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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 第7章

             

 第7章


  その日は雨が降っていた。山手町のマンションの居間の窓から、タブノキの鬱蒼と繁る葉群れがみえた。そのやわらかい緑に、新生の雨は降り注ぐ。葉群れは、喜びの歌をうたっているようだった。しっとりと降り続ける雨は、ぼくたちの心を平和にさせるのだ。
 宏子はあと二週間後に出発する。もう別離の時が秒読みにはいっていた。生木を引く裂くような瞬間が迫っている。そのことが、ぼくたちをさらに深く結びつけたのかもしれなかった。その旅立ちに、あんなに抵抗していたのに、いまではあきらめが大きくなっていた。宏子という一人の人間が、わかりかけていたからかもしれない。
 宏子の膝に頭をのせ、すべすべした脚に手を這わせたり、たわむれのキスを交わしたりしながら、ぼくたちは黄色くなったノートに書かれた文字を解読することに熱中していた。それはあきらかに瀧口の話の影響だった。ぼくは早速宏子に彼の話をしたのだ。彼女もびっくりして、
「瀧口さんが、あなたのボスだったなんて信じられないわ」
「ぼくもその話をきいたとき、君とは運命の糸でつながっていたのだと思ったよ」
「瀧口さんって、父の日本にいる唯一の友人だったのよ。父がなくなってからも、何度も足を運んでくれて、私のことまで心配してくれたのよ」
「美しいお嬢さんがいたが、どうしたかなって言っていたよ」
「それで、あなたはなんて言ったの」
「いや、ぼくたちのことはまだ話していないんだ。でもそのときひらめいたよ。君と結婚式をあげるとき、仲人を頼むのはこの人しかいないってね」
 それはまさしく謎解きのようなものだった。『植民地研究』とでも訳す題のついたノオトには、読みとることを拒否するような横文字がぎっしりと書きこまれてある。しかもそれが、英語だけではなく、スペイン語だったり、フランス語だったりするから、とてもぼくの手におえるような代物ではなかった。
 宏子が少しずつ英文にしていく。関係代名詞がどこまでも続き、さらに英語のもう一つの背骨である仮定法で、がっしりと組み立てられた難解な英文だった。しかし宏子を辞書がわりに使うと、その難解な文章もなんなく日本語に訳していけた。なぜそんな複雑な作業をはじめたかというと、宏子にけしかけられたからだ。
「あなたの日本語が読みたいのよ。編集者って、日本語の名人なんでしょう」
 と彼女は言ったのだ。そう言われて、意気ごんで訳してみたものの、たいした日本語にはならなかった。
 
《官能的な、イザベラとの出会いのあとに、謎の六年間がくる。この山師の生涯は、全編これ謎であるが、そのなかでも、とりわけこの六年間の謎は深い。それはこの期間を照らしだす照明が、ほとんどなかったという理由ではなく、乞食同然となって、諸国を放浪していたときに、おそるべき山師的拡大――それを詐欺師的拡大と言ってもいいが――を成し遂げたのであり、山師的拡大を成すことによって、きたるべきヨーロッパの卵をはらんだという意味においてであり、それゆえに、この六年間の謎は、霧のヨーロッパのように深いのである。この絶望のどん底時代に、いよいよ大きくなっていく奇想天外なハッタリを売りこもうと諸国を渡り歩くのだが、面白いことに諸国の王たちは旅芸人の笑劇を楽しむように、この山師の舌の芸を堪能したのである。
 
 当時外へ外へとむかっていたヨーロッパは、この男の雲をつかむごときペテン的言辞を生みだした下地を、十分につくりだしていたのであり、もはや世界は平べったいものではなく、東方には黄金の穂波がそよぐ国があり、西へ西へと突き進んでいけば、その黄金を掠めとって、再び同じ地点にもどってくるという新理論は、奇怪なうさん臭いものとして、世に流布していたのである(読者を第十巻に誘惑するのだが、西へ西へというところに御注目いただきたい。滑稽なことにこの新理論は、もし東へ東へと突き進んでいけば、海の滝に落ちるという古き常識を、まだ捨てていなかったのである)。しかし諸国の王たちは、競って彼を招き、彼のスピーチに腹をかかえて笑ったという事実は、彼の舌の芸がどんなにたくみであったかを物語っているのであり、おそらく世の多くの詐欺師同様、舌の手品師、言葉の魔術師であったと想像しても少しもおかしくない。山師とか詐欺師とかいったあやしげな人物は、もともと病的な妄想にとらわれるものだが、この男も生れながらして、誇大妄想狂という性癖をもっていたのである。

