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愛の挨拶

アンリ


「ゼームス坂物語」
        愛の挨拶


 それはゼームス坂分校にとって、ちょっとした事件であった。《君は日本海を見たか作戦》活動が大きく新聞に載ったのだ。写真も二葉も使われ、紙面の半分を費やすばかりの量だった。《不登校の子供たちの大冒険》という大見出しがつけられ、二週間のツーリングの様子が、分校の活動や子供たちの生活をはさみこみながら仕立てられていた。
 その日の朝、溝口茜という一人の高校生が分校を訪れた。笑顔がとてもきれいな娘だった。彼女はその記事に感動して、もういてもたってもいられなくて訪ねてきたと言った。この少女はさらに智子を驚かせるのだ。
「私なんかでも、この分校に入れるんですか」
「あなたは高校生なのよね」
「ええ、高一です」
「いまこの分校の生徒は、小学生と中学生だけなの。もし入ってきたとしても話し相手になる子がいないわよ。みんな小さい子ばかりだから」
 智子はちょっと困惑しながらこたえた。高校生が入校を希望してくるなど思いもよらぬことだった。
「それは全然平気です。新聞を読んで、私も分校に入って、自転車で走ってみたいなって思ったんです。遠征することによってすごい力がうまれていくと思うし。雨の日も、風の日も、みんなでトレーニングして、大きな目的にむかって突き進んでいくって感動ですね」
「自転車に乗るのは好きなの」
「いいえ、そんなに好きじゃありませでした。でもあの記事読んで、突然好きになりました。前からああいうことにあこがれていたんです。みんなでいつか中国大陸に遠征したりするんでしょう?」
「そういう計画もあるけれど」
「いいですね。そういうのあこがれです。何度か海外にいったことがありますけど、そういう冒険的な遠征ができたら、すばらしいと思います。それも小学生とか中学生とかがいて、男の子も女の子もいて、みんなで大きな目標にむかって突き進んでいくのって。そういうの好きなんです」
「そうね。それはとても感動的なことよ。いろんなドラマや感動があったりして」
「私は将来、先生になりたいんです。子供たちがすごく好きだし、子供たちのなかで生きていきたいんです。宮沢賢治に《稲作挿話》という詩がありますよね。あれほんとうに好きなんです。あのなかに〈雲からも、風からも、透明な力が、そのこどもにうつれ〉っていうところが。なんだかこの分校にはそれがあるような気がしたんです」
 その記事を書いたのは水野という女性記者だった。彼女の取材の仕方はとても誠実で、子どもたちやその活動をみつめる角度がいつもあたたかかった。彼女は取材どおりのあたたかい記事に仕立てあげてくれた。もしこの高校生がこの分校に宮沢賢治の詩を思いうかべるとしたら、それは新聞記者の書いた記事の力だった。
「いま学校にいってないの?」
 と智子は話を引き戻した。彼女の通っている学校は、世にいう名門校だった。
「全然いってないわけじゃないんです。いったり、いかなかったりで。そういうのが、自分でとてもいやなんです。はっきりと自分にけりをつけるというか、いったりいかなかったりという自分をきちんとするというか、こういう中途半端って全然よくないんです」
「そうよね。なにもかも半端になってしまうわよね。でも学校にいこうと思ったらちゃんといけるのね」
「ええ。自分を偽ればいけます。でも自分に偽ることができないことってあるじゃないですか」
「どうして自分を偽らなければならないの?」
 その高校生は、ひたむきな瞳を一瞬宙にはわせたが、その視線を智子にもどすと、
「私にはいま学校に愛する人がいるんです」
 智子はなんだか思わぬ話の展開に、ちょっと言葉を失ってしまった。何なんだこれは、という思いだった。
「国語の先生なんです。私はずうっとあこがれていたんですけど。でもその先生と文通したりしているうちに、その先生も私が好きだってわかって。なんだか毎日がすごく辛いんです。もっと好きにならなければと思ったり、好きになってはいけないと思ったりで、もう毎日、判断が振り子のように揺れて。その先生とはっきりと別れるために、もう学校にいってはいけないと思ったり、でもやっぱり学校にいかなければいけないと思ったり」
「それで、学校にいったり、いかなかったりになるの?」
「そうなんです。こんな状態ってよくないですよ。もうなんにも手がつかないし。毎日が舞い上がっているというか、ぽおっとしているというか。なんだか自分がどんどん崩れていくようで、すごく怖いし、いらいらするし。ほんとうにこのままでは、どこか危ない所に走っていくようで、そのことがとても怖いんです」
 恋に恋する年代なのだ。空想がさらに空想を湧きたたせていく恋だった。彼女は恋に恋しているのだ。智子はこの愛らしい少女の悩みを、なんだかひさしく忘れていた透明な風がふうっと吹き渡っていくような思いできいていた。私にもかつてこんな透明な風が吹き渡っていた時代があったのだ。
「こんなふらふらした自分がいやだから、思い切って学校をやめようと思うんです。そのためには、こんな私を受けとめてくれる場所というか、私が生きる場所が必要というか。私は先生になりたいから、大学にいきたいし、そんなことでずうっと迷っていたら、今朝の新聞をみて、これだって思ったんです。ああ、ここに私の求めていたものがあったって」
 智子はこの少女がさらに愛らしくなってたずねた。
「それで、その先生って、幾つぐらいの人なんですか」
「二十六です」
「二十六歳」
「はい」
「その人は、まだ結婚はしていないのよね」
「もちろんですよ、結婚なんてしてません」
 と彼女は怒ったように言った。
「女子校って男の先生は憧れの的よね」
「その先生は男ではありませんよ」
 と彼女は言った。智子はびっくりして、
「その先生って女性なの?」
「もちろんですよ。どうして男性だなんて思ったんですか。男なんていやらしいですよ」

