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ウォルト・ホイットマン  酒井雅之  ヴィジョンを生きる

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 ウォルト・ホイットマン(1819~92)は、1918年5月31日に、ニューヨーク州ロングアイルランドのウェスト・ヒルズという小さな村に生まれた。(彼はロングアイランドを原住民の言葉でポーマノクと呼ぶことを好んだ)。ウォルターと名づけられたが、当時三十四歳だった父親も同様にウォルターといい、農業を営むかたわら腕のいい大工でもあった。しかし一徹で、しかもあまり目先のきかぬほうだった。だから、次第に増えていく家族が、彼にはどうやら重荷だったらしい。絶えず頭にのしかかっている生活の重圧のためか、気むずかしく怒りっぽい父親だった。のちに詩人が「かつて出かける子供がいた」のなかで、「がっしりとしていて、うぬぼれが強く、男性的で、下品で、怒りっぽくて、不当な父」と歌っている言葉の背後には、恐らく彼自身の父親のこのような面影があるのだろう。しかしこの父親も、詩人の自己形成にとっては、あながち否定的な要因であることのみに始終したわけではない。
 
 彼はアメリカ独立革命の思想的指導者のひとりトマス・ペイン(1737-1809)やクェーカーの急進的な牧師イライアス・ヒックス(1748-1830)の崇拝者であり、急進的な社会運動家フランシス・ライト(1795-1851)の雑誌「フリー・インクワィアラー」の講読者でもあった。恐らくはかなり意識的に、自由主義、ないしは平等思想をそなえていたにちがいな。彼が息子たちに、ジョージ・ワシントンとか、トマス・ジェファソンとか、アンドルー・ジャクソンなどという名前をつけられたことからもこのことはうかがえる。いっぽう母親のルイーザはオランダ系移民の家計で、目が青く、顔が丸く、そして性格はまことに陽気だった。この母に対しては、詩人は生涯変らぬ愛を抱いていたらしく、「草の葉」第六版の序文に付けた注のなかで、数年前に死んだ母をなつかしみつつ、「わたしがこれまで知りあったどんなひとよりも、遥かに完全で魅力に富み、実務と道徳と信仰心とを稀に見るほど兼ねそなえ、そのうえ自分自身のことは少しも気にかけない性格で、わたしがこよなく深く、ああほんとうに心の底から愛を捧げた母」だったと回想している。

 1823年5月、一家は土地を売り払ってブルックリンに出る。恐らく大工として身を立てることで、生活の苦境を打開したいと願ったのだろう。しかし事態はやはり好転せず、「自選日記」のなかの詩人自身の回想によれば、「父が家庭にふさわしい立派な家を建てたが、‥‥どの家も抵当に入れられ、やがて人手に渡ってしまった」。たぶんこういう事情のためだろう。1830年、十一歳のウォルターは通学をやめ、ある法律事務所で、それからある医者の家で、使い走りの少年として働くことになる。つまり正式の教育が早くも中断されたわけだが、しかし幸いにも最初の雇い主が彼に読書をすすめ、のみならず巡回図書館に登録してくれた。おかげて彼は「アラビアン・ナイト」全巻を読破し、あるいはスコットの小説や詩を次々と耽読して、初めて文学の面白さを知ることができた。

 翌31年、当時ブルックリンで五百人ぐらいの読者をもっていた「ロングアイランド・ペイトリット」紙の植字工見習いになり、以後四分の一世紀にわたる長いジャーナリスト生活を始める。当時のアメリカは産業革命が本格的に開始され、そのうえ西部に広がる未開地への移住もめざましく、従来の社会を商業資本主義体制に基づく悟性的で保守的な社会だったと言えるなら、それが今や創造と冒険を美徳とする産業資本主義体制の社会へ飛躍しようとしていた。いわば古いアメリカと新しく生まれ出ようとするアメリカとが激しい交代劇を演じていたわけだが、これを政治的な分布で言い変えると、保守的なホイッグ党と、第二次対英戦争(1812-14)の国民的英雄で、初めて西部から大統領に選ばれたジャクソンの率いる民主党との対決ということになる。熱気をはらんだこの転換期を、ウォルター少年は小さな新聞社の窓ごしに眺めていた。無論彼の共感は民主党の側にあった。

