見出し画像

開拓者よ、おお開拓者よ


 その日は雪が降っていた。どんよりとした灰色の空から雪がうるさく舞い落ちている。日曜の朝の渋谷はがらんとしていた。大通りが、ビルが、街灯が、信号機が、狭い裏通りが白くなって別の表情をみせていた。
 酒場「十四世紀」の前の通りは人で埋めつくされていた。千人をこえる数だ。ここで北海道に向けて旅立つ人々の壮行会が開かれるのだ。どっと歓声が上がり拍手がまき起こった。もうすでにその壮行会ははじまっていた。この日旅立つ第一陣のメンバーが一人づつ紹介されている。若い男も女もいた。中年の領域に入った男も女もいた。子どもも赤ちゃんも、そして老人もいた。彼らが新世界を切り開いていく先発隊なのだ。《雪をかきわけ、森を切り開き、測量し、コンクリートを打ち、木を組み、道路をつくり》《水はどうだ、電気はどうした、食糧は配達したのか、救急箱はどうした、モタモタするな、すぐ日が暮れる》彼らは開拓者なのだ。
 令子の名が呼ばれた。彼女は両手をふって群衆の拍手にこたえた。溌剌とした輝きが彼女の全身からたちのぼっていた。めざす目的をもった人間だけがもつ内からあふれる輝きがまぶしいばかりだ。彼女はいま新しい自分を創造するために旅立つのだ。
 葉狩が挨拶する番になった。彼は例のぼそぼそとした調子で喋りはじめた。ハンドマイクを通して流れてくる彼の声はなにかひどく安っぽくきこえる。
「おれたちは今日この雪のなかを旅立っていくが、まことにおれたちの門出にふさわしい日なのであって、おれたちの前途は雪のち雪、あるいは雪のち大雪であるかもしれない、まことに前途あいまいな船出だけども。おれは叫ぶというのではなくむしろ小さな声で鳴き続けていたのだけど、原爆の三発目もまた日本に落ちるということを。
「予言なんて当たるも八卦当たらぬも八卦なのだけど、もちろん当たらない方がいい、しかしどうもおれにはそんなものではないのだという気がするのだ。狼がくる狼がくるといくらはやしてたてても狼はこない、それならそれでいいのだ。しかしやはり言っておかなければならぬことは、日本はひたすら商品という物質を全世界にばらまくことによって巨大になってきた、商品を全世界に売りこむことによって金をせしめてきた、いったいこの商品とは何者なのだということなのだ。これは文明の利器であり、生活を快適にするものであり、人生を向上させるものであり、貧困や飢餓を救い出すものだという図式があるが、そんなことは嘘なのである。はやく走る車が生活を向上させることなどもない、鮮やかな色を写し出す大きなテレビが生活を豊かにするというのも、パソコンのネットワークが生活のレベルを引き上げるというのもまた嘘なのである。汗を奪い、想像力を奪い、感情を奪い、むしろこれらは人間の生を亡ぼしていくものであり、こんなものを全世界にばらまいて日本は巨大になってきた。
「なぜこれら世界をのみこむ製品をつくりだすことができるのかというと、日本人が優秀であり勤勉であるからではなく、機械と機構にあっさりと身を売ることができる体質をもった民族だからなのであり、優秀なのは機械と機構であわれ日本人はその奴隷であり、忠実な番人になっただけの話しなのだ。これらは一見侵略や攻撃と無関係にみえるが、これもまたまやかしであり、これら商品の下にあふれんばかりの侵略と征服と野望の牙が巧妙に隠されているのである。日本民族のなかに流れる血、骨のなかに脳のなかに腸のなかに細胞のなかに流れる拡大と攻撃と侵略と征服の血が、またもや巨大な帝国をつくりだしているのである。
「こんなに巨大にしてしまっていいのだろうかとおれがつぶやくのは、もしひとたび世界になにかが起これば、この巨大な経済圏を守るためにたちまち日本は軍事国家に転換していくことなど目にみえているのであり、そうなればたちまち日本人は、またもや一丸となって軍事国家に走りだしていくのである。それこそ日本人の体質なのであり、一度そうなったら止めるものはまた原爆ということになる。その道は二度とゴメンだというなら、民主主義とか平和憲法というあいまいなものではなく、もっと根源的なところで日本人を変革していかなければならないのであり、それには日本人の体質に低抗する体質を育てなければならないということになるのだ。すなわちおれが編み出した概念、NOの体質、否定の体質であり、否と叫ぶだけではだめなので否という存在がこの地上に立っていなければならないわけであり、この圧倒的な肯定の体質のなかに、ほそぼそとでもいい日本の各地に否という体質をもった存在が、杭のように立っていれば転落の道は少しは遠くなるというものである。
「どこかでおれは触れてみたが、もともと新聞というものは否という体質をその本質にもっていなければならないのだ。ところが日本の新聞はひたすら巨大になろうとしてきた。これほどまでに巨大にしてしまったら、それはもはや新聞とは呼べぬしろもので、何百万部という巨大な数を発行する巨大な機構になってしまった新聞には、金にならぬ小さな真実の声を、組織をあげて守り抜くなどということはできないのである。そして、一度なにかあればこの巨大な組織は真っ先に、その組織を守ためにまたもや日本人を戦場にかりたてていくのである。もし新聞が新聞の機能と精神をとりもどすならばもう解体をはじめなければならないのであり、六百万部ならばぱっさりと半分にして三百万部、いやそれでも巨大すぎるのでありさらに半分に割って百五十万部、いやいやまだ巨大すぎるのであり、それならば一気にそれを三等分にして五十万部程度にすればかろうじて人間の言葉でつくる人間の新聞になる。