ふるるるる5

 茜は智子とそんな面談をしたあと、そのまま分校に居座って子供たちのなかにとけこんでしまった。子供たちは、茜ちゃん茜ちゃんとまといつき、たちまち子供たちの心をとらえてしまうのだった。なんだか不思議な高校生だった。
 その日、実は分校は大変だったのだ。電話がひっきりなしにかかってきて、それは夜まで続いた。電話の量は翌日になるとさらにふえて、その週はほとんど電話の応対で一日が終わるありさまだった。さすがに二週目にはいるとその量もぐっと減ったが、それでも分校に入りたいがどうすればいいのかという問い合わせが、一日に四、五本はあるのだ。それは発行部数が数百万部というマスコミの力かもしれなかったが、この大きな反響はやはり悲劇の層がただならないことを語っていることでもあった。
 智子はそれらの問い合わせに、丁寧に応じていると、その電話の主たちは一様にいま直面している窮状を話す。どうやっていまの状態を切り抜けていいのかさっぱりわからない、家族ともどもノイローゼ状態に落ちこんでいる、このままでは一家で自殺するかもしれないとまで訴える電話もあった。
 智子はいまでも《不登校を考える全国集会》の役員をしていたから、その現象がただならぬ状態にあることを知っていた。彼女の小さな分校に救いを求める電話がこんなに多くかかってくる現象に直面して、子どもたちの不登校の現実が日本中に広がり渡っていることにたじろぐばかりだった。不登校はほんの数年前は、少数の子供たちに起こる、ある特殊な出来事だと考えられていたのだ。ところがこの数年、その数はなにやら加速度的にふえ続けている。
 こういう現象に、新たに起こってきた批判があった。その一つの批判がこの不登校現象は一つの流行だというのだ。マスコミはさかんに不登校現象があちこちでおこっていると報じる。しかもその報じ方が感情的で、煽情的だという非難だった。学校にいけない子にスポットをあてて、その子たちを人間らしさの象徴、正義の象徴として美化していく。
そしてその対極にある学校を、劣化や腐敗の象徴として、あるいは管理と悪の象徴として描いていく。不登校になった子供たちは肯定されるばかりか賛美されていく。マスコミの流すきわめてバランスを欠いた煽情的報道が、いよいよ不登校という風潮を助長させているというのだ。そんなムードが世にはびこっていくから、子供たちは学校でなにかちょっと嫌なことがあると学校にいかなくなる。だからいまの子供はどんどんひ弱になっていく。どんどん甘えたわがままな子供になっていく。親も子供も義務と権利をはきちがえた、甘ったれた社会的欠陥者がふえていくという批判だつた。
 なるほど、そういう分析だってできるかもしれなかった。間近で不登校になった子供や家庭をみるとき、そんな批判も当たっていると思うこともしばしばある。しかし智子は、その批判はやはりまちがっていると思うのだ。不登校にいたるまで、子供たちははげしい葛藤をくりかえす。その心の葛藤はついに肉体的な失調にまでおよんでいく。子供たちだけではなかった。親もまた精神のバランスを失って、一家そのものが苦悩の底に転落していくのだ。登校拒否という一つの現象がうまれるまでには、そこに死を思いつめるほどの苦悩があるのだった。いったいだれが地獄の苦しみに落ちていく流行などを追いかけるものか。この不登校の現象が、かくも広範囲におこっているのは、やはりなにか社会の深いところで、あるいは学校という場の深いところで、大きな地殻変動のようなものがおこっているのだと智子は思うのだった。
 あの新聞記事が出て以来、分校の見学者が毎日のようにあり、一人また一人と入校者が登録されていくとき、分校の存在、分校の理念というものをもっと深くとらえ直さなければいけないと思うのだ。宏美が学校にいけなくなって、苦悩と迷いのなかにあったとき、智子は藤沢にある《自由広場》を創設した谷岡のもとを訪れた。そのとき谷岡はこう言った。不登校がこれほどの大きな広がりを持ってきたのは、一つには日本の社会がようやく成熟してきたからだと。様々な価値観がもたれ様々な生き方ができるようになり、子供たちの世界にもおしつけを嫌う自由で解放的な力をもつ子供たちがあらわれ、はっきりと今の学校や学校教育を否定する子供たちが生まれてきたのだと。そのとき智子はまだ、その谷岡の言葉の意味をほんとうに理解していなかったのかもしれなかった。
 例えば、智子は《分校》という名前をつけた。そのことがなによりも語っているのだ。分校とは学校という本体があってそこに従属したものだった。本校にいけなくなった子供たちの逃避する場であり、本校で傷ついた心とからだを癒すサナトリウムの場であり、そこでの目的は、ひたすら子供たちを本校にもどすための活動をする場なのだと。智子のつくりだした分校の思想というものは、極端にいえばそういうことであった。だから子供が学校に再びいけるようになったとき、分校の使命もまた終わると考えているところが濃厚にあるのだった。そのことを痛烈に批判した子供がいた。正憲だった。彼ははげしくたたきつけるように分校を批判したのだった。
「おばさん、ここは学校より素晴らしい活動をするところだと言ったでしょう。ここにみんなで新しい学校を作るって言ったでしょう。それなのにちょっと力がついて元気になれば、すぐに学校にいってしまうんだ。どいつもこいつも裏切って!」
 と叫んだ正憲は、明らかに分校の矛盾と限界と、そして時代に立ち向かい、新しい道を切り開いていこうとする力に欠けた智子の思想の貧困といったものを鋭くついたのだった。

ふるるるる5 (2)

