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市民としての反抗 1   富田彬

 ソーロウ(Henry David Thoreau)は1817年7月12日にコンコードで生まれた。家は鉛筆製造を業とし、裕福ではなかった。少年時代のエピソードとして伝記に載っている幾つかの中から、特に彼の後年の不屈の生活態度を思わせる一つを拾ってみよう。ある時、彼の遊び友達の中に鉛筆を盗まれたものがあって、彼は泥棒の濡れ衣を着せられた。その時、彼はただ一言、「ぼくは盗らぬ」と言っただけだったが、やがて真相が明らかになったので、みなは彼に、何故弁解しなかったとたずねた。すると彼は、またしてもただ一言、「ぼくは盗らぬ」と言っただけだった。言うまでもなく、少年たる彼は、彼の正しさの座をすわって、徳行の快を貪っていたわけではない。

 そういう「善行」は、後年の彼が極力はいせきしたところである。彼はただ事実を言っただけなのである。けだし他のものにとっては、盗みという行為の峻厳な道徳的意味よりは、世間の思惑、他人の指弾の方が大事なのであるが、ソーロウにとっては、行為そのもの、すなわち体験が一切なのであって、取消しのできぬ行為というのものの一回性に身をもって当たることの方が、それらの判断や説明よりは大事なのである。他のものは、悪行よりも世間を恐れる、つまり道徳を甘く見るであろうが、彼の恐れるのは、ただ行為そのものであって、彼の関知するところではない。

 1833年、日本流の数え方で17歳で、彼はハーヴァード大学に入学した。もちろん家は、彼を学校に出せるほど裕福ではなかったから、学資は伯母や先生をしている妹などが心配した。入学の翌る年は、彼の一生にとって意味深い幸福な年であった。何故なら、1834年には、彼の生涯の師となり友となるエマソンが、コンコードに居を定め、彼のことを人づてに聞いて、彼が学校から学資補助金をもらえるように取り計らったからである。二人が直接会って話したのは、それから三年後の1837年で、ソーロウが大学を卒業した年である。エマソンは1838年に、「自分はこの若い友達を大変愉快に思っている。彼は、自分のこれまでに会った誰よりも、自由な毅然とした精神をもっている」と、さすがに炯眼な批評を下している。

 学校を終えたソーロウは、一時コンコードで先生をしていたが、エマソンが言っているように、「狭い技能や職業」の枠にはめられるにはあまりに自由な彼は、間もなくやめて、それからは、生計の資を得る方便としては、家業の鉛筆製造や得意な土地測量などの臨時の仕事に頼ることにし、彼の言葉で言えば、「主義なき生活」を営むことにした。そのうちに、彼は著作家として立つ決意を固めたのであるが、それは1840年頃のことらしい。

 1841年になって、彼はエマソンの勧めで、エマソンの家に同居することになったが、それから二年の間、エマソンは同じ屋根の下に暮らした。エマソンの息子は、「コンコードにおけるエマソン」という父の思い出の記の中で、ソーロウが、その「簡素な生活と高尚な思索」のゆえに、家庭のものに少しも厄介をかけないばかりでなく、まめで器用なので、彼がいた間は、家の中や庭は、いつもきれいになっていたと書いている。エマソンがソーロウにどんな深い影響を与えたかは、誰でも、容易に想像できるであろうが、ソーロウの学友の一人は、ソーロウがエマソンの家に住むようになってからは、声までエマソンに似てきて、眼をつぶって二人の会話を聞いていると、どちらがエマソンで、どちらがソーロウだか、わからないくらいだと述べている。

 1843年に、ソーロウは、エマソンの家を去って、当時ニューヨークの近くのスタトン島に住んでいたエマソンの兄の家の家庭教師として、同地に行ったが、数ヶ月の滞在の後、コンコードへ帰ってきた。そして、1845年の春になると、例のウォールデン池畔の独居生活を始めたのである。この生活の目的を、彼は持ち前のユーモアをまじえて、次のように述べている。

「市民諸君は、わたしに裁判所の一室を提供してくれるわけでもなく、牧師補にしてくれず、どこに住む場所も与えてくれず、自分は自分でやっていくよりの仕方がないことがわかったので、自分は、この社会でよりもよっぽど名を知られている森のほうに、いよいよ、専心向かっていくようになったのである。……自分が森に行ったのは、慎重に生きるため、人生の教えを学べないものかどうかを確かめるため、そして死に臨んで、自分が真に人生を生きなかったことを、発見しないようにするためであった。自分は、人生でないものを生きたくないと思った。生きるということは、実に高価なことだからである。

 また自分は、やむを得ない場合のほかは、諦めるということは、したくなかった。自分は深く生き、人生の精髄を吸いつくし、人生でないものはすべて敗走させるほどに、強くスパルタ式に生き、広く刈り込み、根こそぎ切り取って、人生を一隅に追い込み、条件をぎりぎりのところまで引き下げ、それでもし人生が賎しいものとわかったら、その賎しさをそっくりそのまま受け取って、世間にそれを公表すればいいし、もし崇高なものとわかったら、その崇高さを体験し、次の遠足の時に(あの世での意)、その真相を話すことができればいいと思ったのであった」

