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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ     第19章 (その三)



         目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ

           第19章(その三)

 そのことがあってから四日後だった。その夜も終電間際の電車に乗って大倉山に帰ってきた。階段を降り、改札を抜けたところで、その男に会ったのだ。
「これはよいところで会ったな」
 と藤野は言った。驚きでちょっと言葉を失っていると、
「ちょっと時間をつくってくれないか。ちょっとそのへんの店に入ろうじゃないか」
「残業残業で疲れているんですがね」
「君に渡したいものがあるんだ。いまここにもっているんだよ」
 ぼくは彼に後について駅前の通りにある小さな居酒屋に入った。看板間近の店はなにか疲れ果てたような空気が漂っていた。ぼくたちはまばらな客の視線から逃れるように片隅にあるテーブルの椅子に座った。
 向き合って坐っているぼくたちにほとんど会話がなかったが、注文した酒がくると、藤野は一口すすり、それから重そうに口を開いた。
「張り切っているようだな」
「ばたばたと動いてはいますが」
「ちょうどこの近辺に友人が住んでいてね」
 と彼は言った。そんなことは嘘だった。偶然の出会いならば、なぜぼくに渡すものがあるなどというのだ。それは前から用意されていて、それを手渡すためにずっとぼくを待ち伏せていたのだ。誰かにつけられていると感じていたのは本当だった。この男こそ影の正体だったのだ。
「最近の宏子がおれには心配なんだ」
「よけいなことですよ。その話しはしたくありません」
「そうはいかない。宏子はおれの婚約者なんだ」
「その話しだったら、ぼくは帰ります。あなたの話しなんか聞きたくないんだ」
 ぼくのなかにありありと蘇ってきた。ひどく蒸し暑い七月の昼下がり、渋谷のスナックバーで呪いをかけらたれように黒い言葉を浴びせられた。あのあとぼくはすっかりおかしくなってしまった。出口のない暗黒の時間をのたうち回っていたのだ。
「彼女が悲鳴をあげているんだ。その悲鳴が君には聞こえないのか」
「あなたは奇妙な人だな」
「奇妙といえば奇妙だろうな。宏子のことがすべてわかっているんだからな。どんなに離れていてもおれには手に取るようにわかる。彼女はいま悲鳴をあげているんだ」
「想像するとこは自由ですからね。そう思いたければそう思うのもいいでしょうね」
「結婚するらしいね」
「ええ、四月にね」
「無駄なことはしないほうがいいな」
「そうでしょうね。あなたからみればそうなるんでしょうね」
「言っておくが、彼女には自由になる金はないんだ」
「どういうことですか?」
「彼女は金持ちだよ。しかし彼女の金ではないということだよ」
「金と結婚するわけではありませんよ」
「なるほど彼女の父親と母親はちょっとした財産を残したさ。不動産はちょっとしたものだ。あの横浜のマンション、北軽井沢にもちょっとした土地があり、それにロンドンにある家も田島のものだ。なにしろ彼女の母親はやりてばあさんだったからね。しかしそれはおれと宏子の共同名義になっているわけだよ。その全部がおれのものであり宏子のものである。したがって君の分け前はないんだ」
「だからどうしたというんです。あなたはぼくをみくびっていますね。ぼくは彼女の金と結婚するわけじゃないんだ」
「なるほどそうかもしれない。しかし君はもうわからなくちゃいけないな。君たちは破局に向って歩いているんだってことをね。君には宏子を救えない。彼女もまた君を幸福にはできない」
 もう沢山だった。この男の呪いはヒルのように張り付いてくるのだ。あの時の苦しみが噴き上げてくるようだった。またぼくはおかしくなりかけてきた。またもや宏子を見失いそうになっていく。ぼくは立ち上がって去ろうとした。すると藤野はそうはさせないとばかりに、ぼくのジャケットの袖を掴んだ。
「ちょっと待ってくれ。君に渡すものがあるといっただろう」
 彼はショルダーバックのなかから、英字新聞に無造作にくるまれたものを取り出してカウンターの上に置いた。
「こいつを君に預けておいてもいいなと思うようになったんだ」
「なんです、これは?」
「あけてみたまえ」
 ずしりと重いものだった。おそるおそる開いてみると、そこから黒い鉄のかたまりがでてきて、ぼくはぎょっとなって彼を見た。藤野はちょっとからかっているようなかすかな笑いをつくってぼくを見ていた。しかしその目は笑っていない。暗い目の底にその鉄のかたまりと同じような冷たくひかるものを宿していた。
「そいつは宏子の父親がもっていたものだ。弾丸が三発入っているよ。修造さんが俺に渡してくれたときのままだ」
 これは芝居なのだとぼくは思った。まさかこれが本物の拳銃であるわけがない。こうしてこの恋に狂った男はぼくをおどかしているのだ。要するに宏子から手をひけという安っぽい脅しをかけているのだ。
「そいつは修造さんが肌身離さずもっていたものだ。彼は知っていたわけだよ。ある日突然、肉体と精神が崩壊する日をね。崩壊したまま生きていくなんてことはたえられないことだった。その日がくる直前に、われとわが身を打ち倒してしまおうとしたわけだよ。敵の手に渡す前に自身で自分を完結してしまおうという銃だったんだ。しかし彼はそうしなかった。彼は彼にふさわしい去り方をした。海こそ彼の母だったからな。海に彼は生命をかえしたわけだよ」
「その拳銃がなぜあなたのところにあるんですか」
