見出し画像

かがやけ、野のいのち 第三回    星寛治

画像1

かがやけ、野のいのち  第三回  星寛治

とおく残雪のはう尾根を
田の面にうつしながら
出羽路の初夏があふれくる

農耕のリズムの高鳴りに
ふと 胸をひらきみる空の
めくるめく緑のうず
いのちもえる 土のやさしさ

いま 水明の野にしたたる汗が
まがいなく注ぐのは
民族のいのちの海
          (「萌える」)

画像2

目次
かた雪の上でのせん定
黒い土の香り
牛のお産
娘の受験
種まきのころ


かた雪の上でせん定

 三月のなかごろになると、白い雪原にときおり日が差すようになる。すると、やわらかなふわふわした雪が、表而のほうからしめり気をおび、すこしずつしまってくる。しかし、夜空がさえるようなときは、気温が下がってかた雪とよぶ状態をつくり出す。朝、外に出て雪を踏んでも、ほとんどぬからないようになるのである。

 わたしは待ちかねたように、長い柄のついたのこぎりとせん定ばさみをもって、リンゴ園に出かける。まだ一メートルぐらい雪が残っていると、ほとんど脚立をつかわないでも、たいがいの枝は切れるから、ずいぶん能率が上がる。

 せん定作業は、ムダな枝やこみあった枝を間引き、全体に日のあたるような樹形をつくるためにおこなう。それに、細かくはさみを入れて、のばす技、果実をならせる枝などを見分けながら、樹勢のバランスを保たせる目的もある。果樹栽培の最初のしごとでありながら、いちばんたいせつな作業だといえるかもしれない。せん定の良し悪しによって、作の七割はきまってしまうという人もいる。

 すぐれた技能をもったベテランになると、ほとんど考えるいとまなしに、あざやかに刃物が動き、たちまち一本の木が仕上がっていく。見ていると、いともかんたんに思えるのだが、いざ木に向かうと、そうたやすくはない。一本一本の木が、みんな個性をもって、ちがう体つき、ちがう顔をもっているからだ。二〇年以上もリンゴ作りをしているわたしでも、しばらく考えこんでしまう場面がしばしばである。しかし、判断が決まると、あとはかなりリズミカルに切っていく。一種のかんのようなものが備わってきているのかもしれない。

 わたしは、リンゴの木と向かいあって仕事をしているときが、いちばんしあわせだ。他のいっさいの雑念をふりはらって、リンゴの木と話をすることができるからである。一ヘクタールに育っている約三〇〇本の木は、新米百姓だったわたしが、クワの古木の根を掘りおこした畑に植えたものだ。あの細い一本一本の苗木が、二〇年たって、こんなにたくましく成長した。その間には、ほんとうにいろいろなことがあった。しかし、木は確実に太り、枝葉をしげらせ、花をさかせ、実を結ばせた。その顔を見ていると、みんな自分の子どものように思えてくるのである。

 昼ちかくになって日差しが暖かくなると、かた雪はすこしずつ溶けてゆく。動きまわる長ぐつの跡が、浅くくぼみを作るようになると、その雪溶けの冷たさが、足の裏からつたわってくるのだ。そんなときは、木の幹に登ったり、脚立に上がったりしながら足を温める。

 一方、つよい反射光線を毎日浴びていると、サングラスをかけた顔が真っ赤に日焼けしてくる。春先、リンゴ作りをしている農家の人は、顔の黒さでわかるのである。ほかの作業はともあれ、せん定だけは自分でやらないと気がすまない。一日じゅう、ひとりで働いていることが、いっこうに孤独でなく、夕暮れがせまるまでつづけても苦痛を覚えない。リンゴとわたしのふしぎな相性というものであろうか。

黒い土の香り

 三月も下旬になると、日ごとに暖かさがましてくる。ときたま、小雪をともなった風が吹くことがあったり、夜、春雷が鳴ることがある。このことを。春一番とよんでいる。
このころになっても、畑にのっしり雪が残っているような年は、ところどころ雪を掘って、スコップで黒い土をまく。あるいは木灰とか、モミがらのくん炭などをまいて、雪溶けをうながし、春をつくり出す工夫もする。

 近くの川原の瀬音がしだいに高くなると、日当たりのいい土手から陽炎がもえ、黒い土があらわれてくる。わずかに枯れ草ののこった土手に腰をかけると、土の香りがなんともいえず、なつかしい。よく見ると、もうフキノトウがポチッとかわいい顔をのぞかせている。やわらかい土を手のひらで握ってみると、意外にあたたかい。