 誇大妄想狂患者は、その内部にうごめく大量のイメージに苦しめられるものだが、この山師もたぶん、ふくれあがるイメージの渦に苦しめられていたのであり、今日残っている言葉はいたってひかえめであるが、ひかえめにしたのは文字なのであって、彼の内部ではけばけばしい音色、たけだけしい音量に苦しめられていたのである。国王たちの前で、この山師は、静かにひかえめにもったいぶって語ったであろうが、一語一語吐きだされる言葉は、苦しみの爆発、脳細胞の爆発だったのであり、あたかもおのれの舌に、おのれの肉体がふりまわされるような、眩量にとらわれたにちがいないのだ。居並ぶ王たちや臣下たちは、鬼気せまるあまりの至芸に、思わずその舌にのってみようという誘惑にかられたのは、彼らがこの奇怪な山師のなかに、爆発の胎動をはっきりと見たからであった。この山師は暗黒のどん底時代に、たった一人で、ヨーロッパを爆発させるための記号、すなわち山師的拡大という理論を創造したのであり、この創造にくらべたらアメリカ大陸の発見などというものは取るに足らないものだったのである》

 苛立たしげに、走るようになぐり書きされた横文字。その乱暴な筆致は、他人が読むことを拒否しているようにみえた。いたるところが抹消され、そこから罫線が余白にむかって走り、その余白にはまたびっしりと書きこみがある。そんなノオトから、田島修造の思考の痕跡といったものを、一行一行掘り起こしていく宏子の力は、なみなみならぬもののように思えた。
 ぼくたちはその作業にすっかり夢中になった。その論文はいよいよ刺激的に展開していくのだ。
 
《一四八六年、イザベラはコロンブスと二回目の会見をするのだが、この会見ほど不思議なものはなく、その精神性その官能性において、ヨーロッパの頂点をなすものだが、いまここでは簡単にイザベラの掌の上に、一人の山師をのせたということにとどめておく。それは彼女の帝国にとって、小指に塵芥をのせたといった程度のものでしかなく、いわんやヨーロッパにとって、彼の存在など空気ほどの重量でしかなかったのだが、実はこのときから、ヨーロッパはコロンブス的拡大、すなわち山師的拡大をしていくのである。コロンブスが発見した記号、すなわち山師的拡大をなすための記号である植民地という理論は、彼の独走ではなく、彼以前の探検家たちが、上陸した地点に、発見と占領を示すための旗を掲げ、住民を統治し、はたまた本国から軍人や役人や商人を送りこみ、そこに駐屯地とよぶべき小社会を形成していったのであるが、しかしそれは征服と略奪のための単純な政策であって、それまで植民地という言語は、政治力学がつくりだした膨脹政策のただの記号にすぎなかったのである。
 
 この単純な記号にすぎなかった単語のなかに、政治や経済や文化、とりわけ宗教と理想という理念を流しこむことによって、ヨーロッパの爆発の形態を、その脳髄のなかで、その舌の上で最初に完成させ、さらに驚くべきことに、その最初の実践者がほかならぬコロンブスその人だったのである。世を驚愕させる発見は、いつも一人の天才によってなされるものだが、その天才を生みだすのは時代にほかならないのであって、植民地という記号も、またコロンブスという山師をうみだしたのも、成熟しはじめたヨーロッパだったことに相違ない。しかしもしそのとき、イザベラがコロンブスではなく、別の探検家か冒険家か航海者を彼女の掌にのせていたら、たとえ南北のアメリカ大陸が彼女のものになったとしても、けっしてヨーロッパの子供は生まれなかっただろう。成熟したとはいえ、いまだヨーロッパは単純であり野蛮だったのであり、事実野蛮な攻撃と単純な侵賂は、大規模に行われていたのである。熱烈なキリスト教徒であり、燃えるがごとき理想主義者であったコロンブスは、植民地という言葉のなかに、大量のキリスト教と理想主義を流しこんだのだ。
 
