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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ     第19章 (その二)



       目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ

          第19章(そのニ)

 その夜、久しぶりに六本本に出て《赤と黒》にいった。宏予とそこにいくのは彼女がロンドンから戻ってきてはじめてだったが、彼女は一人で何度かやってきていて早苗と話しているようだった。早苗とはひどく馬が合うようだった。ぼくらが入っていくと、遠くのテーブルにいた早苗がとんできた。
「まあ、まだ鎌倉幕府とひっついているの?」
 彼女はぴたりと宏子の横に座ると、ぼくが邪魔だというようにひらひらと手を振って、
「言ったでしょう。もう鎌倉幕府はおやめなさいって」
「そんな扇動しているわけですか」
「そうよ。鎌倉幕府のつぎは室町幕府じゃないのよ」
「ひどい話だなあ」
「この人は、今度はあたしのものになるのよ」
「じゃあママが室町幕府だっていうわけですか」
「そうじゃないのよ。この人はね、もっと不良にならなければならないのよ」
「私はいまでも不良ですけど」
「まだまだあなたはガキよ。もっともっと不良になりなさい。あなたはそういう人間として生まれてきたのよ」
 と早苗はまったくぼくを無視して宏子に言った。
「あなたはまだ自分の姿をこの世にみせてないじゃないの。あなたの全身はまた地下に隠れたままなの」
「そうなのかしら」
「そうよ。あなたはまだ自分に気づいてないのよ。まだ自分の素晴らしさがわかってないの。自分を咲かせる方法がわかっていないからなのよ」
「もう咲かせる花なんてないと思ってしまうのよ」
「贅沢よ。そんなの贅沢病っていうものよ」
「きっとそうなのね」
「枯れることを恐れているからよ。枯れることを恐れてはいけないの。花は枯れるわよ。枯れることを恐れないじゃないの。花は知っているからよ。次の花を咲せるために枯れていくってことを。あなたも恐れてはいけないの」
「そうなのね」
「そうよ。こわいことなんてなにもないのよ」
「もう崩れていくだけのように思ってしまうの」
「崩れていけばいいじゃないの。どこまでも崩れていけばいいじゃないの。そこからじゃないの。ほんとうの戦いがはじまるのは」
「そうなのね」
「いいわね。今夜はあたしのところにくるのよ。帰っちゃだめよ」
 そして早苗は小さなステージに立つと、彼女の何番目かのつばめが弾くピアノにのせて歌いはじめた。今夜は御機嫌のようだった。機嫌のいい日、早苗はよく取巻きや気に入った客を自分の部屋に引き連れていく。そしてそこでまた飲んだり歌ったりするのだった。
 その日も店がはねたあと、早苗と彼女の取巻きがぶらぶらと裏通りを抜けて彼女のマンションに向かった。そこは《赤と黒》から歩いて五分の位置にある。玄関を入るとゆうに三十畳はある広い居間になっているのだが、壁面には天井まで本が張り付いていて、さながら学者か小説家の書斉のようだった。
 翌日が祝日だということもあって、この夜はあとからぞくぞくと人がやってきてちょっとしたパーティになった。彼女のツバメもいて、彼がピアノを奏ではじめるとダンスをはじめるグループもあった。緑さやかという女に誘われてぼくも踊った。彼女もまた〈赤と黒〉で歌っているシャンソン敷手だった。
「彼、また変わったんだね」
 早苗のツバメとなった新しいピアノ弾きのことをたずねた。
「そうなの。前のツバメさんはちょっと才能がありすぎたのよ」
「それで捨てられたってわけかな」
「ママの側から言えば捨てたっていうことなのよ」
「こんどの彼はそんなにルックスがいいわけじゃないね。なんだか年々質が落ちていくような気がするな」
「それは、言えてる、言えてる」
「お盛んなことだな」
「それがあの人の生きるエネルギーっていうわけ」
「しかし考えてみるとすごいことだな」
「そうよ。すごいことよ」
「君も真似するわけかな」