 33年に彼は家を出て自立する。異例に早い自立だが、家庭の事情がそうすることを強いたのだろう。35年にはブルックリンからニューヨークへ出て、すでに一人前の植字工としていろいろな印刷所で働いた。ところがその年の8月と12月とにニューヨークで大火があり、せっかくの職場を失ってしまったためか、早くも翌36年にはロングアイランドに帰って、さまざまな村の学校で教鞭をとり、あるいは38年から39年にかけて「ロングアイランダ―」という週刊紙を独力で発行したりした。もっともこのころの彼の作品は、文体も主題もおおむね陳腐で、のちの「草の葉」の詩人を思わせるようなところは、まだごく萌芽的なものとして現れているにすぎなかった。

 40年の大統領選挙には、民主党から立ったヴァン・ビューレンのために積極的に働いた。その働きぶりがかなり認められたらしく、ニューヨークで開かれた民主党の集会で、彼は大勢の聴衆をまえに演説することを求められ、更に翌日の党機関紙などに、その演説が詳しく報道された。いわば輝かしい政界入りというべきだろうが、しかしそれよりも注目すべきは、ホイットマンこの演説のなかで、政界を権力奪取のための争いではなく、「偉大な原理」のための戦いだと規定していることである。政界の指導者たちにこのような彼の考え方が無縁であったことは言うまでもないが、この差の意味は以外に大きく、やがてホイットマンを次第に民主党内における正統派の位置から遠ざけ、ついには彼に政治の世界から詩の世界への移行を果たさせる要因になっていく。

 41年5月にニューヨークへもどって、「ニュー・ワールド」紙の植字工になってからは、民主党系のさまざまな新聞の記者として活躍し、42年には「ステイツマン」紙の編集陣に加わり、あるいは有名な雑誌「デモクラティック・レヴュー」に小説を掲載するなど、多彩な文筆活動を展開した。40年代前半のこの大都会でのジャーナリスト生活が、十年後に訪れる彼の詩人への変身と無関係だったとは思えない。アメリカが新しい社会に変っていくその渦中に身をおいていたからには、新しいアメリカのとるべき姿が、アメリカの未来に関するヴィジョンが、次第に鮮明になっていたにちがいない。そして同時に政治世界への彼のかかわり方が密接になっていけば、当然「偉大な原則」に忠実であろうとする彼と、現実の論理に固執しようとする政治世界とのあいだには、越えられぬみぞが次第に広がっていくだろうからだ。

 45年にブルックリンに帰り、しばらく「ロングアイランド・スター」紙に寄稿していたが、翌46年3月には「ディリー・イーグル」紙の主筆に就任、北部と南部の対立が先鋭化していくなかで、時代の提起する課題に直面しつづけ、仕事が終わると渡船に乗ってニューヨークへ渡り、大都会の雑踏のさまざまな光景と活気とを吸収するのが日課だった。この頃から彼の内部には、たとえばエマソンの超絶思想や東洋の思想に触れたことも恐らくきっかけになって、徐々に「草の葉」の原形とも言えるものが育っていったようである。現在残っている47年のノートブックや「イーグル」紙の社説がそのことを示してくれている。

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  翌46年テキサスの帰属をめぐって起こったメキシコ戦争の結果、アメリカは西部の広大な土地を手に入れるが、それらの地域を奴隷州とするか自由州とするかという問題で、国論が二つに割れた。ホイットマンはいわゆる奴隷制度廃止論ではなく、国の統一を犠牲にしてまで奴隷の解放を主張するような急進論はむしろ嫌ったが、にもかかわらず低廉な奴隷労働は自由労働にとって脅威だと考えて、新しい土地は「自由な土地」であるべきだと主張した。この主張を彼は「イーグル」紙の社説で説きつづけたが、これに反対する保守派がニューヨーク州の民主党の実権を握った。「イーグル」紙の経営者もそのひとりで、当然のことながら48年1月にねホイットマンは職を追われることになる。