 それは結果的には、山師的拡大と野望の牙を隠すための白い布にすぎなかったのであるが、植民地というただの侵略と略奪の政治的言語のなかに、キリスト教と理想主義という血と肉をあたえることによって、植民地は新しい形態と生命を吹き込まれたのである。 新世界は発見され、地球はまるくなったのではなく、植民地というヨーロッパがつくりだした子供が、世界を発見し世界を開拓し地球をまるくしていったのであって、世界はまさに山師的拡大をはじめたのだ(植民地という形態の原理そのものが、詐欺的であるがゆえに山師的拡大とよぶのであるが、それは学問的ではないとするならばヨーロッパ的拡大という名称に譲ってもよい)。今日の歴史学者は彼の生きた時代を、輝かしい世紀、あるいは豊穣な時代、再生の時代──ルネサンスなどとよぶが、ヨーロッパ以外の民族には暗黒時代のはじまり、ヨーロッパ的拡大に苦しむ地獄の世紀の幕が、切って落とされたのだった》
 
 なかなかの難作業だった。半日かけて、そこまで訳すと、ぼくたちはくたくたになってしまった。しかし読みかえしてみると、なかなかの出来栄えで、ぼくたちは成功のキスをした。ちょっとした仕事をやり終えたという充実感でいっぱいだった。
「実に刺激的な展開だな。実に刺激な人物だよ」
 とぼくは言った。コロンブスではなく田島修造という男が、ぼくにはコロンブス以上の謎の人物にみえたのだ。
 修造が他界してから、もう七年もたつというのに、修造が使っていた部屋はいまだ生前のままにしてあるという。学者だった人の部屋にしては、所蔵されている本はわずかしかなかった。そのかわり地球儀の変遷をたどるかのように、古い奇妙な形をした地球儀がいくつもあり、片隅には二台ものこれまた時代物のチェンバロがならび、それらのかたわらには、さまざまなポーズをとる裸女の石膏やブロンズ像が乱雑に置かれてあった。
 その部屋には、イギリスから運び込んだという堂々たる執務机があって、その机の上に、二葉の写真をいれた額がのっていた。その一枚はパイプを手にした男が、苦く微笑んでいるポートレイトだった。痩せた頬、むしろ女性的な顎、しかし強い意志をたたえた鼻梁。その知的な面貌には、繊細で鋭敏な感情の持主だったことをしのばせる。パイプを宙で止めているその右手、かすかに笑いかけた微笑み、左手を軽く腰にあててつくる腕の妙に官能的な曲線、はるか遠くを見ているようなその目。それはすでにぼくが、この人物の歩いてきた道を知っているからなのだが、異国の生活が長く、ついに異邦人になってしまった彼の人生が、そのまま刻みこまれたかのようにみえた。
 もう一枚は宏子の母親の写真だった。彼女はぱっと花が咲いたように笑っていた。華やかで、快活な明るさが漂い、胸もとを大きくひらいたドレスからは、彼女の生命力といったものがこぼれるばかりだった。一家をささえ、貿易商として世界を渡り歩き、ロンドンに田島商会をつくり、横浜や香港にその支店をだしていったのは、この女性のたくましい力があったからだと思わせた。
 キャビネットのなかに、ノオトがうず高く積み上げられていたが、それこそ修造が、生涯をかけて書き続けていたノオトだった。
「瀧口さんが、このノオトに執着したのはよくわかるよ」
「父がなくなってからも、瀧口さんはとにかく一冊でもいいから本にしようと、何度も足を運んできてくれたのよ」
「瀧口さんにはできなかったけど、ぼくたちにはできるかもしれない。こうして二人で、コツコツと訳していくわけだよ」
「気が遠くなるほど、時間がかかるわね」
「膨大な時間をかけても、やってみる価値があるな」
「そんなことしてたら、あなたの時間がなくなってしまうわ」
「しかしなぜ日本語で書かなかったんだろうな。もし日本語で書いていたら、確実に本になっていたんだ」
「外国語の力を鍛えていくということがあったと思うわ。でも一番愛していたのは、日本語だったわけよ。だからこのノオトは、日本語を書くためのスケッチブックだったと思うの」
「しかし言葉って、使わなければ錆びついていくということがあると思うけど」