 毎月、分校の運営委員会が開かれるのだが、十月はその夜の会議の出席者は、塾の仕事がある長太をのぞくと、十四人全員が顔をそろえた。いつもは二人欠け、三人欠けたりする委員会だったが、それはやはり新聞報道があって、入校者が飛躍的に増えて、だれもがいま分校は一つの大きな転機にさしかかっていることを感じとっているからだった。
 いつも運営員会は、分校の広間に車座になってはじまる。それは会議というよりも雑談という雰囲気なのだ。智子はその雑談がちょっととぎれたところで、いまの分校の状態を報告した。
「電話が毎日のようにかかってきて、ちょっと落ち着きませんでしたけど、ようやくその電話もなくなってほっとしていますが。でも入校者がふえて、今月は七人も入ってきたんですね」
「すると、現在の総数は二十七人になるんですか」
「いえ、三年生の明君と六年のさとみさんが入りましたから二十九人になるんです」
 叔父が、すごいぞと叫んで、ぱちぱちと拍手をすると、それにつられて何人もの運営委員が手をたたいた。しかし叔父はまた、
「いやいや、これは拍手をしていいことなのかな」
「これは、やはり分校の活動が、評価されたということじゃないですか」
 と別の委員が言うと、野口という母親が、
「今年の春などは、子供の数が滅って、もう分校は廃止にむかってるなんて弱音を吐いていたのが嘘のようですね」
「でも、これはやはり喜ぶべきことではないんですね。それだけ悲劇が深いということですから」
 と智子は応じて、そしていま直面している悩みといったものを切り出した。
「この分校は、とってもあいまいなんです、存在理由というものが。いままでは小人数で、それは家族のような雰囲気のなかでの活動でしたから、それほどそのことを感じませんでしたけど、これだけたくさん子供たちが入学してくると、このあいまいさというものがすごく気になるんですね。分校は学校の付属物ではない、だからといってここで本格的な教育活動をはじめるべき場でもない。そんなことを父母たちは求めていないし、あくまでも学校に戻るための一つの休息の場というか、逃避の場というか、あるいは心と体を回復させるサナトリウムの場として割り切ってしまうのか。しかしそれでいいのだろうかと」
 するとそのとき、叔父が手を上げて、
「ちょっとおかしなことを訊きますけど、みなさんは何歳ぐらいでオムツがとれたんですか」
 とひょうきんな調子で切り出したものだから、広間はどっと笑いの渦になった。叔父はいつもこんな風にして周囲を笑わせるのだった。こういう風に一堂を笑いの渦に巻き込んでから、いつもはっとすることを切り出してくる。
「このなかで高校生のときまでおねしょしていたという人はいますか」
 またどっと笑いがおこった。
「そうでしょうね。たとえいたとしも、なかなか白状できないことですよね。しかしぼくは恥をしのんで白状しますが、実は高校の一年生のときまで、世界地図を布団にかいていたんですよ。ぼくはまるで呑気というか、それほど苦しむということはなかったんですね。しかしさすがに高校生になると、呑気なぼくもこのことが気なっていくわけです。高校生になってもおねしょする。次第にこのことが苦痛になっていく。自分は人間失格者ではないかとまで思いつめていくんですね。そんなときある本でね、世界的な数学者である日本人の学者が、自分は高校時代までおねしょしていたという記事にでくわすんですね。その記事を目にしてしばらくしてから、また同じ話に出会うんですよ。今度はノーベル物理学賞を受けたノイマンという教授が、またずいぶん高学年のときまでおねしょしていたというんですね。その二つの記事を読んで、ああ、ぼくは人間失格者なんかではなかったと安心するんですね。それから間もなくまるで嘘のように地図をかかなくなった。いい仕事をしている人たち、大きな仕事をしている人たちのなかに、高学年のときまで布団に世界地図をかいていたって人たちが実に多いんですね」
「面白い話ですね」
 と叔父の話にみんな感心する。
「これはちょっと奇妙な比喩かもしれませんがね。学校にいけない子供たちはこの寝小便となんだか似ているような気がするんですね。学校にいけないということは罪悪でもなければ脱落でもない。たしかに世間の道路からちょっとはずれてしまったが、しかしこの子たちがまぎれこんだ道は、実は大きく飛躍するための滑走路だったんじゃないかとね。ぼくはなんだか、この子供たちのなかから、なにか偉大な文化や発明や芸術というものが生まれてくるような予感がするなあ」
 すると弘が発言した。
「ぼくが、児童館の仕事をするようなきっかけをつくったのは、どうもつきつめていくと、小学校の五年生のときにさかのぼるような気がします。担任の先生が体調をこわして入院して、半年ほど学校を休んだんですね。そのとき代理の先生がやってきたんですが、その先生の授業というか、子供たちとむきあう姿勢というものが、それは実に素晴らしかったんです。その先生の授業で、いままでよくわからなかったことが、どんどんわかっていくんです。勉強するということは、こういうことだったのかという驚きの毎日でした。勉強ばかりではありません。その先生は休み時間に子供と遊ぶんですね。休日になるとみんなで先生のアパートにおしかけていったり。それがまたぞくぞくするばかりの楽しさだったんです。それはちょっと大袈裟に言うならば、なにかはじめて生きるということはこういうことなんだなあと思ったものです。そしてみんなにこんな力をあたえる先生という職業は、なんて素晴らしい仕事なのだろうと思いましたね。その先生と過ごした期間はたった半年でしたが、しかしその半年という短い時間のなかで、その先生は確実にぼくらの生命に届くような楔を打ち込んだのです。野島さんがいま突き当たっている分校の存在理由という壁は、これから一つ一つ突き破っていかなければならない壁ですが、しかしたった半年での出会いというか共有する時間によっても、子供たちは劇的に変化していくということがあるんですね」
 そんな話になったものだから、その日の会議は分校の活動をさらに充実させようということになって、新しい講座がその日に二つも生まれてしまった。一つは音楽活動だった。眞一をこの分校の活動に引き込もうと、以前から長太と企んでいた計画だった。もう一つはこれも叔父の提案で、アフリカを知ろうという講座だった。アフリカの歴史や文化を知るための講座だった。アフリカ遍歴でいわば自己を形成していった叔父が、講師になって組み立てられるのだ。

ふるるるる5 (2)

