に呼び入れて、「大きくなったに」とか「えらかったずら」とかの言葉と一緒にもらえたのだ。町から遊びにくる孫の中には、山羊の乳が飲めなかったり、豚小屋の掃除の手伝いを渋ったり、表にある暗い便所をこわがったりするのがいるから、おばあちゃんは孫をなだめるてだてとして長い間この水飴を使っていたのだろう。

 私は孫のなかでも一番年少だったから、この儀式を受けられた期間がとても短くて、もしかしたら夢だったのかも知れないと思うときがある。

〈「坊よ、こんねにうまいもんは、一ぺんに二本も食べると、子どもは腹をこわすもんじゃぞい」
──これは、ぼくの生涯の信条となった。〉

 まったく、信州のおぱあちゃんたちときたら、おんなじ言葉を孫に残しでいるんだなあ。

〈気のせいだろうか、そのとしの春の訪れはおそかった。お城の壕りをめぐる桜のっぽみは、四月の下旬に入っても、まだ固かった。三月の末に日本じゅうに吹き荒れた地方銀行の取りつけさわぎが、いつまでも尾を引いているようで、おとうさんに代わって一家の主となった萬治郎兄さまの暗い顔つきが、いつまでも続いているのだった。〉

 昭和二年三月十四日、第五十二回帝国議会衆院予算委員会での、大蔵大臣片岡直温の失言「今日正午頃において渡辺銀行がとうとう破綻をいたしました‥‥」という言葉によって金融恐慌は始まったといわれている。実は、この最初につぶれた渡辺銀行というのが、私たちの作る地域雑誌「谷根千」の地域と縁が深い。

 渡辺銀行を創設したのは九代目渡辺治右衛門という人である。明治四十三年の資料によれば、東京の土地所有者の第六位で、当時の東京市十五区のうち、下谷区、本郷区、小石川区などに所有地が多かった。渡辺家は倒産後に土地を競売し、財産を銀行に提供しているが、町の中には地主さんの銀行を信用して、虎の子を預けている者が大勢いた。

 私たちは渡辺銀行、そして同族のあかぢ銀行の休業・倒産時のことを聞き取りしたことがある。
「子どもが中学に行くときの学資に、と預けた預金がケムとなったそうです。母は赤ん坊ねんねこに背負って三日間、毎日なん時間も行列して、払い戻してもらおうとしたが駄目だったと悔しがっていました」(海老原保翠さん)

「預金者は大震災の痛手から夢中で働き続け、ようやく立ち直ろうとするところでこの銀行の取りつけに遭い、活動の意欲を失って、店をたたみ、田舎に引き込む者や、金策に駆け回る者などで、町の中は急に灯が消えて暗く、地の底に沈んだようになってしまった」(野口福治さん)。
 こうしてある人は東京を去り、小宮山さんは東京へやってきた。

小宮山さんの入学した窪町小学校は私の住む家から自転車で二十分足らずのところにある。表は春日通り、裏は教育大跡地に作られた、教育の森公園に隣接している。
 昨年、「文京ふるさと歴史館」で、《学校のたからもの展》が企画展示された。窪町小学校の出品した宝物は、大正十五年創立当時の[水べの馬]のレリーフ。「「自主性を育てる教育」を、「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」のことわざで表している」のだという。

〈それというのも、あいつらの住んでいる氷川下界隈は、あの有名な共同印刷という大会社のストライキ以来、労働組合の動きが活発で、街じゅうが異様な活気をおびていた。その会社周辺の製本屋だのカガリ屋だの折り屋だの出版関係の下請業者も、あの当時はすっかり仕事がストップして、ストライキの成行きに神経を尖らせていたものだ。そんな家庭や街の空気が、あいつらの心までそわそわと浮き足立たせていたのだろう〉

 この氷川下というのは暗渠となった千川の川沿いの町だ。共同印刷の大工場と、小石川植物園の緑が相対している場所でもある。道沿いにはこの大印刷所の下請け中小企業や、そのほか家内工業の製本所、印刷所、製版所などが軒を並べている。

 共同印刷は大正十四年、当時としては最大の印刷所であった博文館印刷所と、精美堂が合併し、できた会社である。そして翌大正十五年に共同印刷争議が起こった。インフレと不況の中、会社側は組合員全員に解雇通知を発送し、工場を閉鎖。組合員は工場へ押しかけ、警官と大乱闘になった。この争議は長期化し、組合は資金に苦しみ、脱落するものもあった。そして労働者の中には、きびしい警視庁の警戒のもとで、発狂したり、自殺したりするものも出たと聞く。

 このとき、若きアナキストの組合員は次々に検挙される。まさに本郷・小石川は、アナキストの拠点であったことが、「谷根千」を十年以上作ってきてわかってきた。

中学へ行かずに働き始めた小宮山さん。その決定にこの小石川という土地や、カナイくんはじめ、あいつらの存在はどのくらい大きかったのだろう。銀行の給仕をし、戦後出版社を起こした小宮山さんに、あの共同印刷の工場はどう心に残っていたんだろう。

 雑誌を作りたい、できれば東京の地方出版だという誇りをもって本作りをしたい。そんなことを願いながらこの「千曲川」読んでいた。小宮山さんの八十年を、四十年遅れて、追いかけながら「千曲川」を読むと、本作りの思想の流れが、私にも伝わってくる気配がする。

 何を食べ、誰と出会い、時代のなかで何を感じて生きて行くのか、あるいはどんな景色を眺め、どの町に住み、誰を愛し誰に愛されて生きて行くのか。
 小宮山さんの十八歳以降の人生を、昭和という時代の続きとともに、一刻も早く感じ取りたい。

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