 ところが早くも2月、ある劇場のロビーで偶然に出遭った男がニューオーリーンズで創刊することになっている新聞「クレセント」の副編集長としてねホイットマンは雇われることになる。そこで彼は弟のジェフを連れて出発し、メリーランド州カンバーランドまで汽車、そこから駅馬車でアレゲニー山脈を越え、汽船でオハイオ川とミシシッピー川を下り、二週間がかりでニューオーリーンズに着いた。この初めての大旅行はアメリカの広大さと多様さをまざまざと彼に見せてくれたにちがいない。しかし、南部での生活にかなり魅力を感じながらも、考え方や気質の違い、おまけに金銭上の誤解も手伝って、実際には三か月を過ごしただけで、ホイットマン兄弟は早くも五月には辞職して帰路につく。こんどは五大湖やシカゴやナイアガラをゆっくりまわって、ブルックリンに帰りついたのは6月の半ばだった。

 八月には自由土地党が結成され、九月にホイットマンはそのブルックリン地区の機関紙「ウィークリー・フリーマン」の主筆になる。しかし48年の大統領選挙でヴァン・ビューレンを立てて敗れ、そのうえ彼らの分派的な行動が結果的には民主党の候補をすら敗北させてしまった挫折感から、自由土地党員のほとんどが逆に民主党の保守派に転向してしまう。ホイットマンはこの総退却のさ中でひとり踏みとどまっていたが、恐らくおのれの孤立無援な境遇を悟ったのだろう、49年9月に読者に対する別れの言葉を紙上に掲げ、そのなかで、かつて民主党にかけていた希望が裏切られたことを嘆きつつ、理念を持たぬ保守派を激しく非難して「フリーマン」をやめた。

 ホイットマンにとって、民主党は単なる政党ではなく、いわば彼がアメリカの未来に思い描いたヴィジョンに向かって力づよく進んでいく者たちの隊列のはずであった。それが今もろくも崩れ、列を乱して敗走していく。政治にかけた希望が夢にすぎなかったことを、夢が現実に裏切られたことを、今はっきりと彼は思い知った。

 50年代前半は、こうして、失意と怒りのうちに過ぎ去る。たとえば1850年に、南部と北部の対立を安易な妥協で解決しようとする気運が議会で高まってきたことに対して、3月2日付の「イーヴニング・ポスト」紙に「議員寄せる歌」(のちに「腰抜けの歌」と改題)を発表し、南部の奴隷主たちの言いなりになって目先の利益ばかりを追求する「腰抜け」議員を痛烈に風刺し、22日付の「トリビューン・サップルメント」紙には、ウェブスターの議会演説に対する怒りを「血の支払」という詩に託し、この高名な政治家をキリストを売り渡したユダになぞらえて、その裏切りを痛切に非難し、さらに6月21日付の「トリビューン」紙に「復活」という詩を掲げては、ヨーロッパにおける48年革命の挫折を嘆き、しかし「自由よ、君に絶望する者あればさせておけ、わたしは君に絶望しない」と、必ず自由が勢いをもり返してくるという信念を歌う。この最後の詩は、のちに「ヨーロッパ──合衆国紀元第72年、73年」と改題され修正されて、「草の葉」に収録された。明らかに、「草の葉」の詩人はすでに歌い始めている。

 彼がジャーナリストから詩人に変身していく過程は、ヴィジョンの現実によって裏切られ、孤立し、その鬱屈した思いが表現を求めてほとばしり出ていく過程と等しいものである。右に紹介した三篇の詩が、いずれも孤立したヴィジョンの悲しみや怒りに導かれて、おのずから新しいリズムや詩法を獲得していることは、彼の詩人への変身が、けっして一般に言われているような「奇跡」ではなく、まさに必然的な過程であったことを、もっと具体的に言うと、現実のさ中で圧殺されたヴィジョンが、いわばそれ自身として蘇生していく過程であったことを、かなりはっきりと暗示してくれている(この意味で、わが北村透谷が自由民権運動に幻滅することで、「実世界」から「想世界」へ移行していく過程と似ていなくもない)。

