見出し画像

翼よ、あれが巴里の灯だ  高尾五郎


 それにしてもジャックは俗物になったもんだわ。あたしが電話を入れたら、レリーズって、どこのレリーズだって。とんだご挨拶だわ。アイオワのレリーズよといったら、ああ、あのレリーズかだって、もう過去形よ、旧石器時代に生きた人物にみたいに、原稿を書き上げたのよ、取りに来てきてくれないって言ったら、いまはそんなドイナカくんだりまでいく暇はないんだ、昔と違うんだって、ふん、いつもアイオワに飛んできたくせに。あなたの作品は全部おれにまかせてくれ、書き上げたら真っ先におれに知らせてくれ、飛んでいくからってひれ伏すようにいったのに。ニューヨークよ、ニューョークのソフォーにいるのよ、ここなら車でひとっ走りでしょうって言ったら、だったら君がここにきてくれ、君こそひとっ走りでこられるだろうって、またムカつかせる。でも、今はムカつくわけはいかないから、彼のオフイスにいったわよ。さんざん待たしてやがって、やっと私を部屋に呼び入れたら、分厚い原稿の束にぎょっとなって、これはまた大作を書いたもんだなあ、しかし長ければいいってもんじゃない、今の読者は長いものは嫌がるんだ。それに文学というものは売れない。とくに君の書くような文学はね。いやいや、もちろん君の才能は高く買っているよ。とにかく君の才能はピューリッア賞もんだからな。その才能は高くかっている。しかし本当にいま文学が売れないんだって、だらだらと嫌味たっぷりまき散らしてあしらおうとするから、私はかあっとなったけど、いまは彼にすがる以外にないから、とにかく作品に目を通してみてよって、あいつにひれ伏すように言ってしまったのよ。ものすごい自己嫌悪に陥ったけど、もう私の財布はすっからかん、このままアドバンスがなければ、来月からホームレス。いまは彼にたよる以外にないから原稿を彼の机に上においてきたのよ。
 そしたらよ、ジャックたら、なんと翌日、ここに飛んできたわよ。部屋に飛び込んでくるなり、レリーズ、なんて君はすごいものを書いたんだ。恐るべきものを書いたんだ。いいかい、レリーズ、これがどんなに凄い作品か、わかっているのか。一挙にベストセラーだ。ベストセラー街道を幕進するよ。これはアメリカの英雄を、アメリカの神話を、完膚なきまで打ち砕く本だ。あのリンドバーグ・ジュニアの誘拐事件が起こったとき、アメリカがこの事件に一色になったらしい。新聞の一面は連日その報道で埋まり、アメリカの英雄の息子はどこにいる、われらの息子をみんなで探そうという大キャンペーンがアメリカ中から沸き起こったらしい。あの事件がアメリカ人にとって、どんな大事件だったってことぐらいおれたちの世代にもよくわかっている。あの誘拐犯人がリンドバーグその人だったなんて、まさか、こんなことがあるのか、まさに落雷が頭上に落下したってことだな。おれは思わずバスルームに駆け込んで顔を洗ったよ、こいつは夢を見ているんじゃないのかってね。しかし夢じゃなかった。これが真実だったんだ、おそるべき真実だったんだ。レリーズ、きいてくれるか、ちょっと出版社の感触をみようと、それとなくスクリブナー社のダンに探りの電話をいれてみたんだ、この作品をちらっとちらつかせた、ほんのさわりをね。そしたら、すぐにいいやがったよ、おい、ジャック、今日昼飯でも一緒に食わないかってね。ついでにハリー社のボブにも電話を入れてみた。ボブのやつもすぐに飛びついてきて、うちで出すよ、うちで出させてくれってね。これは凄い争奪戦になるぞ。どんどん値がつりあがっていく。十万か、二十万か、三十万か。いやあ、レリーズ、君はまったく凄いものを書いたんだって、ジャックったら興奮しまくったわよ。だから私は熱くなっていく彼に水をかけるよう言ったの。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?