「そうなのよ。日本に帰ってきて、さあそのときがきたって書きはじめたとき、きっと暗然としたのかもしれないわね。肝腎の日本語がすっかり錆びついていたわけだから。その錆びついたものを落すために、もう一度日本語と格闘する力が、もう父には残っていなかったんだと思うわ」
「君はよく難波船というけど、その意味が少しずつわかってきたよ」
「私は父よりもっとひどい難波船なのよ。どこにむかって私の横文字は帰っていくのかわからなんいだから」
「イギリスにいけば、君はもっとひどい難波船になるかもしれないよ」
「でもこういうこともあると思うのよ。一級の英語を書けば、どこの港にだって入っていけるということが」
「そういうことはあるさ」
「イギリスの港にだって、アメリカの港にだって、日本の港にだって。おかしいかしら」
「おかしくないよ。君なら書けるよ」
 とぼくは落胆と、かすかな憎しみをかくして言った。すると彼女はぼくの腕に手をまきつけてきて、
「やっとわかったことがあるのよ、あなたと出会って。日本にもどってくるためにイギリスにいくんだってことが。日本にもどってくるために書いているんだってことが」
 ぼくの胸に猫のように顔をおしつけてきた宏子は、鼻をくしゅくしゅさせて言った。彼女の声はもう濡れていた。
「あなたにもどってくるのよ」
 こうして崩されていく。限りなく崩されていくのだ。
 ぼくたちはその夜、雨上がりの清潔な通りを歩いて元町に出た。ぼくも彼女も歩くのが好きだった。彼女は一人で喋っていた。一人で笑い、一人ではしゃいでいるようだった。そんな彼女と歩くのはとても楽しかった。派手な光りがあふれた通りを歩いていると、
「あそこに、父と母の田島商会があったのよ」
 と言った。そこはいまシューズショップになっていた。
「景気のいいお店だったみたいだな」
「そうでもなかったようよ」
「こんな一等地に店を構えるなんて。君がその店を継げばよかったじゃないか」
「彼がそう仕組もうとしたことがあったのよ」
「彼って?」
「和也さんが」
 彼女の婚約者であるあの藤野のことなのだ。
「どんなふうに仕組もうとしたのかな」
「つまり、和也さんが大学をやめて、私と組もうとしたわけ」
「彼が社長になるわけだな」
「そうじゃなくて、私が社長で、彼が店員よ」
 それで? とぼくはおしよせてくる、嫉妬と猜疑の渦のなかで訊いた。
「それで、その手にのらなかったわけ」
「どうして?」
「そんな手にのれるわけがないでしょう」
 ぼくの心は、一瞬のうちに暗くよどんでいった。恐れていた名前がまた出てきたのだ。一度もこの男の名は、ぼくのなかから消えることはなかった。それどころか、宏子に深く入っていけばいくほど、この男を強く意識するのだ。
「どうしたの?」
「どうもしないさ」
「どうして怒っているわけ?」
「怒ってなんかいないよ」
「じゃあ手をつないでちょうだい」
 こうしてまた崩れかけていくぼくを、彼女は救ってくれるのだった。しっかりとからみついてくる手が、すべてを語っていた。もう私たちには時間がないのよ、いまの私にはあなたがすべてであり、つまらない喧嘩なんかにこの大事な時間を奪われたくないのよ、と。もしかしたら彼女は、ぼくよりももっと大きな不安で、揺れ動いているのかもしれなかった。だからこそぼくの微妙な心の変化がよくわかるのだ。ぼくたちは微妙だった。さらさらと波立つ湖面のように微妙だった。
 レストラン《西洋軒》は、堀川をわたり、中華街を抜けた裏通りにあった。古い汚れたビルに、素っ気ないレイアウトの看板が取り付いていた。しかしこのレストランは、明治時代に創業された老舗だという。扉を開いて、一歩店に踏み込んでみると、そんな長い歴史が店内に刻み込まれていることがわかった。それでいて、現代的な新しいセンスもまたそこに織り込まれている。
 出迎えたウェイターに、宏子が名前を告げると、ぼくたちはとてもよい席に案内された。ガラス窓のむこうに小さな日本庭園がみえる。
「剛さんに、いま会えるかしら」
 と宏子がウェイターにたずねた。
「つよしさんですか?」
「そう、守口剛さん」
「ああ、社長ですか」
「あら、彼が社長になったわけ」
 と宏子はびっくりして言った。