 突然、分校を訪ねてきて智子や子供たちに鮮烈な印象を残した茜は、それから一週間ほどしてまたとらわれ、また一日中、子供たちと遊んでいった。明日もまたきてよねと子供たちの熱い声に送られてその日は別れるのだが、しかしその翌日にも次の日も姿をみせず、もう茜はこないとみんなあきらめていたら、またぶらりとあらわれる。その間隔がだんだん短くなって、とうとう茜は分校の生徒になった。
 しかし茜は生徒というよりも、智子の助手のような仕事をしていたから、子供たちは茜のことを〈ちいママ〉と呼ぶ。この〈ちいママ〉は、いまや三十人をこえる子供を擁してしまった分校の活動を支えてくれるたのもしい担い手になっていった。
 その日また喧嘩があった。五年生の夏人と信彦と六年生の裕治だった。喧嘩も五、六年生ともなるとなかなか本格的になって、肉弾あい打つという状態になる。三人が入り組んで派手に蹴りをいれたり、拳を叩きこんだりしている。そのなかに飛びこんだのが茜だった。
「やめなさい! 喧嘩はやめなさい!」
「こいつが蹴りいれたんだろう」
 と裕治は、二人に躍りかかろうとする。茜は真っ正面から裕冶をだきかかえて必死に制止する。
「てめえが、さきに蹴りをいれたんだろう」
 と裕治は茜の制止をぶりほどこうとしながら、信彦や夏人に蹴りをくりだす。すると夏人と信彦が、ばしばしと拳や足をたたきこんでくる。
「あんたたち、やめなさい! 暴力はやめなさい!」
 と必死になって制止するのだが、三人の蹴りだか拳だかがばんばんと茜にぶち当たるのだ。
「もう、あんたたち、そんなにあたしに蹴りをいれて。私だって蹴りをいれたくなるでしょう」
 と叫びながら、もうそれこそ体を張って喧嘩をとめる。
 茜は、子供たちの奪いあうになるほどの人気だった。彼女はいつも十時頃、分校にやってくる。彼女の姿が門にあらわれるともうみんな、ちいママ、ちいママ、と叫びながらかけよっていくのだ。なにか相談があると子供たちは真っ先に茜に相談にいく。茜が散歩にいきましょうと声をかけると、子供たちもう金魚のうんこみたいにぞろぞろと後をついていくのだった。

 茜はいつも分校全体のなかで、いま自分が何をしなければいけないかをとらえていた。彼女は人気者だからいつも子供たちにどどっと取り囲まれてしまう。しかしそんな群れから離れている子供たち、いつも集団からはみだしている子供たち、一人ぼっちの寂しい子供たちにもやさしい目を注いでいた。そしていつもそんな子供たちの横にぴったりとすわりこむのだ。
 由香という子供が入っていた。由香は分校でも全く言葉を話さなかった。彼女は周囲の世界との断絶を語るように、いつも一人ぼっちだった。茜はその由香の横にすわって話しかけるのだ。
「由香ちゃん、どう思う。みんな私のことを、ちいママなんて呼ぶけど。おかしいと思わない」
 由香はそんな茜の話を無視するようにぶすりとしたままだった。しかし茜はさらに話しかける。
「ちいママだなんて、ここは銀座のクラブじゃないんだから、おかしいよね。そう思わない。でも不思議なのよ。みんなからちいママなんて呼ばれると、だんだんそんな気になってくるんだから」
 由香は依然としてぶすりと黙りこんだままだ。表情が少しもない。どんなに語りかけても反応はないのだ。しかし智子にはわかっていた。由香は茜に心をひらき、そして茜の話をしっかりと聞いていることを。智子には由香の後ろ姿ではっきりとわかるのだ。そんな茜をみていると、彼女が大好きだという宮沢賢治の詩、

 雲からも風からも
 透明な力が
 その子にうつれ

 という言葉そのままだと思うのだった。そしてこんな少女と巡りあわせてくれたのは、なにか天の配剤のようにも思えた。とにかく子供たちの数が一気に三倍近くにふえてしまい、その指導がずいぶんむずかしくなった。一人一人の子供たちに目を配り、一人一人の子供たちとかかわっていくことができなくなっていく。そんななかで茜の存在はとても大きかった。
 しかしこのちいママは、一か月に何度かぼかっと分校を休んでしまう。休むと三日も四日も分校には姿を見せない。だから休みのあと、茜が分校に姿をみせると、子供たちはわあっと歓声をあげてかけ寄っていって、一斉に非難を浴びせるのだった。
「どうして休むのよ」
「そうよ。休まないでよ」
「おかげで全部計画がぱあになったでしょう」
「ごめん、ごめん。私はどうも中途半端なのよね。みんなとの約束破ってわるい、ほんとうにわるい、私はわるいちいママだと思う」
「あの日、あたしたち、茜ちゃんを駅まで迎えにいったんだからね」
「そうよ、雨に濡れて、たいへんだったんだからね」
「そうよ、あの日、もうすごい土砂降りで、みんなずぶ濡れになったんだからね」
「おれもいったんだからな」
「ごめん、ごめん、ほんとうに許して。みんなにこの通りあやまります」
 茜はぺたりと床に座りこんで、何度もぺこぺこと頭をさげる。そして智子の所にやって来ると、
「先生、また休んですみませんでした」
 彼女は、智子のことを、子供たちのようにおばさんとは言わなかった。いつでも先生と呼ぶのだ。
「どうしてあやまるの。あやまることなんてなにもないじゃない。休んだときは、ああ、また茜さんは学校にいったんだなって思うから」
「学校にいくと、やっぱりきりきりと胃が痛くなるんです。でもここにくるときはもうすごく元気になって。人間のからだって、ほんとうに不思議ですね」
「それだけ、茜さんのなかに、学校のことがずしんと重くのしかかっているのね」
「こんなに苦しくなるのに、朝起きると自然に学校に足がむかってしまったりして。先生は自分をどんどんみじめにしていきたいって思ったことありませんか」
「みじめにする?」
「みじめっていうか、自分をどんどんそんなふうに追いこんでいくというか。どうせ自分はだめな人間なんだから、もっとどんどんだめにしていってやれといったような。そういうことってないですか」
「そういうのをマゾっていうのよね」
「マゾですか」
「そう。自虐趣味というのか、どんどん自分をいじめていくの」
「ああ、そうですね。そういうのって私にはとてもあります」
「それは若さの特権かもしれないなあ。自分はこの世に存在する意味なんかない人間だって、どんどん自分をいじめていくの」
「私もそうですね。自分をどんどん崩していって、そのことにものすごく快感があるというか。こんな風に壊していけばいいのかって。こういう所のいきつく先って自殺ですか」
「自殺?」
「ええ、自殺。自殺って快感だと思うんですよ。私は自殺にあこがれているというか。私って自殺する場所を求めて学校にいってるのかも知れないんです」
 この少女のただよわせる透明な明るさの下に、隠された微妙な心のひだを、智子は少しわかるような気がするのだ。青春がもっている謎や、青春の危機といったものを。その危機からにじみでてくるもろさを。