「ちょっと無理だわね。あのエネルギーはないわ。ところであなたの彼女、危ないと思わない」
 宏子と早苗は沈みこむようなソファーにぴったりと身を寄せてなにごとかを話しこんでいた。ぼくも気になって二人をみていたが、そのとき宏子は泣いていた。こみあげてくる鳴咽をしきりにこらえているように見えたが、たえられなくなったのか化粧室に消えていった。彼女はなかなか化粧室から出てこなかった。ぼくは次第に腹が立ってきた。宏子が出てくると有無を言わせずに彼女の手をとって外に出た。
「彼女にいじめられたわけ?」
「どうしてあの人がいじめるわけ?」
「君は泣いてたじゃないか」
「あの人、人を泣かせるコツを知っているのよ。やっぱりシャンソン歌手なんだわ。きっと人生っていうものがわかっているからなのよ」
「日本のピアフだなんて気取りやがって」
「あら、なんとなくそんな雰囲気があるじゃないの」
「君があんなふうに泣いているのは、気持ちのいいものじゃないよ」
「あの人は私のことをちゃんと見てくれているの」
「なにを見ているっていうんだ。あの女は口からでまかせに、ちょっとばかり文学的な言葉を並び立てるだけなんだ。彼女はずいぶん無責任なことをやってきたんだぜ」
 とぼくはいらだたしげに言った。
「でも、あの人ちゃんと見ているところがあるのよ」
「だったら、彼女がさかんに言っていた、ぼくと別れろっていう話しも信じるわけ」
「あんなことあなた本気にしているわけ? あれは冗談だってことわからないの」
「冗談だとは思えないね。あれは本気だよ」
「どうしてあなたと別れろなんてあの人が言うわけ? そんなことじゃないのよ。この前のことがあるの。あの人、私のこと裏切り者って言ったのよ」
「どうして君が裏切り者なんだ」
「あの人、私に会うために、わざわざロンドンにいっているの。でもそのときもう私は日本に帰っていたから、無駄足運んだってことになったわけ。あの人に何度か手紙を出したり、あの人から手紙をもらったりしていたの。でも日本に帰ってきたことは知らせていなかったの」
「君にわざわざ会うために行ったわけじゃないんだよ。彼女は年に一度は巴里にシャンソンを仕込みいくんだ」
「でもわざわざロンドンに立ち寄ったのは、私に会うためだったのよ」
「それで君が裏切り者になるわけか?」
「あの人が言ってることはもっと深い意味なの。戦うことから逃げ出した女になるわけ。リングにあがったのに、鐘がなると同時に逃げ出してしまった、あの人からみると私は卑怯な裏切り者になるわけよ」
「そんなことないよ」
「あの人からみれば、戦うことを投げ出してしまった女ってことになるのよ。自分を確立することから逃げ出してしまったってことに」
「君がロンドンから戻ってきたことをいっているわけだな」
「あの人からみれば、私はあそこで耐えてなければならなかっってことなの。あの仕事をやり続けなければならなかったの」
「君もそう思うわけ」
「あの人の言っていることはほんとうだわ」
「彼女ではなく、君は今どう思っているわけ」
「あの人に言っていることは正しいの」
「またロンドンに帰るっていうとことになるわけかな。だったらそうすればいいじゃないか。さっさと帰ればいいじゃないか」
「そういうことじゃないわ」
「そういうことじゃないか」
「私は今空っぽなのよ。なにもないのよ。ざっくりするばかりになにもないの」
「君は来年から先生になるんじゃないか」
「あの人、先生なんてやめなさいって言ったわ」
「まああの人だ」
「だって、私もそう思っているの。来年使う英語の教科書もらってきたのよ。それを眺めていたけど、意欲がわいてくるどころか、かえって駄目だなって思うばかり。私には人を教える力なんてないし、そういう情熱もないないって思ってしまうの」
「そんなことはないよ。人を育てることほど面白い仕事ないというじゃないか」
「そういう人もいるっていうことでしょう。でも私はそういうタイプの人間じゃないの。自分がこの地上に立っていないのに、人に教えるなんてことができると思うの」


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