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その事件の三日前

 その日もまた寺田洋治は八時になると局長室を出る。そして直行のエレベーターで地下三階に下りていく。それが彼の日常のパターンだったが、この日からこのパターンが変わってしまった。八時になると秘書官と二人の事務官が局長室に入ってきたのだ。その三人とともに廊下にでると、そこには二人のSPが立っていた。寺田はその五人を従えて、というよりも警護されて地下一階に下りていく。送迎玄関には局長専用車が横づけされているが、その前にパトカーが、その後ろに黒塗りの車がついている。この車も警察車両だった。寺田は専用車に乗り込むが、そのとき一人のSPがするりと助手席に滑り込んできた。彼の乗った車はパトカーに先導されて、世田谷にある公務員宿舎に向かうのだが、局長職の人間にこれほどの警備がつくなど異例のことだった。

 この日の朝のことだった。すでに組まれていたスケジュールのなかに、緊急に伝えねばならぬことがあると警視庁の管理官が、二人の部下を引き連れて強引に割り込んできた。そして携えてきたパソコンから照明を落とした壁に、一人の若者の像を映し出した。端正な顔をした目元の涼しい理知的な若者が静かな口調で話している。どこにも異常な事件を起こした狂気の様相はないが、パソコンの音量を上げるとこの若者はただならないことを話している。
 
 六か月前、ニューヨークの中心マジソン街に立つビルの中に、世界制覇の快進撃を続ける日本の衣料品販売メーカー「クニクラ」が大規模な店舗を開設した。その開店セレモニーにあらわれた「クニクラ」のCEO近藤仁が狙撃された。騒然となるその場を逃れたこの暗殺者は、店舗の前に止めてあった赤い自転車でブルックリン・ブリッジまで走り、その橋からハドソン川に身を投じた。その直後に彼の犯行声明がインターネットで流されるのだが、いま局長室の壁に投射されているのはそのときの映像だった。

「テンチューレンジャー、第一の天誅は、人間を使い捨てるシステムによって世界を征服していくブラック企業である。いまぼくはその心臓にとどめを刺してくる……」この若者はぼくと言っている。十七歳の若者だった。七分ほど流れる映像のなかでこの十七歳のぼくが、なぜ「クニクラ」の頭首を暗殺しなければならなかったのかを語っているのだが、テレビのニュースショーで何十回となく流されてきた映像だから、管理官は早々にその画像を打ち切り、次の人物を壁面に投射させた。

 女性だった。彼女も若い。十九歳のテロリストだった。彼女が襲撃したのは、和食の全国チェーン店を成功させ、さらに養老介護事業に乗り出して、全国に二千もの養老介護施設を擁する一大帝国をつくりだし奥田慶徳だった。お台場に立つ「オクダ・ホールディング」本社ビルの会長室で、このテロリストは奥田を銃撃すると、非常階段で屋上まで駆け上がりそこから身を投じた。その直後に生前録画されていた犯行声明がインターネットで流される。
「高齢化社会にあらわれた搾取のシステムによって、私たちは搾取的労働によってしぼりとる悪のシステムを天誅するときがきた」。女子高校生が、生徒会選挙に立候補したかのような演説口調だ。なにか懸命にひたむきに訴える彼女は青い果実のようだった。これもまた何十回なくテレビで流されているシーンだから、管理官は部下に次にと命じる。

「憲法改悪反対」「平和憲法を擁護」「平和憲法を守れ」「徴兵制絶対反対」「若者を戦場に送るな」「軍備を増強するな」といったプラカードが林立したデモの長い列が銀座通りを行進しているシーンが壁面に投射された。その先頭にはこのムーブメントのうねりをつくるために担ぎ出された文化人たちが歩いている。そのなかにノーベル文学受賞者、桐谷多平も歩いていた。壁面に投射されたシーンは、行進する桐谷に視点をあわせて捕えていたが、その桐谷を右手に紫紺の布を巻いている青年が襲いかかり、布で覆われた短刀が桐谷の胸を突き刺した。崩れ落ちる桐谷、暗殺者を取り押さえようとデモ行進者たちが襲いかかり、そのデモ隊を制圧あるいは警護していた警察官たちも飛んでくる。しかし暗殺者は彼らの手を振り払って逃走した。通行人を突きとばしながら猛然と逃走する暗殺者は、地下鉄の階段を駆けおりていく。そのあとを警察官やデモ行進者たちがこれまた猛然と追いかけていく。暗殺者はホームに躍り出た。追跡する者たちもホームになだれ込んできた。追い詰められた暗殺者は線路に飛び降りる。そこに電車がすべりこんできて暗殺者の肉体は砕け散った。

 その暗殺者もまた壁面に投射された。暗殺者は十九歳だった。この若者もまた理知的な光を放っている。どこにも狂気の思想を宿した若者には見えない。しずかな口調で画面を見る者に語りかけるように話している。
「彼らの平和運動、憲法擁護運動は持つ者たちのためものなのだ。持つ者と持たぬ者の二極化がいよいよ大きくなっていく。持たぬ者たちが希望のない、明日のない生活をしている、その現実を覆いかす持つ者たちの平和運動を粉砕しなければならない……」
 管理官はそのシーンも途中で打ち切らせ、次にと命じると、今度はスクリーン一面を埋めた文字が投射された。



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