 娘たちが摘んできたフキノトウを、母はさっとゆでて、すり鉢でつぶし、フキノトウ味噌をつくってくれる。それをあったかいご飯にかけて食べると、体のすみずみまで早春の香りが浸みとおっていくようだ。
 そのあとを追いかけるように、アサツキ(野生の細いネギ)、ヨモギ、カタクリ、モエ(アケビの新芽)などが萌えてくる。そうした野草の風味が食卓にこぼれるようになると、いよいよ春は本番なのである。

牛のお産

 わが家では、六頭ほどの乳牛を飼っている。そのうち一頭はジャージーという小柄な赤毛の牛だが。あとは全部白黒まだらのホルスタイン種である。
 アルプスの山岳酪農などで主に飼育されているジャージー種を、物好きにもわたしが入れたのは、その牛乳がたいへんこくがあり、おいしいからである。乳の量は多くは出ないけれど、ホルスタインの乳にくらべて脂肋分も、固形分もずいぷん高い。

 県内でたった一つ、ジャージー種だけを飼育し、その牛乳を市販している山辺牛乳というところにお願いし、ゆずってもらった子牛が大きくなった。そうして、はじめてお産する日がちかづいた。バンビのようにかわいい黒い目は、子牛のころと変わりない。二年あまり育てて、大きくなったとはいうものの、体つきは細身で、ひどく小柄である。ただ、乳房はバランスがとれて美しく、さすがに乳牛だな、という感じがする。

 いよいよ子牛がうまれる日、親牛は渾身の力をふりしぼって、ふんばる。牛のお産についてはベテランの、隣の須藤さんにお願いし、介助役をはたしてもらっているのだが、一時問たっても、二時間たってもときおり苦しげにふんばるだけで、うまれてこないのだ。目から大粒の涙をこぼしている。しだいに体力も弱っていくような気がする。

 わたしも、妻も、心配になりだした。娘たちも気がかりなのか、ときどき様子をうかがいに来て、
「まだうまれないの」という。
「こりやあ、どうもおかしいよ。獣医さんに見てもらったほうがいいね」
 須藤さんも打つ手がないという感じなのだ。わたしはすぐに獣医の先生に電話をした。ところが、夕方から親戚の人とお酒を飲んだので、車の運転ができないという。わたしは、
「すぐにお迎えにゆくから、なんとかお願いします」といって、かけつけた。

 先生専用の車には、薬とか医療器具とかが、いつもいっぱい積んである。その車をわたしが代わりに運転して、牛舎に着いたときには、あたりはすっかり暗くなっていた。もう小半日もがんばりつづけた親牛は、ぐったりして精根つきはてたようすに見えた。
「なんでこんなになるまで放っておいたのだ」と、一喝をくらってしまった。
 さすがに名医といわれる先生は、じつに敏速に処置をされる。
「こりゃあ、いつまで待っても生まれないよ。子牛が片手を折り曲げて、つかえているんだ」

 先生はお腹のなかの子牛の胎位をなおして、まもなく引き出すことに成功した。親牛は、最後の力をふりしぼって産み落としたのであった。
「ああ、子牛はだいぶ弱っているね」
見ると、かすかに息はついているものの、立つ気力もなくぐったりしている。小さなメスの子牛であった。母牛の乳をしぼり、すこしずつ一所懸命に飲ませてやったが、ついに立ち上がれず、二日めに死んだ。完全に手遅れだったのである。

 一方、母牛のほうは、お産後すぐに温かい味噌湯をのませたり、リングル液などの注射をしてもらったり、手当てのかいがあって、みるみる元気を回復した。乳も思ったよりよく出した。やがてわたしたちは、こくのあるおいしい牛乳を飲むしあわせを味わうことができたのである。
 牛のお産という一つの関門をくぐって、わたしたちは、人間と家畜という垣根をこえて、苦しみや喜びをともにした。牛が苦痛の波にもまれているときは、わたしたちも苦しかった。また、産み落としたときの安堵感は、家族とおなじように味わうことができた。

娘の受験

 わたしには、女の子ばかり三人いる。つまり三姉妹である。長女は、後継ぎという自党があるせいか、小、中、高と迎んでも、農業をやりたいという意志は変わらなかった。
 小学生のころは、あまり目立たずおとなしい子どもだった。それに自律神経失調症とかいって、いつも保健室で先生にお世話をかけるような弱いところをもっていた。家にいるときは、できるだけ野良しごとや炊事を手伝うようにしていたが、もうひとつ、たくましさに欠ける感じがあった。
 ただ、卒業を間近にひかえ、「将来、何になりたいか」という希望を問われ、「農業です」と答えたのは、五十五名の同級生で、彼女たった一人だった。

 中学校に入って、ふしぎに丈夫になってきた。運動神経はまるでダメなほうなのだが、マラソンのように持久力を要する種目では、顔を真っ赤にしてがんばった。バレー部に入り、いつも下積みで球拾いをやっていた。トレーニング・ズボンがすり切れて、ひざ当てをして、毎日暗くなるまで練習し、くたびれて帰ってきた。そういうときでも、妻は炊事の後始末はきちんとやらせた。