ふるるるる5 (2)

 それは茜が分校に入って二か月たった十一月のことだった。子供たちが分校から帰ってほっと一息ついて、夕食の支度をはじめたとき、思いもよらぬ人物から電話がはいってきたのだ。
「私は青葉学院の佐々木と言いますが」
「青葉学院?」
 智子は、ちょっとそれが分からなかった。
「溝口茜さんの学校ですが」
 電話をかけてきたその人物が、茜がはげしく慕っている先生なのだとわかると、智子はちょっとした緊張で、思わず受話器を握りなおしていた。
「実はいま大井町にいるのですが、少し時間をいただけないでしょうか」
 それは智子も望むところだった。しかしいったいなにがあったのだろうか。この二日ほど茜はまた分校にこなかった。学校でなにかあったのだろうか。智子はゼームス坂を自転車で駆けあがりながら、はげしく思いをめぐらすのだった。
 佐々木は駅の改札口に立っていた。その女性は、茜が心を投映するような気品といったものを、その容姿ににじませていた。挨拶もそこそこに、智子は彼女を静かな喫茶店に連れていった。
「茜さんは、このごろ野島先生のことばかり話すんですよ。もう先生は素敵で、私はああいう女性になるのって。女性として完成された魅力があるって」
 と二階の片隅の椅子にすわると、佐々木はそう言った。
「そんなこと言っているのですか。茜さんは」
「ええ。いまはもう野島先生のことばかり。野島先生を尊敬しているんです。私もまた先生にお会いしたいと思って。それで今日、思い切ってでかけてきましたが、お会いできてとてもうれしいです」
 智子は、茜との関係といったものを、それとなくふれてみた。すると彼女は堰を切ったように話し出した。
「私は高等部の教師ですが、クラブ活動の顧間をしていることもあって、中等部の生徒たちとも交流があったのです。茜さんが中等部の三年生のとき、そのクラブではじめて知り合ったんですが、そのときは、それほどの深い交流というものはありませんでした。茜さんが高等部に進級して、私の授業を受けるようになってから、なんというか急激に交流が深くなったというか、茜さんはそれはもう毎日のように手紙をくれるんです。茜さんの手紙はほんとうに素敵なんですね。たくさん本を読んでいるせいか、ときどきはっとするばかりの深さがあったり、しみじみと考えこませたり。でもとってもあたたかい手紙で、茜さんの手紙を読むと、幸福になるんです。私は大好きでした、茜さんの手紙が。ですから茜さんから手紙がこないときは、どうしたんだろうと思ってしまって」
 智子には、その茜の手紙が、よくわかるような気がした。彼女はいつでもすうっと人の心のなかにあたたかく溶けこんでいく子なのだ。
「茜さんはその手紙を、授業が終わると質問するふりをして私のところにきて、さあっと渡したり、私のもっているテキストのなかに差し込んだり、相談があるようなそぶりをして職員室にはいってきて、私の机の上にのせていったり、校門で私の帰りを待ちぶせしていて、さも偶然出会ったようなふりをして渡したり。私もまた茜さんに秘密めいたやり方で手紙を渡したりして。最初のうちは、それはごく普通の文通でした。学校でのこととか、友達のことと、テレビドラマのこととか、本の感想とか、そんな言葉書かれている手紙でした。それがだんだん茜さんは、私が好きですと書いてくるようになりました。そして私にも、茜が好きですか、と問いかけてくるようになるんです」
 智子は思わずにやりとしてしまった。そんなふうに悶え苦しむ茜が、なにかひどくかわいくいじらしく思えたのだ。
「その手紙は、だんだんはげしくなって、もう先生が好きで好きで毎日が苦しいばかりですとか、いつも枕を先生だと思って抱きしめて眠っていますとか、今日は何も書くことがありませんから、先生が好きって五十回書きますといって、便箋いっぱいに好き好き好きと書いて、私にも茜が好きですって五十回書いた手紙を下さいとか、だんだんエスカレートしていくんです」
 そこで佐々木はちょっと黙りこみ、なにか言葉をさぐっているようにみえたが、しかし思い決したかのように話しはじめた。
「実は私は、結婚を前提にして交際していた男性があって、その彼と今年の夏に婚約したんですね。そのことを私はずうっと茜さんに秘密にしていたことが、そもそもまちがいだったんです。その婚約をもっとはやく茜さんに伝えればよかったんですが、でもそのことが怖くて、なかなか切り出せませんでした。ずるずるしていたら夏休みがあけて、もうそのときは、婚約のことが学校中に知れ渡ってるんです。それで、茜さんに婚約を伝える長い手紙を書いて渡そうと思っていたら、茜さんは職員室にものすごく怖い顔をして入ってくると、ばたんとはげしく机を叩いて、手紙をおいていったのです。その手紙にはもうはげしく私を非難してありました。私がいるのに、そんな男と婚約するなんて許せない。もし裏切り者になりたくなかったら、その婚約を破棄して下さい。その婚約を破棄しなければ、私は学校にいきませんからって」
「そこから学校にいかなくなりだしたんですね」
「ええ。そうなんです。それも面白いことにというと、へんですけど、茜さんのクラスで私の授業がある日だけ、茜さんは学校にくるんですね。私の授業がない日だけ学校を休むんです」
「茜さんらしいわね」
「そうですか」
「やっぱり先生に会いたいんですよ」
「でも私には、それはとっても辛いことでした。私は何度も茜さんとそのことで話しかけたり、手紙を書いたりしたのですが、全然だめでした。そんななか、どこで知ったのか、結婚式のことが分かってしまうんです。私たちは二月に結婚します。そのことを茜さんに伝えなければいけない、どうやってそのことを伝えようかとぐずぐずしていた私が悪いのですが、婚約のときと同じように、クラスメイトからそのことが茜さんに伝わっていったんでしょね。茜さんにとってそれもまた大変なショックだったようで、先週の水曜日にまた手紙をもらうんですが、それがもうはげしい手紙で、なにか叫ぶように、結婚してはいけない、結婚すれば私は死ぬからって書いてあるです」
 分校でみる茜とはまったくちがった世界があらわれた。茜という少女がみせるもう一つの姿だった。しかし智子は、茜らしいなと思うのだった。なぜか智子には、茜の心の痛みがよく分るのだ。
「茜さんは苦しいのね」
「ええ。きっと苦しいんでしょうね。こんなに苦しんでいる茜さんのことを思うと夜も眠れないほどです。もしこのまま結婚式の日まで突き進んでいったら、なんだか取り返しのつかないことになるようで、思い切って結婚式を延期しようかとも考えるんです」
「でもそんなことできないでしょう」
「ええ」
「そんなことしたら、あなたの結婚そのものがだめになるわよね。相手の人だって、両方のご両親だって、親戚の人だって、お友達だって、そのスケジュールで動いているわけですから」
「そうなんです」
 すっかりこの若い教師が好きになった智子は、彼女を励ますように言った。
「こんなことって、若い時代によくある出来事だと思うのよ。振り返ってみると、茜さんみたいにはげしくはないけど、私にもよく似たような体験があったのね。中学時代に好きな先生がいたの。それもやっぱり女の先生で、私のあこがれの先生でした。その先生の言うことはもう何でもやってみたくなって、その先生が感動したという本は、すぐ本屋さんにいって買ったり、その先生が好きだっていった食べ物を私もまた毎日のように食べたり。それは今から思うと、やっぱり恋愛感情でしたね。人間ってそうやって成長していくものだと思うのね。それはだれも一度は通過していく、一種の青春という時代の病気のようなものじゃないかしら。茜さんはその病気がちょっと過激なかたちであらわれたと思うのよ。でもそれも自然に通り過ぎて、そして自然に消えていくものだと思うわ」
「それならばいいんですけれど」
「大丈夫よ。茜さんはとっても賢い子ですよ。しっかりと自分と世界を見つめることができる子ですよ。そんなふうに過激な手紙を書いてしまうのは、遠くにいってしまうあなたにいま思いっきり甘えようとしているように思えるの。だから大丈夫。ほおっておいても」
「そうですか、大丈夫ですか」
「でも連絡は密にしておきましょう。茜さんは分校にいないときは、学校にいっているのだし、学校にいないときは分校にきているわけだから」
「そうですね。そうします。ご迷惑でしょうが、お電話をいたします。これからもよろしくお願いします。先生とお会いできてほんとうにうれしかったです。なんだかほっとしました。ずしりと肩にかかっていたものがとれたようで」