 この剛という男と出会ったのは、彼女がはじめて日本の土を踏んだときのことらしい。もう十一年前のことだと宏子は言った。そのころ彼女が、よく出入りしていた元町のコーヒーショップで、テラスにならべられた椅子で本を読んでいると、剛が彼女の前にやってくると、口をきいたこともない関係なのに、いきなり「お前って、なんでいつも本ばかり読んでいるんだ」と言ってその本を取りあげたらしい。そして彼女の手を引いて外に連れだすとスズキに乗れと言った。彼女が結局、彼のバイクに乗ったのは、剛という人間に前から興味があったからだった。なんでもそのころの剛は、元町界隈ではちょっとした顔だったらしい。宏子を乗せたスズキは、怒ったように飛び出すと、夜の街道を切り裂くように突っ走って、横須賀を抜け、城ケ島に出た。海の波がひたひたとタイヤを洗う浜辺に立つと、それまで一言も話さなかった剛が、
「本のなかに世界があるんじゃねえよ。世界ってさ、本の外にあるんだぜ」
 と言ったらしい。
 その剛が、ある日突然、みんなの前から消えてしまった。どこに消えたか、なぜ消えたのか、だれにもわからなかった。いまアメリカにいるとか、ブラジルにいるとか、いや、そうじやなくて、スペインにいるとかいった噂が流れたが、その噂はぜんぶ本当だったことが、パリのレストランでコック修行をしているときにわかった。彼は北と南のアメリカ大陸を、バイクを駆って放浪しながらパリに渡ったのだった。
 そのパリでの修行にピリオドを打ったのか、八年ぶりに帰国して、父親の店で腕をふるっているから、一度たずねてこいという案内状が先月届いたというのだ。
 ぼくたちのテーブルに、オードブルがやってきた。茄子となつめと海老がこじんまりと寄りそっている。なにやらパリ帰りのデビュー作だと思わせる。メインデッシュは、牛のひれだった。ねっとりとかけたソースが、これは芸術なのだと言っているようにもみえる。甘さをおさえた苺と梨のタルトに手をつけていると、剛がテーブルをまわって、馴染みの客に挨拶をしていた。
 黒くやけた肌が、白いユニホームでさらにはえて、精悍な男にみえた。
「やあ、やっときてくれたな」
 と剛は、ぼくたちのテーブルにくると宏子にそう言った。
「ほんと、やっと帰ってきたあなたが悪いのよ。いったい何年ぶりかしら」
「ほんと、ほんと。まるでかわらないね」
「相変わらず、ガキっぽいわけ?」
「いやいや、なかなかいい女になったよ。しっとりして」
「なんだかあなた、とても紳士になったわね」
「紳士って、なんだよ」
「紳士よ。ぜんぜん大人になったわけよ」
「三十の男をつかまえて、大人はないだろう」
「ここにちょっとお座りなさいよ」
「いや、いまはだめだ。それよりつもる話をしようじゃないか。八年ぶりなんだ」
「そうね。話すことはいっぱいあるわよね」
「うん。山ほどある。十時に店をしめるから、どこかで飲んでてくれる」
 ちょっと戸惑う宏子に、ぼくは嫉妬にとらわれながらも、
「いいじゃないか」
 と言った。するとそれまで、ぼくを完全に無視していた剛が、親指を立てて、にやりとぼくに笑いかけた。
 北ホテルの地下にある《ロクシー》は、木の床をはった静かなバーだった。渋いレイアウトだったこともあるが、客の姿が奥のテーブルに二人きりだったのだ。泊り木にならぶ椅子に腰をおとすと、口髭をたくわえたバーテンダーがかわいた声で、ぼそぼそとつぶやいたが、なんだかその声は閑古鳥が泣いたようだった。
「マティニでも飲もうか」
 そのバーは、なんだかそんなカクテルを飲みたくなる雰囲気なのだ。
「ええ、いいわね」
 マティニをたのむと、その口髭男は、またぼそりと、かしこまりましたと言った。
 ぼくたちが二杯目をなめていると、剛が入ってきた。彼はまったく一変していた。紺のなかに淡い紫がまじったジャケットに黒ズボン。元町界隈に住んでいる人間のもっている、垢抜けたセンスがその全身からにおってくる。彼はぼくと同じ年齢らしいが、なんだかこの男の方がはるかに男として成熟しているように思えた。彼はバーテンダーを呼ぶと、ぼくたちと同じものを注文した。
 彼のマティニがやってくると、彼はグラスを宙に浮かして、
「なんに乾杯するかな」
「もちろん、あなたのお料理に」
「いや、この人のためにどうだ」
「ああ、それはいいわね」