 三年のときに、娘はようやくレギュラーの一角にくいこんだ。町大会や郡大会で善戦するほど、チームはじりじりと力をつけてきた。
 中三も残り少なくなったころ、作文につぎのように書いた。
「父や母がせっかく苦労して育てたリンゴが、昨夜の台風で半分も落果してしまった。ほんとうに悲しくなってしまう。でも、わたしは自然と一体になって作物を育てることが好きだから、農業をやります」

 高校は、わたしと同じ学校に入った。夏場は、片道一時間ちかく自転車をこいで通った。冬の間だけ、米沢市内に下宿して、食事は自分でっくって生活した。
 二年生のはじめごろから、もう進路の相談がはじまる。娘は農学部を希望していたので、親はできるだけかなえてやりたいと考えていた。ところが、高三の夏休みを前にして、
「お父ちゃん、わたしを文学部に入れてもらえませんか」と、唐突にいいだしたのだ。

 一瞬、わたしは青くなり、ことばにつまった。これまで子どもに託してきた夢が、音をたててくずれるようであった。
「それは、どういうことかね」
「わたし、農業をすることには変わりはないの。ただ、大学の間だけ、児童文学をもっと勉強してみたいの。四年したら、かならず家に帰って後を継ぐから、わたしの希望をかなえてください」

 長女は、ひどく真剣に、しかし、口ごもりながらいう。わたしは混乱した。まったく予期しないことが起きたのである。しばらくして、わたしはようやく立ち直り、はっきりいった。
「おまえ、それは甘すぎるよ。わかいうちに自分の一生かけたしごとについて、しっかりした土台をつくることが大事なんだ。農業をやるなら、その基礎的な力をつけるために学問するのでなけりや、意味がない。それを、好きなことや趣味の部分をもっとやりたいからというのは、主客転倒だ。もっと頭を冷やして、よく考えろ」

 しかし、娘もよほど思い悩んで、覚悟をきめて切り出したのであろう。けっして後へひこうとはしない。「どうしても文学部に入りたい」と、いいはる。わたしは、だんだんきびしい、ひどいことばで娘とわたり合い、あげくのはては罵倒した。
 あまりの激しさに、妻はただ黙ってそばにいるだけであった。それは話し合いというよりは、親と子の火花を散らしたたたかいであった。

 何時間かがたった。ついに、わたしは決断した。
「おまえ、それほどいうのなら、いっさい自分の力だけで大学に行け。農学部でなければ、親はいっさい学資を出さないから」
 そうつっぱねて、寝てしまった。ふとんの中で、わたしは泣いた。きっと娘も泣いていたのにちがいない。娘のひそやかな願望を痛いほど知りながら、それを頭ごなしに拒否するかたくなな親が、自分自身の中にいる。しかし、「ここで譲歩したら、きっと娘は帰ってこなくなる」という予感が、わたしを支配していた。文学には、そういう魔力があることを、百も承知なわたしであった。

 反面、農の世界は、息の長い、きびしい積み上げが必要である。自然の予期せぬ変化だけでなしに、社会的な動揺にも耐えぬいていける底力を、わかいしなやかな感性と魂なかに刻みこんでおかなければならない。それは、わたしの百姓生活三〇年の歳月があたえてくれた確信なのであった。
 それからの長い夏休みの間、父と娘はほとんど口をきかなかった。その沈黙はつらく、悲しかった。沈みこんだ娘の表情から、苦悩のあとが読みとれた。

 二学期が始まって、しばらくしたある日、
「お父ちゃん、わたし農学部にきめた」と娘はいった。見ると、意外にさばさばした顏である。
「そうか、それならがんばれ」
 あとは何も語らなくともよかった。長いこと考えぬいた末での結論である。親の意見に屈したわけではない。自分なりに納得できるところにたどりついたから、元の明るい表情をとりもどしたのであろう。

 秋の文化祭に、自分でシナリオを書いた英語劇をなしおえたあとは、一心に受験勉強にうちこんだ。さすがに、三年の冬は、「毎日炊事に費やす二時間がもったいないから」というので、食事つきの下宿にかえてやった。
 そして、背水の陣でのぞんだ京都大学の農学部に、幸運にも合格することができた。彼女のあたらしい旅立ちである。わたしの尊敬する思想家、坂本慶一先生のもとで、「農とは何んぞや」という哲学を、しっかり学んできてほしい。と同時に、あたらしい農業をやっていくための基礎的な力、とりわけ土壌微生物学などについても知識を身につけて帰ってもらいたい。