ふるるるる5 (2)

 今年の藤沢の《自由広場》のクリスマス会は、十二月二十日に行われることになっていた。そのクリスマス会は年々さかんになって、昨年などはその地域にある私塾や子供会や青年会など八つものグループが参加して、ちょっとした規模の文化祭になっていた。出し物もまた年々に高度になっていって、それぞれのグループがその日をめざして、相当力をいれた活動をしていた。
 分校でもまたはやくからこのクリスマス会に取り組んでいたが、今年は強力な援軍がいた。眞一だった。新しい連続講座の担当者として、ギターをかかえてのりこんできた眞一は子供たちをみるなり、
「いよお、これがうわさの不登校児童どもか。どいつもこいつも落ちこぼれたってツラしてやがって」
 それが眞一の分校での第一声だった。この青年の登場は子供たちにとって驚きそのものだった。彼らの生活のなかで、こういう青年に出会ったことがない子供たちには、なにやら眞一ははるか彼方の世界からやってきた異星人のように思えたようだった。だから子供たちは、彼に異星人というあだ名をつけた。
 月一度の講座だった。しかし眞一はまるで真剣勝負するような小さなコンサートを開く。ハーモニカをむせび鳴くように吹き、ギターをかきならし、そして歌いこんでいく。それはいつも子供たちを呆然とさせるばかりだった。毎回そんな彼の気合いの入ったステージをみて、智子は言ったものだ。もっと軽い気持ちでやって下さい、なんだか見ているととっても辛くなるからと。すると眞一はこうこたえるのだ。
「おれがアマチェアであったら、それでもいいんですけど、おれはプロですからね。ガキってものすごく鋭いでしょう。偽者なんてすぐに見破っちゃうからね。こいつらになめられないためには、本物でぶっとばす以外にないですよ。おれはこいつらと殴りあいするみたいに、おれのロックをこいつらのどてっ腹にたたきこんでやろうと思ってね。ロックをなめんじゃねえよ。おれのギターをなめんじゃねえよって。まずそこからはじめていきますよ」
 この分校で取り組んだ彼の講座は、眞一にとっても変革の場であったのかもしれなかった。この活動がしきりに眞一の創造力をかきたてるのか、次々に新しい歌を作り出して、そのミニコンサートで歌われていく。分校の校歌となってしまった《いいか、ここは世界の中心なんだ》という歌も生まれた。クリスマス実行委員会がつくられると、子供たちはだれもがその歌をステージで歌いたいと言った。

 十二月に入ると毎日が、この歌の練習だった。子供たちはピアノを弾く茜を取り囲む。そして歌いはじめる。子供たちの大好きな歌だった。

 悲しみがぼくたちの胸につまり
 涙もながれないばかりにさびしく
 ぼくたちはうつむいて歩いていた

 茜の指導はなかなかのものだった。
「そうそう、そこで静かに静かに、やわらかくやわらかく、でも力を自分のなかにいっぱいためこんでいくのよ」
 とか、
「だめだめ、叫んじゃだめなの。歌って叫んじゃだめなの。心のそこからわいてくる喜びを歌うの。あふれるよろこびを全身で歌い上げるの」
 茜の要求はすごくむずかしい。子供たちは、なんだかわけのわからないその要求にこたえて、最後のフレーズを、茜のいう歓喜あふれるばかりの声で歌ってみるのだ。