 こうしてホイットマンは、あれほど深くかかわってきた政治世界から抜け出して、51年にはブルックリンにみずから建てた家で印刷所と書店を経営している。そしてこのころから、政治家やジャーナリストに代わって、芸術家たちとの交際が始まっている。現実的な思惑の外側で、ただおのれのヴィジョンの表現にのみ専念する芸術家を、彼が新しい交友の対象に選んだということにも、この当時のホイットマンの精神の目ざしている方向がうかがえるだろう。51年3月31日に、彼はブルックリン芸術組合で「芸術と芸術家」という講演をして、芸術家は現代アメリカの物質主義に対して美の理念に生きる者とならねばならぬと主張し、物質の理論に固執する者の対立概念として芸術家を捉えている。彼によれば、芸術家であるとは、単に美を表現する者ではなく、まさに美を生きる者である。「芸術家には‥‥世間に出ていって、美の福音を説けという命令が与えられている」のである。とすれば、ある意味では、ホイットマンは少しも変っていない。ヴィジョンに生きようとする彼の姿勢は不動であり、政治家であることがその生き方を許さないから、何の「拘束も受けずに本来の活力のままに」おのれのヴィジョンを語ることのできる詩人になっただけのことだとも言えるのである。

 ともかくホイットマンは、40 年代の末に彼を襲った精神の危機から、どうやらすでに抜け出しているらしい。それは、この講演から読みとれる彼の心境に、明らかにゆとりがそなわっていることで分かる。現実世界のありようにいらだつことなく、むしろ「ぼく自身の歌」のなかの詩句で言うと、「ものが完全に適合し均衡を得ている子途を知っているから、議論はそちらにまかせておいて沈黙を守り、悠然と水を浴びてはわが姿に見とれている」というような、一種の自己充足とで言えるような心境を、すでに彼はそなえている。むろんヴィジョンそのものを語ればいいという、つまり詩人という、新しい生き方を見いだした自信のゆえのゆとりだろうが、同時に、たとい現在は物質的にからめとられていても、結局は、たとえば自由が必ず復活してくること、あるいは「ものが完全に適合し均衡を得ていること」を信じているというような、現実世界の歩みに対する楽観的信仰に支えられていたからだ。

 昼間は父や弟たちと家業の大工仕事に従事しながら、夕暮れになると、時には夕暮れまで待ちきれず、渡船に乗り込んで川を往復し、あるいはニューヨークの雑踏のなかにおりたって、乗合馬車の御者席のかたわらに坐り、ブロードウェイを往来しながら、さまざまな光景や騒音や熱気を心に吸収しつづけたのも、現実に営まれている人間の生活に魅了されねその豊かさを信じて疑わなかったからにちがいない。

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「草の葉」の初版は1855年7月初旬に世に出た。みどり色の布地に金箔で縁飾りとタイトルを打ち抜いたわずか95ページの薄い四つ折判だった。シャツ姿で帽子を斜めにかぶった労働者風の版画と向かいあったタイトル・ページには、どこにも著者の名前は見当たらず、ただその裏ページにウォルト・ホイットマンという著作権者の名前が印刷されているだけだった。しかし冒頭の長文の序文につづいて、「ぼく」に関する長い詩的独白(のちに「ぼく自身の歌」となるもの)が唐突に始まり、そのまま読み進んでいけば、その「ぼく」がウォルト・ホイットマンという名前であることをようやく知らされる。つまり著作権者で現実世界の人間であるウォルターと、詩人であり詩を生きているウォルトと、僕ら二人のホイットマンを持っているわけだが、むろん重要なのは後者である。いわばそれは創造された虚構だった。現実世界のいましめから今はすっかり離脱して、自由に飛翔し始めたヴィジョンの化身とも言えるものだった。解放されたヴィジョンのこの自由さ、伸びやかさ、次の詩句ほど鮮やかに語ってくれるものはない。

ぼくを繋ぎとめ抑えつけていた束縛(いましめ)がぼくを離れる、ぼくの肘は海のくぼみに憩い、
ぼくは峨峨たる連山をめぐり、ぼくの手の平はあまたの大陸をおおう、
旅ゆくぼくの道連れはぼくの幻想