 入学とともに、先輩からの誘いがあって、児童文学研究会、ユネスコ、有機農業研究会の三つのサークルに加入した、という便りがとどいた。「好きな文学は、農業をしながら一生かけてやればいい」という考えに落ち着いたのがうれしい。

 あれから二年、女子寮に入り、家庭教師のアルバイトをしながらがんばっている。米、味噌、野菜、果物など、家でとれるものは、必要なだけ宅急便で送り、食事は自分でつくつてまかなっているようだ。学内のサークルで借りた畑でつくった野菜も、ときどき食卓に上るらしい。環境にめぐまれて、精一杯のびのびと青春を送ることができるのは幸せだ。

 京都は遠いので、一年に四回ぐらいしか帰れない。けれども、秋の試験あけの休みが、ちょうど稲刈りやリンゴの袋はがしのいそがしいときと重なるので、ふうふう汗をかきながら、稲運びなどを手伝ってゆく。あるいは、関西の提携している消費者グループに、リンゴを配送するときには、奈良、神戸などに足を運び、いっしょに車にのってとどける仕事に加わったりしている。

種まきのころ

  さしもの大雪も、しだいに溶けていく。まわりの山々も、南斜面の日当たりのいいところから地肌をあらわしてきた。雪の重みで地べたをはっていたマンサクが、その細いしなやかな樹体をピンとはね上げ、まず黄色い小さな花を咲かせる。するとまもなく、コブシ、ヤマザクラなどが、山という山に明かりをつけたように咲きはじめるのだ。

 四月の初め、里前でもおおかたの雪は消えて、にわかにいそがしくなる。まず、保存していた種もみを取り出して、唐箕(とうみ)にかけてしいな(実のはいっていないもみ)を除き、さらに塩水選をする。これは塩水の比重の差を利用して、実入りの不十分な軽いもみが浮いたところをすくい取る方法である。つまり、完熟したよい種子を選別する仕事から米つくりははじまるのである。

 その種子を、こんどは十日間ぐらい水づけにする。眠っていたもみに刺激をあたえ、十分に水をふくませることによって、目をさまさせるわけである。むかしは流水を引いて温める専用の小さな池をつくって、そこにわらで編んだ袋に入れた種もみを浸したものだが、いまではドラムかんやおけなどを用いている。

 種もみは、水と温度と酸素をあたえれば発芽する。四月の半ば、水から揚げたもみは、半日ぐらい陰干ししてから風呂のお湯に入れて温める。一昼夜ぐらい、ぬるま湯にひたした後は、湯をぬいて二十五度から三十度ぐらいの余熱を保つようにすると、まる二日くらいで胚芽の部分がポチッと鳩胸のようにふくらんで、白い芽が切れてくる。

 芽出しの方法にはいろいろあって、たとえば温泉の蒸気を利用する法とか、堆肥の熱を利用する法、最近では電熱の発芽器などもつかわれている。わたしは長年の経験とカンで、風呂芽出しをして、ほとんど失敗はない。
かつて、水苗代や畑代に、ざるに入れた種もみをじかにまいた風景、たとえばミレーの「種まく人」のような姿は、いまは見られない。田植え機にセットする箱苗を仕立てるために、あらかじめ土をつめておいた箱に、納屋のなかでまくのである。まいた後に、またうすく土をかける。その箱をビニールのパイプハウスのなかにならべて、温度をかけ発芽させるのがふつうであるが、わたしはじかにたんぼにならべ、寒冷紗やビニールのトンネルでおおう。

 三、四日すると、青い芽が土のなかから出てくる。表土が乾くようなときは水をやったり、幌のなかの温度が高すぎたり低すぎたりしないように、かなり気くばりをして、乳呑み子を育てるような思いで見守っていく。日一日と芽がのび、葉がふえ、緑を濃くしていく育ちを見るのはうれしい。

 四月下旬、置賜盆地の春は、まるでせきを切ったようにあふれてくる。ウメ、スモモ、サクラ、ナシ、リンゴなど、木々の花がほとんど間をおかずに咲ききそう。畑には菜の花が黄色にもえる。長い冬を、こらえにこらえてきた生命が、ワッとばかりにふき出した感じである。そのころになると、草木の新芽がいっせいにもえ出し、野山はもえぎ色にうるんでくる。

 五月の初め、みちのくの自然がいちばんやさしい表情を見せるころである。深山の、あかいこずえを風にさらしていたブナの木が、いちはやく芽をふき、あわい緑をひろげていく。つづいて、ナラ、クヌギ、クリ、カエデなど、さまざまな落葉樹がもえ、葉をしげらせていくのだ。そういえば、スギ、マツなどの常緑樹も、いちだんとつやを増してきたようだ。
ひとくちに緑といっても、じつにさまざまな濃淡と、微妙な色あいの変化があることを知らされる。

画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?