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テレビが我が家にも登場してきた    菅原千恵子

 家族の中で、私だけが父の仕事につきあっていたせいか、暑い夏や、寒い冬の日など、父の仕事がかなり厳しいものであることは実感していたつもりだった。それなのに、洗濯屋でテレビを買ったというので、夜になると見せてもらいに出かけて行くようになっていた。母でさえ、「お笑い三人組」のある日だけは、見せてもらうことにしていた。いつも、ラジオを囲んで、家族の団らんがあったのだが、あちこちの家でテレビを買うようになると、我が家の団らんは、急に影が薄くなってきた。二人の姉たちは、自分たちの青春の出来事を受けとめるのに忙しくて、私と母がいなくなったからといって父の相手をしてくれるはずもなく、父は、案外孤独だったのかも知れない。それでも父は、テレビが一億総白痴化現象を引き起こすとばかり、自分の家にまで劇場を持ち込むことはないといってテレビの購入を頑固に認めなかった。
 
 ところが、ローマオリンピックが来年開かれるということもあって、とうとう私の家もテレビを入れることになった。同じ町内の電気屋で買い、小父さんが、室内アンテナの位置を調整してくれてやっと画面が映った時の感激は今でもはっきりと覚えている。白黒の、なんの変哲もない画面が映し出されると、私は思わず手を叩いてしまい、電気屋の小父さんは小父さんで、それをさも自分の手柄のように喜んだ。
「うれしいべっちゃなあ。どこさ行っても画面に映像が映ると子供はみな大喜びすんのっしゃ。待ちきれなかったもんだから」
 
 私は自分が小さな子供並みだといわれているようでちょっと恥ずかしくなった。父が、電気屋の小父さんに、「末娘がさ、夜、あちこちテレビを見せてもらいに行くのを見てると、もぞこくて、やっと家でも買う気になったんだよ」といっているのを聞いたとき、私が他の家のテレビをみに歩く姿は、父の目から見れば哀れに思えたのだと初めて気がついた。
 しかし今夜から、私はもうどこへも行かず、家の中で姉達とも一緒に見られると思うだけでうれしくてうれしくて、思わず拍手してしまったのだった。
 
 この年の四月十日に、皇太子殿下と正田美智子さんの結婚式があり、それがテレビで放送されるというので、私と母は、なんとかテレビを買いたいと父に願い出たのだったが、父は家族中がバカになるといって、譲らなかった。仕方がないので私たち町内の者は、大家でもあるあこちゃんの家で見せてもらうことになった。まだ洗濯屋にもなかったので、洗濯屋のおばちゃんからむっ子やゆっ子、薫や千秋の親子まで、あこちゃんの家に押しかけて、テレビの前に座ってみた。テレビはおくの座敷に、まるで大切なお客様のように鎮座しており、画面を大きくするためだというので、分厚い凸レンズのようなものが画面にかけられていた。
 
 あこちゃんのお母さんは、突然押しかけて来た大勢の客をもてなすために、お茶を運んだり、お菓子を出したりと大忙しで、ゆっくりテレビを見られなかったのではなかっただろうか。母が恐縮して、後でお礼にとこっそり何か持っていってたのを私はみている。子供たちも、初めのうちはおとなしくして座っていたが、そのうち、お茶だお菓子だと出てくる頃になると、飽き飽きして、特に、千秋や、薫たちは、男の子だったので動き回りたくてたまらない。座敷のとなりでレスリングのようなことをやり出した。
 
 一年ぐらい前だったらきっと私も一緒になってやりたいと思ったかも知れないのだが、去年の自分とは比べようもないほど心の変化があって、男の子たちのふざけを見ていても、もう一緒に遊びたいとかという気持ちにはならないのだ。そればかりか、あんな単純なことをしてなにがおもしろいんだろう、もっと静かにしてほしいと、軽蔑さえ感じながら離れて眺めている私だった。男女の差も感じず、なに一つ疑うことなく同じ次元で遊んでいた仲間に、たぶん自分の心の中でこの時別れを告げたのだと思う。ほとんど、この日を境に、薫とも、千秋とも一緒に遊んだという記憶がない。
 
 我が家にテレビが入ってからというもの、生活のスタイルが大きく変化した。朝ラジオをつけることに変わりはなかったが、夜は、ニュースも何もかもテレビがうけおってくれるので、テレビのスイッチがつかない日はなくなった。あんなに、テレビの購入に反対していた父も、いったんテレビが入るとよく見るようになって、意外にテレビ好きなのかも知れないと思ったりした。食事の時もテレビはついていて、家族の話題はもっぱら画面に流れているテレビに関係するものに変化していた。
 
 しかしそれはそれでテレビという新しいものが家族の吸引力として登場しただけであって、誰もが初めての体験に戸感いながら新しい闖入者を受け入れるため、そしてそれになんとか同化し、なじんでゆこうとしていたのだ。学校から帰ってくるなり、私はカバンを置くとすぐテレビのスイッチを入れ、母を嘆かせた。
「お父さんのいう通りだったね。本当に、ちいちゃんはバカになってしまう」
「まさかあ、そんなことないよ、だっておもしろいんだもの。お母さんだっていつもお腹抱えて笑っていたじゃないの。だったらお母さんだって、最初にバカにならなきやなんないんだよ。でも違うでしよ。だから大丈夫」
 
 こんな意味のない理屈をこねて、私は自分を正当化していた。テレビをつけると、相撲が映されていることが多かった。ラジオで一心に耳を傾けて聞いていた頃の相撲とは、ずいぶん違うように感じられ、がっかりしたことがある。千代の山と若の花の対決で、若の花が負けようものなら、泣いたことさえあった私は、ラジオの実況放送に、現実とは違うものを見ていたのかも知れない。ラジオの時の迫力や緊迫感が伝わらないのだ。いつのまにか、相撲に対する興味はなくなっていった。
 
 この頃は、まだまだテレビの番組も多くなくて、テストパターンとかいうので、虹のような画面の後ろで音楽だけが流れている。そうなると、初めてあきらめがついてスイッチを消すのだ。そんなことでもなければどれだけでも見ていただろう。日本中が、テレビという新しいメデイアに夢中だった。何かが新しく生み出されようとするときのエネルギイだけが、町中のあちらこちらに渦巻いていたのだ。
 
 当然、それは、私たちの生活にも浸透してきた。この年私の家には、電気釜、氷で冷やす冷蔵庫、それに、春に東京の伯父さんの家に行ったとき見てきて、これはいいものだからぜひ買おうと父がいって入れたのが、電気洗濯機である。たらいに、洗濯板を使って洗っていた母が、何よりも喜んだものの一つである。洗ったものを絞るときはゴムのローラーの間に布をはさんで送り出すという原始的な方法だったが、これまでの洗濯にかける時間は、比べようもないものだった。母しかできない仕事だったのが、子供の私でさえできるのだ。それでも、私の家で、洗濯機を購入したということは、洗濯屋さんにはしばらく内緒にしておくようにと母にいわれ、私はその約束を固く守った。各家々が自家用洗濯機を持ったら、洗濯屋の家業が成り立たなくなるだろうという、母の単純で浅はかな考えから出された結諭だった。



 
 

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