「おれたちは誤解の目からもうさめなければならない。大きくなることではなく、小さくなること。小さいことは素晴らしいことなのだ。小さいことは力なのだ、小さいことは人間なのだ、小さいことは希望なのだ。おれは機械と機構という古き概念をもちだして日本と日本人を描いてきたのは、日本人の中心が機械と機構だからであり、いまなおあきれるばかりにそんなものに忠誠を誓っているからである。おれたちはものすごい勢いで農業を捨て、山を捨て、炭鉱を捨て、村を捨て、漁を捨て、都会に流れこんできたのは、部会にこそ富と幸福と平和と希望があふれていると信じたわけだが、なるほどそれは幻想ではなかった、それでよかった、それ以外の人生がどこにあるというのだ、多少の不満はあるが、それはどんな社会でもあるのであって、いまの幸福で十分、これ以上の社会は必要ないというのだ。鳥カゴのなかにいるからであり、日本人はカゴのなかの鳥であり、あわれ三十センチ四方のなかでの人生が全世界だからである。そこには毎日たっぷりの餌とたっぷりの水があり、さらには数多の敵から身をまもる安全な柵がある。幸福であり平和でありそれ以上のものがどうして必要なのだというわけだ。
「それならばそれでいい。しかしおれたちの烏カゴはどこに向かっているかというと原爆に向かっているのである。かつて日本人を鳥カゴに封じこめたまま原爆の道をひたすら走っていったが、またもや日本人は同じことをくりかえそうとしているのだとすると、おれたちはもう鳥カゴから脱出しなければならないことになるのだ。籠の外は寒く、餌はもはや自分で捜す以外になく、敵が四方から襲いかかってくる。それは当然なのであり、そこは大空なのであり、自由なる空を飛翔するには鳥カゴの生活と引き換えねばならぬものがいくつもあるわけである。
「おれたちは組織を否定するわけではないのだ。機械というものはなるほど人間を救い出すことができるものあり、機械というものが人生を向上させ生活を豊かしていくこともあるのだ。おれたちの手のなにあるとき機械、おれたちの道具となる機械。侵略ではない、拡大ではない、商品ではない、おれたちの手となり足となる道具をつくるための小さな工場がいくつも生れるだろう。おれたちにも機構というものが必要である。しかしそれは一人ひとりを生みだしていくための組織であり、杏という個性をつくりだしていくための組織なのである。集団でしかなにかをつくりだせない体質ではなく、集固のなかでしか安住できない体質ではなく、集団のなかでしか人間になれない体質ではなく、それと異なった体質を生みだしていく組織である。そんなものができるのかというからかいの声がきこえてくるが、やってみなければわからないではないか。
「おれたちは白紙からはじめていく。なにもかも白紙なのだ。おれたちはのろのろといろいろなことを考えながら手さぐりで進んでいく。農業とはなにか、産業とはなにか、自由とはなにか、経済とはなにか、国家とはなにか、軍隊とはなにか、税金とはなにか、社会とはなにか、家庭とはなにか、結婚とはなにか、教育とはなにか、宇宙とはなにか、科学とはなにか、技術とはなにか、人間とはなにか、と。おれたちはあらゆる事物の被源からはじめていくのである。おれたちの前途は闇のなかである。どういう結末がおれたちを待ち受けているのかわからない。おれたちになにかを生みだせるのだという強い確信があるわけではないのだ。しかし以前おれがはいずりまわっていた暗い出口のない地の底にくらべたら、はるかにおれたちの未来は明るく楽しいのだ。おれたちはようやく光の方に向かって歩いていくことができる。そこにはかすかに光があるのであって、それはおれたちの心がともすあかりなのだが、それを幻にするか真実の光にするかはおれたちの手にかかっているわけである。男も女もいま力をあわせなければならない。子どもも老人も力をあわせなければならない。おれたちいまおれたちの国をつくるために、静かにその船をこぎだしていくのだ」
 葉狩は例によってとつとつたんたんと語った。彼の吐き出す白い息が美しい。演技をしているわけではないのだが、群衆の前に立つ彼は、その容貌のなかに不屈さと繊細さを刻みこんでいて、なにか一枚の重厚な絵画をみるようだった。それからさまざま人たちの送別の言葉がのべられたが、そのなかである新劇のちょっと名が売れた俳優によるホイットマンの「開拓者」という詩が朗読された。
 
 こんなところで
 ぐずぐずしているわけにはいかないのだ
 前進しなければならぬ
 いとしい子供たちよ
 我らは危険の矢面に立たねばならぬ
 我らは若さに溢れる逞しい種族
 余人はすべて我らに頼る
 開拓者よ、おお開拓者よ



 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?