 今はヴィジョンに変身したのだから、「ぼく」が海や連山や大陸と、のみならず宇宙そのものとおなじ規模にまで拡大しても、そのことには何の不思議もない。むしろこのような自己拡充の旅に出ることこそが、「ぼく」にとっては必然的で、きわめて自然な存在の仕方なのだ。ホイットマンにとって詩人であるということが、政治家であることの対立概念であるとこはすでに述べたが、とすれば詩人は、ただ単に歌を囀る者というばかりでなく、まことの道を説き聞かせる者、理念の「代弁者であり解説者である」者という役割も、同時に兼ねそなえていなければなるまい。「ぼく」が「ぼくの魂を招」きつつ旅を始めるのは、宇宙の総体を包摂しつくし、さらにそのかなたに実在する「まぼろし」を求めてのことに相違ないが、同時にその「まぼろし」の存在を他人に教え、おなじ旅に他人を導き出すための先導役を務めようとする意図もある。

 しかし初版が、それ以後の版には見られない独特の強烈な魅力をそなえていたのは、フランスの優れたホイットマン研究家アセリノーが「何ものにもその歩みを止めることができず、つねに混沌のままでありつづける溶岩の流れ」と評したように、詩人の深部の情念が「拘束を受けずに本来の活力のままに」流れ出し、語り出していたからだ。収録されている12編の詩がすべて無題のまま、数個のピリオドを挟んで延々とつづいていくことにもうかがえるように、詩人にはこの「溶岩」を人為的に秩序づけたり分類したりしようとする意志は毛頭なかったようだ。「序文」のなかで明言しているように、「大詩人とは‥‥思想や物象を、ほんのわずかな増減すら加えずに、元のままの形で通過させる水路であり、自分自身を思いのままに通過させる水路なのである」

 翌56年には、早くも第二版が世に出た。こんどは三百ページを越える十六折判で、詩の数も32編に増えている。しかし変ったのは外見だけではない。目次が設けられ、それぞれの詩には表題がつけら、つまりかつて思いのまま流れ出した「溶岩が」が、今は外から分類され秩序づけられ始めている。(そう言えば、句読法も伝統的なものに変っている)。言いかえると、かつてはただおのれの内的なリズムと衝動だけに導かれていた流れが、今は切断され、せき止められ、整序されている。つまり詩人は、おのれの内部をどうやら人為的に操作し、方向づけようとし始めている。もはや彼は、「自分自身を思いのままに通過させる水路」ではくなり始めている。まえにも述べたように、「草の葉」初版には、他人を教え導こうとする意志とともに、みずから抑えがたく溢れつづけるヴィジョンが、次から次へとさまざまな物象と結びつき、さらにそのかなたへと貪欲に越えていった。他人を旅へ誘いつつ、いっぽうでは他人のことなど気にかけるいとまもなさそうに、心ゆくまで旅の道行を楽しんでいた。

 ところが、この第二版では、詩人の意識のなかに、他人を導こうとする使命感が、いわゆる「国民詩人」であろうとする自覚が、どうやら優勢になり始めているらしい。あるいは個々の具体的な物象よりも、「万物をつなぎ合わせる」「ひとつの広大な類似」のほうに、旅の道程よりも、旅路の果てにある「まぼろし」のほうに、どちらかと言えば心を向け始めていると言っていい。なぜかはよく分からない。流れ出る「溶岩」の熱気がいささか冷え始めたのかもしれない現実世界の状勢が彼の教導を必要とするほどに切迫してきて、「ものが完全に適合し均衡し得ている」などと呑気なことを言ってはおれなくなったためかもしれない。ともかくホイットマンのなかで何かの変化が起こり始めている。しかし兆候はほんのかすかなものである。

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特集 ウォルト・ホイットマン
平等主義の代表者ウォルト・ホイットマン 夏目漱石
ワルト・ホイットマンの一断面 有島武郎
ホイットマン詩集 白鳥省吾
ホイットマンの人と作品 長沼重隆
ヴィジョンを生きる 酒井雅之
ウォルト・ホイットマン 亀井俊介
ホイットマンとドストエフスキー ヘンリー・ミラー

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