 この無愛想な男は、ずうっとぼくを無視しているようにみえたが、実はそうではなく、ぼくにひどく気をつかっていたということがわかった。
「じやあ、実藤さんとの出会いのために」
 ぼくたちはグラスをぶつけた。そしてぼくも言った。
「ついでに、今夜の美味だった科理のために」
「そういう安っぽい台詞は、酒がまずくなるなあ」
「あら、ほんとうにおいしかったのよ」
「それじゃ、まあ、ありがとうと受けておくか」
「もうあなたは、日本に帰ってこないのかとも思っていたわ」
「おれも帰るつもりはなかった。しかし親父が脳卒中で倒れてね」
「それで、あなたが社長になったわけなの」
「あそこは一応会社組織だからね」
「あんなにお父さんに反発していたあなたが、お父さんの後を継ぐなんて不思議なものね。お父さんと喧嘩して、日本から逃げ出したってきいたけど」
「それは、ないよ」
「でもあのとき、大騒ぎになったのよ」
「何人もの女が、わあわあと泣いたって話はきいたけど」
 と彼は冗談を飛ばしたが、宏子は、
「それはほんとうよ。みんなしょんぼりとしちゃったんだから。どうしてあんなふうに突然消えてしまったわけなの」
「いろんなことがからみついていたんだろうが、あの頃のおれの生活はずうっとやばいと思っていたわけだよ。このままこんな生活をしていたら、おれは必ずだれかを殺すことになりかねないってね。いつも朝、おれが目覚めると、ああよかった、昨日はだれも殺していなかったと思うぐらいの日々だった。そんな自分が怖くなって、ぶらりと逃げ出してしまったんだ」
「それで、アメリカになるわけね」
「ロスからロッキー山脈をこえて一路ニューヨークだよ。ほとんどイージーライダーの世界だったね。強盗に出くわしたり、パトカーに追いかけられたりさ。ニューヨークには三か月ほどいたかな。それからメキシコに下っていくんだ」
「剛の走っている姿が、目に浮かぶわ」
「なんにもないんだ。きれいなほど、なんにもない。ただ一直線に伸びているその道を、ただひたすら馬鹿になって走るわけだよ。コロンビアから、ペルー、アルゼンチンヘと抜けた。そのあたりから、ギラギラしたものが消えていくんだ。だんだん卑屈になってきたというのかな」
「卑屈なのかしら」
「いい顔しているんだよ。あちらの人間は。まるで貧乏だけどさ、なんかほんとうに人間という顔をしているんだよな。どうもすみませんという感じで、自然に頭がさがるんだね」
「謙虚になったわけよ」
「そう。その謙虚というやつだな。とにかくそれまで何度も危機一発、これでオダブツかという場面を踏んでるからね。謙虚にならざるをえないわけだよ。それまでおれは、すぐにかっとなって、相手もおれもめちゃくちゃにしてしまった。そんなでたらめやってても、結構生きてこれたわけだよ。ところが、あのでかい大陸じゃあ、そんな生き方が通じるわけない。自分がすっかり変わっていったんだ」
「それで、パリになるわけね」
「そう。もしおれがその一年間の南北アメリカ大陸の横断と縦断という体験がなかったら、パリにいったってだめだったろうな。それこそ皿洗いからはじめるわけだからね。毎日毎日皿洗いだよ。明けても暮れても皿洗い。まったくむなしい時間が、永遠に流れるみたいだったよ。そんな無駄な時間が実は大事なんだってことを、おれはもう体で知っていたからな。あの大陸をただひた走りに走っていた時間が、おれを一人前にしてくれたってことになるんだろうな」
 宏子はしっかりと剛に目をからませて聞いていた。ぼくはこのときも、かつて二人は愛し合った仲ではないかと思った。宏子も剛も久しぶりに会った喜びで、その目をきらきらさせている。二人の表情に、愛が復活した喜びといったものだって読みとることができる。嫉妬の渦がぐるぐると湧きたってきた。ぼくの心は、ぐるぐるとねじれていき、あまりの苦しさに、ここから抜け出したいと思った。
 それなのに、彼らがこれから踊りにいこうということになって、ぼくも誘われるとそれはいいなと言ってしまうのだ。
《クレージーハウス》というクラブは、税関近くに立ち並ぶ煉瓦づくりの倉庫のなかにあった。秘密めいた通路を抜けていくと、鉄の扉がある。その扉を開くと、ロックのうなりが爆風のように飛び出してきた。体育館のようなだだ広い空間に、うるさいばかりの光が四方八方から飛び散っている。その光の渦の下で、たくさんの男と女が踊っていた。汗と煙草と酒と性のにおいが、世界がまだ闇のなかに隠れていた時代のことを思わせた。