 彼は、狂乱の群衆を離れて、遠く森の静けさに逃れたのではない。また生活の必然によって、森の中へ追い込まれたのでも、無常をはかなんで、方丈の仮宅を求めたのでもない。彼は、東洋の無常観からも、西洋のペシミズムからも、同じ遠さの地点に立っている。その点、彼は、何と言っても、実際的なアメリカ人である。感傷ほど、彼に縁遠い感情はない。生活の実験というと、何かの方便のようで浮薄に聞こえるが、彼の意図は、何処までも現実的である。

 彼は、二年あまりを森で過ごすと、1847年の9月に、父の家に帰ってきた。数年後の日記の中で、彼は「なぜ自分は森を去ったか?」と自問し、そして次のように答えている。「自分にもよくわからない。それは、なぜ森へ行ったかが、はっきりしないとの同じことだ。多分、変化をもとめていたのであろう。こんなところにいないで、帰っていればよかったと思うことがあった。多分、変化を求めていたのであろう。午後二時ごろだったと思うが、自分はちょっと沈滞気味になることがあった。おそらく、もっと長くあそこにいたら、もう永久に、あそこにいるようになったかもしれない。こんな条件で天国を受け取る前に、人は熟考する方がよいのだ」と。この森の生活を記録したものが、「ウォールデン」一巻なのであるが、それは、1854年になって、やっと出版されるのである。

 森を去ってから間もなく、1847年の秋に、ソーロウは再びエマソンの家に居を定め、それから一年の間、エマソンが欧州に旅行している間、夫人の話相手となったり、庭の手入れを手伝ったりして、暮らしていた。この頃から、彼の文章活動は次第に本格的になってきたが、1849年の春、「コンコード河とメリマック河の一週間」が、自費で処女出版された。この本は千部刷られたのだが、1853年までの間に、僅か三百部しか売れず、残部の七百冊は、ひとまとめにして、出版社から著者の手元へ届けられた。

 著者は、どんな気持ちがしたか? これはわたしばかりでなく誰も知りたいことであろう。「ウォールデン」の出版によってすでに名声を得た著者としての回想ではなく、彼のはじめての労作の苦い報いを受けとった、その時の彼の心の中である。「今や自分は、九百冊に近い図書をもっている。そのうち七百冊以上は、自分自身の書いた本である」と冗談を言ってから、次のようにつづける。「著者が、自分の労作の成果を見届けるということは、悪くはあるまい。自分の著作は、自分の部屋で、頭の高さの半分にまで積み上げられている、自分の全著作が。これが、著作というものである。これらは、自分の脳の所産なのだ。……今や自分は、何のために書くのか、また自分の労作の結果が何であるかを、知ることができる。にもかかわらず、この結果はそれとして、自分は、自分の労作のこの不精なかたまりのそばに腰かけて、今夜もペンを執り、どんなことを考え、どんな経験を味わったかを、以前と変わりない満足な気持ちで記録するのである」と。

 ソーロウは売れ残りの本を指して、「これが著作とういうものだ」と言っているが、それは間違いてあることは、後の文章が暴露している通りである。「今夜もペンを執る」。これこそ本当の「著作というもの」なのではないか。ある伝記作者は、この時のソーロウを評して、「文学的著作の歴史上、古今未曾有の男らしい勇気と自己信頼」」を示したと言っている。さて、本が売れなかったという事実は、少しも悲惨なことではない。本が売れるという事実のほうが、かえって悲惨な場合もあるからである。売れない本を書くということも、ソーロウが言っているように、少しも悲惨なことではない。げんに、「以前と変わりない満足な気持ちで」書くことが出来るからである。けれども、「以前と変わりない」と書かずにいられなかったソーロウは、やっぱり、彼が世間から受け取った評価を気にしてはいるのである。しかし、世間の評価のでたらめさは、少年時代に、身におぼえのない鉛筆泥棒の汚名を着せられた時に、すでに身にしみて感じていることではないか。

 周囲の世間というものは、子供時代にも大人時代にも、さして、変化があろうとは思われない。人生そのものがいやしいなら、そのいやしさを、そっくりそのまま、受け取ろうとしたソーロウが、世間のいやしさの前に、己の誠実さ、人生の尊さを犠牲にして、降伏しようはずはない。「実際自分は、この結果が、千人が自分の商品を買ってくれたよりも、もっと自分を勇気づけるよい結果であることを信ずる」と、彼は言っている。

 それから後の彼は、コンコードの家庭で、平穏な日を送っていたが、1849年には、ケープ・コッドへ旅をし、また、1850年には、カナダへ一週間の旅をした。また時おりは、ボストンに出て、大学の図書館から本を借りて帰ってきた。1854年は、彼の文学的生涯にとって記念すべき年で、「ウォールデン」が出版された。今度は処女作の場合よりも、ずっと世間的に成功し、二、三年の間に、全部売りつくされたらしい。しかしもちろん、今日に残るべき古典的作品として、その価値が正常に認められたわけではなかった。

 二、三の雑誌に批評も出たが、それらは、彼のことを「田園のペテン師」とか、「アメリカのダイオジニーズ」と呼んで、軽く扱っているに過ぎなかった。次の年すなわち1855年になって、ソーロウの健康は眼に見えて衰えはじめ、彼自身よりも、周囲の人々が心配しだした。彼自身はわりに平気で、相変らず、重いものを運んだり、長途の歩行を楽しんだりしていた。1857年になって、彼は、「二年間の病弱」について、回顧的な文章をつづっているが、その文章は、彼の健康が、今もって、思わしくないことを、はっきりと示している。そしてこの年に、彼の父は七十三歳で亡くなった。



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