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彼は廃馬だったのだろうか

 官舎に戻り、山荘に持ち込む衣類や食料や「矯正を考える会」が発行する機関紙や原稿やノートを整理しながら取り揃えていると、もう昼になっていた。それらの持ち物を十年も乗っている軽自動車に積み込み、引き戸の玄関わきに取り付いている郵便受けに投げ込まれていた郵便物を持って車に乗り込んだ。郵便物のなかに航空便があった。南米にいる娘からのものだった。その郵便物と今朝の朝刊を助手席に置いた。エンジンを入れた。スズキは気持ちよくエンジンを始動させた。

 車は山麓深くに入っていく。道はくねくねと曲がりながら高度を上げていくと、木立ちの間から湖沼が顔をのぞかせる。周囲が一キロもない小さな湖沼だ。熊笹がびっしりと密集している山道を上がっていく。軽自動車一台がやっと通れるほどの道だった。やがて栃の木の下に、片側傾斜の屋根に煙突が突き出している小屋が見える。そこが平沼のもう一つの棲み家だった。
その小屋を建てたのは無名の画家だった。その画家は一人この山荘にこもって晩年を過ごした。その画家が亡くなった。そして山荘が売りに出された。それを平沼と妻が購入したのだった。もう十年も前になる。その建物のアトリエは、二階まで吹き抜けのフロアーになっていて、陽光がいっぱい差し込むようになっていた。

 この山荘に入ると真っ先にしなければならない仕事ある。電気は通っているが水道は井戸からモーターで汲み上げるようになっている。そのモーターに差し水をして電源を入れると、濁り水が吹き出してくるがすぐにさらさらとした清水になる。バケツにその水を満たし、何枚もの乾いた雑巾をそのなかに投げ込み、水をかたくしぼった雑巾で、フロアーを拭いていく。梯子のような階段を上がると、二階もロフトになっている。窓をすべて開放しそこのフロアーも拭いていく。妻がいたときはそんな仕事も、二人で陽気に楽しみながら終えたものだが、一人だとずいぶん時間がかかる。
 その仕事を一段落させると、湯を沸かして、コーヒーを淹れる。山荘にキリマンジャロの香りがただよう。アトリエにおいてある椅子に座り、娘からのポストカードを手にした。マチュピチュのポストカードだ。

「父さん、私はあいかわらずげんきでやっていますが、明日からマチュピチュにいきます。日本の学術調査隊が、何やらマチュピチ近辺で、新たな巨大遺跡を発見したとのこと。早急に現地調査をせよという本国からの命令が下ってのマチュピチ行きです。そんなわけで、当分自宅が留守になりますが、ご心配なく。お元気で」

 マチュピチ。そのことば、その地名に、いつも平沼は心がえぐられる。痛恨の思い出があるのだ。妻が癌で入院する半年ほど前のことだった。茜のかねてからの誘いに、二人でペルー旅行を企てた。平沼は茜の働く国を訪ねてみたいと思った。妻の目的はマチュピチにいくことだった。その計画を二人でわくわくさせながら組み立てていった。しかしその計画はボツになった。刑務所の勤務状態では長期の休暇がとれないのだ。その後に直撃した運命の嵐のなかで、彼は何度もそのことを悔やんだ。たとえ刑務所をクビになっても、マチュピチにいくべきだったと。

 この小屋にも、妻の写真を額に入れて机の上に置いてある。笑顔の美しい妻だった。娘から届いたマチュピチュのポストカードを、その写真の前においた。法務省や矯正管区から派遣される調査宮たちは、いったいどんな尋問の矢を放ってくるのだろうか。テロリストを生み出したと、おれに制裁の処分がくだるのかもしれない。そしたら今度こそ長期の休暇をとり、妻の写真をもってマチュピチにいこうと思った。
 今朝の朝刊を広げた。その記事はすでに出勤前に読んでいた。平沼は新しい気持ちでその記事に目を這わせた。その記事を要約すると、
 
──日本の警察は、まず犯人逮捕が優先される。それが日本の警察の伝統であった。ところが今回は一挙に犯人を射殺してしまった。この事件は謎だらけであって、射殺されたことによって背後関係も闇のなかに消えてしまうのではないのか。すでに人権擁護団体から激しい非難を浴びているが、あの問答無用の射殺は本当に必要だったのか。決死の覚悟で平沼看守がレストランの扉を叩いたとき、犯人は「あなたたちを救出する人があらわれた。あなたたちはこれで解放される」と人質たちに告げている。すでにあのとき犯人は、投降する覚悟だったのだと。犯人の説得にあたった平沼看守はそのとき、狙撃部隊に向かって、打つな、打つなとさかんに手を振った。犯人を投降させるために、決死の説得工作に向かった平沼看守は、警察に裏切られたと思ったのではないか。
 
 森閑とした山のなかで、静かな気持ちでその記事をあらためて読むとき、平沼のなかに深い思索が広がっていった。あのとき平沼も興奮し混乱していたから、自分で何をしたのかまるで記憶がない。もしそういうことをしたなら、その新聞に書かれたようなことではなかった。平沼はあのような結末になることを覚悟していた。いや、あのような結末を望んでいた。

 廃馬は射殺される。廃馬は射殺しなければならない。魂の骨を折ってもがき苦しむ廃馬は、一撃でその苦悩から救い出してやるべきだ。
 しかし村松は廃馬だったのだろうか。犯罪は社会をするどく映し出すもう一つの鏡である。しばしば犯罪が、鋭く未来を予測する。犯罪が未来の道をつくることだってある。悪によって地平が切り拓かれることもあるのだ。とすると村松はわれらの時代に、新しい道を切り拓くために、天からやってきたジュピターだったのだろうか。

 小屋から湖沼が一望される。湖沼はさまざまな色彩を放つ。四季によって、時刻によって、天候によって。そして吹き渡る風の速さによっても微妙に変化していく。この日はどんよりと曇っていた。曇天の空を映した湖面は純色だったが、木立の映したあたりの湖面は暗緑色だった。場所によっても放つ色彩を変える。平沼はいつまでも湖沼に目やっていた。


 
 

 

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