 悲しむな
 もう泣くな
 いいか、ここは世界の中心なんだ
 ゼームス坂の裏通りの
 ちっぽけな分校が
 いいか、ここが世界の中心なんだ

 子供たちのそんな練習風景をみながら、智子は教師時代のクラス対抗の合唱コンクールを思い出していた。朝六時に登校してきて歌の練習をした。それが一か月も続いたのだ。そしてその合唱コンクールで彼女のクラスが優勝した。そのときもうみんな抱き合って泣いたものだった。女の子たちはもちろん、男の子たちの目からも涙がぼろぼろあふれでていた。あの感動が再びよみがえってくるのだ。
 クリスマス会が近づいてくると、眞一も毎日のようにやって、子供たちを指導する。三十人の子供たちだれ一人脱落することなく、一丸となって燃えあがり、分校の今年の出し物は、力あふれるすばらしいものになっていった。

ふるるるる5 (2)

  それはクリスマス会にでかける前日の夜だった。あの佐々木からまた電話があった。もう夜の十時を過ぎているというのに、大井町の駅に立っているというのだ。なんだかその電話の気配にただならぬものがある。智子は自転車に乗って、ゼームス坂を駆け上がっていった。
 駅前の喫茶店に入ると、二人は二階にあがり、部屋の片隅にすわった。すると待ちきれないように、佐々木は一通の封書を取り出した。
「これは今朝、茜さんからもらったんです。青ざめた顔をしてやってくると、これを読んで下さいってつきだすと、もう走るように帰ってしまって。もうたまらなくて。こんな時間にご迷惑かと思いましたが、ふらふらと足が大井町にむかってしまって。この手紙を読んでいただけますか」
「みてもいいのかしら」
「ご覧いただけますか」
 その封筒のなかに、便箋とカッターナイフの刃が入っていた。その刃がテーブルの上にことりと落ちたとき、智子はあっと小さな叫びをあげたが、そのときまた不思議なことになにか透明な風が、ふうっと吹き抜けていくように思えた。その便箋にはこう書かれてあった。

〈先生、いっしょに死のう。そんな男と結婚しても幸福になれないよ。わたしたちは温泉にいったとき約束したでしょう。あの約束はどうなったのですか。あの朝の光の輝きのなかにわたしたちは立っているのです。あの思い出をだいていっしょに死のう。先生は私のなかにしっかりとだきしめられています。先生も私をしっかりとだきしめて下さい。そしていっしょに死のう〉

「私は決心しました。二月の結婚式を取り止めることにしました」
 ちょっと言葉を失っている智子に、佐々本はそう言った。
「それはいけないわ」
「でも、このままでは茜さんを追いつめていくだけです。こんなに茜さんが苦しんでいるに、結婚なんてしてはいけないと思うのです」
「もしその結婚式を取り止めたら、あなたはその人を失ってしまうかもしれないわよ」
「そうなるかもしれません。それでも‥‥」
 彼女は涙ぐみ言葉につまるのだった。
「もう少し様子を見ましょう。この前お会いしたときと同じようなことしか言えないけど。でも結婚式を取り止めるなんてことはいけないわよ」
「こんなに一人の少女を苦しめる結婚なんて意味がないと思ったりして。祝福されない結婚なんて、してはいけないんじゃないかと」
「茜さんは、あなたの結婚を中止させようとしているんじゃないと思うの」
「そうでしょうか」
「茜さんは、あなたの結婚を邪魔しようとか、嫌がらせをしようとか、そんなことをしているんじゃないのよね」
「それはそうです。茜さんはそんな子ではありません」
「カッターナイフの刃をみたとき、とっても不思議なことですが、ちょっとぎょっとすると同時に、茜さんらしいなと思ったのね。こんなふうに私が思ったのは、きっと毎日茜さんと生活しているからかもしれないけど。茜さんの心の動きというものが分かるような気がするの。これは佐々木さんの結婚式を中止させるとか邪魔をしようとか、そういうことではないと思いますよ。もし結婚式を中止してしまったら、一番悲しむのはきっと茜さんですよ」
「そうなんでしょうか」
「このカッターナイフやこの手紙の底にある茜さんの気持ちは、いま必死になって心の精算をしようとしているんじゃないのか、今までの自分ときっぱりと別れようとしているんじゃないのか、そんなふうに私には思えるのよね」
「ええ。わかるような気がします」
「青春の光と影って、そんなふうにあらわれていくんですよね。その微妙なゆらめきのなかに青春ってあるでしょう。茜さんはいまはげしくゆれている。でもいまなにかを決断しようとしている。このカッターナイフの意味はそういうことじゃないのかと思うのね」
 智子は佐々木を励ますためにそう言った。しかし音春の光と影のゆらめきに立っているなら、そこでまた一気にカッターナイフで手首を切ることだっておこる。それがまた青春だった。青春のゆらめきだった。そういう不安だってあるのだ。茜は智子にはみえない裏側で、危険な崖の上を歩いているのだ。
 《自由スペース》と名のついたその建物は、今年谷岡たちの運動によって竣工させたものだった。数年前から谷岡たちは、藤沢の地に市民活動をしている人たちの砦をつくろうと建設運動を展開していたが、それがようやく実ったのだ。クリスマス会は、その真新しい建物で行われることになっていた。一階のフロアーに舞台がつくられ、その舞台を囲むように参加したグループの子供たちや父母たちがぎっしりとすわりこんでいる。小さな建物のなかは、汗ばむほどの熱気だった。
 分校の出番になった。ステージに分校の生徒たちがあがった。昨年はわずか十人そこそこだったが、今年は舞台せましと並んでいる。ぐっと厚みを加え、それだけでもすごい迫力なのだ。指揮をとるのは宏美だった。茜がにこりと笑って、宏美に合図する。宏美のタクトがおりた。茜のピアノが鳴り響く。そしてどどどっと分校の合唱がはじまった。
 その歌声は、ずしんと場内を突き刺していくばかりの凄さだった。歌わない子もいた。声の出ない子もいた。しかし毎日毎日練習してきたその合唱が、いま溢れるばかりの勢いで会場に響き渡っていく。全員の心がいま一つになって歌いあげていく。さまざまなグループが舞台に上がったが、今年の分校の合唱が断然群を抜いていた。合唱が終わったとき、それはもう大きな拍手がわきあがった。
 智子の視線は、その日どうしても茜にいくのだった。子供たちのなかで溌刺としている茜をみていると、前日きいたあの話が、まるで夢のように思え、そしてあのカッターナイフの意味するところは、やはり智子が鋭く感じとったように、彼女の心を清算するためのものだったと思うのだった。しかしほんとうにそれで清算できたのだろうか。
 そんな茜の内面にちらりとふれたのは、年が明けて、冬の合宿で草津にでかけたときだった。がらんとした食堂で、明日の打ち合わせをしていた茜が、ふと智子に言った。
「先生、私、ようやく決心がつきました」
「なにが決心ついたの?」
「もう学校をやめます」
「高校をやめてしまうの?」
「そう決心しました」
「でも茜さんは学校の先生になりたいんでしょう」
「ええ、でもそれは大検をとればいいんですから。この分校にくると、自分がのびのびと解放されていくし、ここには学校にはない発見がいっぱいあるんです。私にとっていま必要なのはこの分校であり、この熱い時間をみんなと生きていくことだと思うんです。ここには学校の未来があるような気がするんですね」
 分校の存在理由に苦しむ智子にとって、それは思いもよらぬ贈物だった。学校よりも分校を選んでくれるなんて。名の通った名門校を捨てて、このちっぽけな分校に身をあずけるなんて。しかし智子は、まだその言葉通りには受けとらなかった。彼女の心はいまでも揺れ動いているのだ。
 佐々木からは、その後もたびたび電話があった。茜はあれからまったく学校にいっていない。その茜の様子をたずねてくるのだ。智子は茜の分校の様子を伝え、なにも心配することはない、あなたは結婚式にむかってしっかりと歩いていって下さいと励ますのだった。