「修造さんがおれの手に宏子をゆだねたからだよ。彼が立ち去る前の日におれを呼んで、宏子をたのむって言ってこいつを渡したわけだ。この拳銃がおれをずっと守ってくれた、この拳銃のためにおれはここまで自分自身でいることができた、この拳銃が悪魔からおれを守りぬいてくれた、次は宏子を守らなければならない、彼女は弱い女だ、だから君にこいつを渡す、君は宏子を守らなければならない、君の腕のなかで守ってやってくれ、そいつは彼女を敵の手から守るだろう、しかしもし彼女が力尽きて敵の手に落ちるときは、君はおそれずに、その引き金を引くのだ、彼女がそれを望んでいるからだ。修造さんはそう言ったのだ。わかるかね。この意味が?」
「ずいぶん奇妙な話だな」
 ぼくは不気味な恐怖でかすかにふるえながら言った。
「奇妙な話しさ。しかし宏子を愛するとはこういうことなんだ。彼女は君の手におえんと言ったことの意味だよ。彼女を愛するということは、この拳銃で守ってやるということだ。君にはそれができるかな」
「あなたは気が違っているとしか言いようがないですね」
 彼はふんと鼻をならして、小馬鹿にしたように小さく笑った。そしてぼくのなかを覗き込むように、
「君にはこいつをもつていく勇気があるかね」
「いや、結構です」
「宏子を愛いするとは、いつでも彼女をこいつで射ち倒すことができるかということだ」
「あなたは狂っているんだ」
 ぼくは外に飛び出していた。彼はまた罠をしかけてきたのだ。猜疑と憎悪と嫉妬で、ぼくをずたずたに引き裂こうとする卑劣な罠だった。その手にのらない。そう荒くつぶやきながら、彼の呪いを振り払うように歩いていると、するりと背筋を凍らすような恐怖に襲われた。あの三発の弾丸がこめられた拳銃は、もしかしたら本物かもしれない。あの男が幾度かぼくを待ち伏せていたのは、ぼくを射ち殺す機会をねらっていたのだ。あの三発の弾丸は、ぼくに射ち込み、宏子に射ち込み、そして彼自身の頭を吹き飛ばそうとするものだったかもしれない。この世にはふしぎなことがいっぱいおこる。恋のもつれ、情事の破局が血まみれの地獄になることは毎日のように新聞が伝えていることだった。そう言えばあの目はすでに地獄の底をのぞいてきたそれだった。
 宏子はまだ帰っていなかった。深夜になっても帰ってこなかった。その夜とうとう彼女は帰ってこなかった。疲れているのにほとんど眠れなかった。世が明けはじめると、アパートを出て、大倉山の駅に向った。空っぽの電車が空っぽのプラットホームにすべりこんできた。ぼくはその電車に乗った。ぼくは夢遊病者のようだった。
 桜木町でおりると駅前からタクシーに乗った。タクシーは白い冷気にくるまれているような通りを走りぬけ、裸の木立が立ち並ぶ坂道を上がっていった。赤レンガの建物もまだ深い眠りについていた。ぼくは二階にあがり黒い扉の錠を外して部屋に入った。宏子は居間のソファーで眠っていた。毛布で身をくるんだその姿は猫がうずくまっているかのようだった。ぼんやりとした顔をあげて、
「ああ、ごめんなさい」
「どうして帰ってこないんだ」
「昨日も遅くなってしまったの。大倉山に帰ればまたあなたと喧嘩になるわ」
「それでも帰るべきだよ」
「帰ればまたあなたにいやな思いをさせるだけなんだわ」
「だったら早く帰ってくればいいじゃないか」
「それはわかっているの。でも遅くなってしまうの。私は悪い女だわ。だんだん悪い女になっていくのよ」
「そんなことはないよ」
「私はもうあなたの奥さんになれそうもないわ。夜遊びはするし、お酒は飲むし、ぜんぜんいい奥さんじゃないのよ」
「そんなことはないよ」
「もうこんな女を捨ててしまったほうがいいのよ。あなたにふさわしくない女なんだわ」
「君はいまちょっと落ち込んでいるだけさ」
「そうなの。これはきっと鬱病で重病なのよ」
「だったらすぐに陽気な躁がやってくるよ」
 ぼくは彼女の肩を抱いた。彼女はひどく小さく感じられた。
「私はいま自信をなくしているのよ。なんだか全部に自信がないの」
「わかるよ。そんなときってだれにもあるんだ」
「あなたのために、もっと強くならなければ駄目だって思うの。もっとちゃんとしていなければならないって思うのよ。でも、なんだかずるずると足もとから全部が崩れていくみたいなの」
 あの藤野のことを話すべきかどうか迷っていた。しかしやっぱり話さずにはいられなかった。指を彼女の指にしっかりとがらめながら話したのだ。
「その拳銃の話しはほんとうだわ。それがパパを守っていたということも少しだけほんとうだと思うわ」
「そいつをもっていけと彼は言ったんだ」
「それでどうしたわけ」
「もってくるわけがないじゃないか」
「もらってくればよかったじゃないの」
「どうしてそんなものをもらってくるんだ。彼はこう言ったんだぜ。君がおかしくなったら、君にむかってそいつの引金を引くんだって」
「彼の言っていることは正しいのよ」
「なぜ正しいわけ」
「自分でなくなる前にそうしたいって私も思っているのよ」
「ばかなことを言うなよ」
「そんな予感がするの。なんだかとても間近に迫っているみたいだわ」
「なにが迫っていると言うんだ。そんなくだらない妄想にとらわれてはいけないんだ」
「妄想かもしれないわ。でも妄想ではないのかもしれないわ」
「君はいま自信を失っているだけだよ。それだけなんだ。君はぼくのものだよ。君はあいつのものではない。ぼくはぼくのやり方で君を愛するだけだよ」
 とぼくは言った。彼女もまたなにかがはげしくこみあげてくるのか、ぼくに腕をまきつけると、
「もっとそばにきてちょうだい。もっともっとそばにきてちょうだい」と言った。


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