 剛と宏子は、女や男たちに取り巻かれて、たちまち踊りの渦のなかに消えていった。宏子は剛に奪われてしまった。剛は宏子を奪っていってしまった。彼女は自由になり、ちょっと不良っぽくなった。踊る彼女は胸が焦がれるばかりにセクシーだった。
 喉が乾いたので、カウンターにもたれて一人でビールを飲んでいると、一緒に踊っていた女が寄ってきた。
「あたしも飲んでいいかしら」
「いいとも」
 ぼくは彼女のためにビールをたのんだ。
「ねえ、あなたの車、なあに?」
「ポルシェということはないわけだよ」
「まあ、そうね」
「ホンダだったらどうするわけだ」
「どうもしないよ」
「ドライブでもしたくならないか」
「もちろんいいわよ」
「一三五号線をずっと走っていくと、モーテルがたくさんあるじゃないか」
「あるよ」
「メイクラブするわけだから」
 女はうふふと笑った。笑うと女の年がよくがわかった。この女はまだ十七とか十八といったところなのだ。
「ぼくたちの車は、そこにすっと入っていくんだ」
「それもいいわね」
 と女は言った。
 踊る群れのなかから、宏子がぼくにむかって手を振っていた。宏子は美しかった。見知らぬ男たちの心を、たちまちとらえてしまったのだ。ぼくの宏子。しかし永遠に、ぼくのものにならない宏子。人を愛するとは、こんなにつらく苦しいことなのだろうか。愛するとは、こんなに激しい嫉妬に苦しむことなのだろうか。宏子はあまりにも美しすぎる。そしてあまりにも複雑すぎる。ぼくには重すぎる存在なのだ。この苦しさから逃げるために、この軽い女をつれて立ち去ろうという衝動がふと走ってきた。しばしこの苦しみから解放されるかもしれないのだ。
《クレージーハウス》を出ると、ぼくたちは海にむかって歩いていたが、ぼくの心は打ちのめされたように沈みこんでいた。
「守口剛って、なかなかいい男だな」
「そうね」
「なんだかとても味があるよ」
「あいつはへんなやつなの」
「君がへんなやつだと言うとき、それは最高のほめ言葉なんだ」
「そうなの。彼はとてもへんなやつなの。私がへんな女だから」
 そこから海の公園までほんのわずかな距離だった。そこはぼくたちがはじめてキスをしたところだった。あの夜は、刺すような冷気のなかだったが、いまは春のやさしさにつつまれている。何組もの恋人たちが、ベンチや欄干で抱きあっていた。遠くの船が、あのときのように、さびしい光を海に投げ出している。
「あの夜、君はここで泣いていたんだ」
「あのときからなのよ、涙腺がおかしくなったのは」
「こうしてしっかりと抱いていると、君はもう大丈夫と言ったんだ」
 長い静かなキスだった。接吻でもう一つの言葉を語るのだ。彼女の唇はささくれだったぼくの心をやわらげてくれる。彼女の唇にふれていると、彼女がしっかりと感じられる。宏子はぼくを強く抱きしめると、
「ねえ、あなた。私がどのくらい好きなの」
「どれぐらいかな」
「じゃあ、あなたが好きだなと思うだけキスしてちょうだい」
 とても長いキスだった。それなのに宏子はがっかりしたように、
「たったこれだけなの」
 彼女のキスはやわらかくやさしかった。あたたかくすべてを開き、すべてを投げ出している口づけだった。彼女がぼくを愛していることはまちがいなかった。そのことを彼女のすべてが語っているのだ。それなのになぜこんなに苦しむのだろうか。ぼくが小さすぎるからだろうか。人を愛することができないほど、ぼくは小さくけちくさい人間だったということなのだろうか。それは長い長い口づけだった。
「ねえ、これでわかったでしょう。私の方が何十倍も愛しているということが。あなたは私を変えていく人なのよ」
「君は変わっていくのかな」
「変わったのよ。とても強くなったのよ。泣き虫になったけど、とても強くなったの」
「帰ってあたたかいお風呂にでも入ろうか」
「それがいいわね」
「君を洗ってやるんだ」
「あたしもあなたのぜんぶを洗うのよ」
「うん。そうしょう」


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