真田広之さんへの手紙 1
1999年
冬
役者真田広之はいつものように
ロンドンの町を走っていた。
なぜ自分は、今、ロンドンにいるんだろう。
真田は今でも不思議に思うことがある。
日本の映画界ではすでに
主役を張り続けていた男が、
一転発起して
ロイヤル・シェクスピア・カンパニーのリア王に
参加してすでに半年。
保守的なイギリス演劇界に身を投じ、
もがき、悩み、変わろうと努力する月日、
いわばそれは積み上げてきた彼のキャリアを、
ゼロに戻す冒険だった。
失敗すればこれまでの栄光を
一気に失うかもしれない。
それほどのリスクを承知で真田を動かしたものは
いったいなんだったのだろう。
イギリスが誇るシェクスピア演劇の殿堂
ロイヤル・シェクスピア・カンパニー
通称RSC。
世界中の演劇人が憧れる
格式と伝統をもった劇団である。
このRSCがミレニアム・シーズンの開幕作品に
選んだのがシェクスピア四大悲劇の一つリア王。
演出は蜷川幸雄。
日本人が演出するなんて、
保守的なRSCにしては画期的な試みである。
真田にある一風変わった脇役を
やらないかというオファーがあった。
拘束期間は七か月、セリフは英語。
リスクの大きすぎる話であった。
真田は悩んだあげくこの仕事を受けた。
守るよりも攻めることを選んだのだ。
これは真田広之という一人の役者が
イギリスのシェクスピア演劇という
世界に飛び込んで、
どうもがき、いかに戦ったかを、
その舞台裏から見つめた七か月の記録である。
真田
その仕事を受けなかった時には、自分はこの二年間、
どう過ごすんだろう、この機会を逃したら、
行き詰ったままじゃないかっていう思いがありましたね。
できるかどうかわからないけど、
とにかくやらずに後悔するよりは、
必死にもがいてみる、
価値はもう十二分にあるぞっていう
その辺ですかね。
真田は、今、ロンドン郊外のアパートで一人暮らしている。
毎日劇場に通うバスから街をみていると、
蜷川と出会った頃のことを思い出す。
リア王の話がきた二年前の夏、
そのころの真田は、仕事に対して漠とした疑問を抱いていた。
自分はこのままでいいのか、
現状に満足したまま歳をとっていいのか。
真田は四十歳を前に、自分をリセットできるような
強烈な目標を心のどこかで探していた。
そのきっかけを作ってくれたのが蜷川だった。
真田と蜷川との出会いは、今から七年前にさかのぼる。
真田
ぼくは蜷川さんの作品は
過去何作も見ています。
観客として楽しみながら。
しかし、蜷川さんと一緒に仕事ができるかっていうと
わからなかったです。
できるかできないかは、会ってみないとわからない、
でも、三日休みがとれた、
とりあえず稽古場をのぞいてみようってことになって、
二泊三日でロンドンまで会いに行ったんですよ。
蜷川幸雄
ある日、突然、真田さんがやってきて、
ちょっと話したいことがあるって。
ぼくはそのときクインズに住んでいたんだけど、
そこに来てくれって、
やってきた真田さんは、いきなり切り出すんだ、
一緒に芝居をやりたって。
真田
直感的に、今、この人と組んで
何かが作れるって勝手に思い込んでしまって。
蜷川さんは、何しに来たんでこいつって
感じだったと思うんですよ、その時は。
蜷川
その時はさほど私的に親しいわけじゃなかったから
驚いたわけですね、
たげど、二泊三日の休暇が取れたからって、
ロンドンに飛んできて、
一緒に仕事したいっていうこころ意気に打たれて、
よし、よしやろう、分かった、
それじゃ、ハムレットやろう。
真田
いつか誰かとやるであろうハムレットっていうのは、
今かもしれない、
この人かもしれないっていう思いで、
お互いに口にしたのが、同じ作品で。
蜷川
その公演を、イギリスでやりたいねって言って
それで、稽古に入ったわけですね、
蜷川にとって三度目のハムレットだった。
オフェリアに松たか子をあて、
決定版のハムレットを作ろうという
意気込みの蜷川に対して、
稽古開始直後の真田は最悪の状態だった。
蜷川
稽古のはじめは良くなかったね、
言葉が、まあ、レロレロになるし、
必ずつつかえる、読み合わせをしててもね、
ぼくにしては珍しく不安だらけで、
二、三の本稽古をやってみたけど、
すらすらいかない、どっかしらで必ずつっかえる。
声に感情が、声にうまく感情が入っていかない、
まあ、なんて不器用な俳優なんだろうと思って
これは失敗だなと思ったね、
それが二週間ぐらい続いて、これはダメだって。
松たか子
本番で出来上がったハムレットっていうのが、
最初からあったからというと、そうではなくて、
それにいくためにいろんなプロセスがあったとしたら、
あのスタートは、
私はやっぱりあれでよかったんだと思いますけど。
蜷川
映像なんかでやっている真田さんのいい演技が
一つも出てこなかったですね、
そして、いわゆる、なんていうか新劇っぽい、
翻訳的な演技っていう感じがしていたのね、
それがだんだんとれてきて、
そんなある日、
カチッと歯車があったというのかな、
真田さんとハムレットが
パッとフォーカスがあたった、
そういう瞬間が、突然、来たのね。
真田
最後になんか、役が宿る瞬間があって、
それが間に合うか、間に合わないか
いつも瀬戸際なんですけど。
松たか子
やっぱり、この人は、切れる瞬間があるなって、
切れる瞬間を持っている人だなって、
やっているうちに、そのことをすごく感じました。
自分は不器用な役者だと真田は改めて思った。
地味な努力を積み上げないと、
役と自分とを一つにできない。
しかし真田は開幕直前に見事に変身する。
そして今までにない華麗なハムレット像を作り上げたのだ。
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