ふるるるる5 (2)

 一月が去り、二月に入った。茜は毎日分校にやってきて、子供たちとの活動に熱中していた。佐々木にカッターナイフをいれて手紙をだすほど、はげしく揺れ動いていた茜の心の嵐は、時間がきれいに淘汰していったようにも思える。
 それは佐々木の結婚式の前日だった。その朝、茜は分校に姿をみせると、つかつかと智子の所にやってきた。そしてなんだかちょっと顔をこわばらせて、
「先生、お願いがあるんですけど」
「ええ、なあに」
「明日、結婚式なんです。先生もご存じですよね」
「えっ、結婚式って。だれの結婚式なの」
「とぼけたってだめですよ。私はちゃんと知ってますから」
 智子は一度も佐々木に会ったことを茜に言ったことはなかったのに、なにやら彼女は、その一切を知っているかのようだった。白状する以外になかった。
「佐々木先生がそう言ったの」
「いいえ、私のスパイは、もっと間近にいます」
「だれかしら」
「宏美ちゃんですよ。よく佐々木先生から電話があるって」
「そうなのか。スパイは宏美なのか」
「それで、私、その結婚式にいきたいんです」
 智子の背になにかぴりりと戦慄が走るのだ。とうとう悲劇のクライマックスがきたのかという思いだった。
「でも茜さんは、その結婚式に招かれたわけじゃないでしょう」
「もちろんです。でもいってみたいんです。私はまだ佐々木先生の彼って一度もみたことはないし」
「でも、いってどうするの。茜さんはつらくならない」
「ただおめでとうございますって言うだけです。それだけいったら帰りますから。でも一人でいくのは怖いんです。自分で自分に責任がとれないような気がして。ですから先生にお願いがあるんですけど、一緒にいってほしいんです」
 智子は少しも躊躇せずに言った。
「いいわ。分かったわ。一緒にいきましょう」
 そう言ったものの、やはり不安がわきたってくる。なにかがおこるのではないか。若さとはときにはとんでもないことを引きおこすものだ。もしそんな事態になったらどうするのだ。やはり茜の心のなかに、いまだ嵐はごうごうと吹き渡っているのかもしれないのだ。いまなお自身をはげしく傷つけたいという苦しみのなかに立っているのかもしれないのだ。
 その日、二人は教会の前に立っていた。教会の扉が開かれ、そこから参列した人々がどっと出てきた。華やぎがあふれかえっているなかに、いま挙式をあげた二人が出てきた。
 歓声がどっとあがり、花びらが吹雪のように舞った。佐々木は美しかった。上気させた頬がピンクに染まっていて、ため息がでるばかりに愛らしかった。彼女はいま忠誠を誓ってきた男に、その腕をからませている。幸福の渦のなかにいるその佐々木が、人々のかたまりから離れている二人にふと目を止めた。明るい笑顔をふりまいていた彼女の顔が、その一瞬さあっとかげっていった。
 佐々木は、その華やかな群れから抜け出すと、あわいピンクのウェディングドレスの裾を両手でからげながら、小走りに二人の方にやってきた。佐々木は二人の前に立つと、まず智子に会釈をして、そして茜の名前を呼んだ。佐々木の顔は緊張でこわばっている。そんな佐々木に茜は明るい声で、
「先生、これ」
 茜は蔦を何重にもたばね、そこにさまざまな生の花を織り込んだ月桂冠を手にしていた。それは茜が今朝、彼女の心を縫いこめるようにして織りこんだものだった。それを佐々木に差し出しながら言った。
「彼って、なかなか素敵じゃない。先生、幸福になってね」
 うるうるとうるんでいた佐々木の目から、とうとう涙が頬に流れ落ちる。
「どうして泣くんですか。いやだなあ、はやく彼の所にいって涙を拭いてもらってきて」
 茜は佐々木の背に手をあてて、人々のかたまりの方に追いやった。
 その教会からの帰り道に茜が言った。
「先生、私、佐々木先生におめでとうって言いましたっけ」
「言わなかったわよ」
「大事なことを言うの忘れましたね」
「そんな言葉使わなくても、佐々木先生は全部分かっているのよ。茜さんの心が」
「そうですね」
 智子のなかにまたふうっと透明な風が吹き渡っていった。

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