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実朝はただ一人の女性を心に秘めていた

 実朝は台所の足をからめて、ふくよかな肉体を愛撫していた。彼の深い渇きを癒すかのように、女の体に手を這わせていく。実朝が、性愛の喜びというものをしみじみと知ったのは、この二、三年のことだった。実朝の心のなかには、いつも虚無がその暗い淵をのぞかせている。呑み込まれていきそうな深い虚無だ。性愛はつかの間、その淵から彼を遠ざけていくことでもあった。
「このところ、殿はうれしそうですね」
「そのように見えるか」
「いつもと違って、なにか心がうきうきしているようにみえます」
「そうか。そのようにみえるのか」
「殿はとても正直ですもの。喜びや悲しみが、すぐにお顔にあらわれます」
「夫婦とはおそろしいものだな」
 
 実朝が十二歳で将軍に就いたときから、周囲では誰を台所にするかで猛烈な運動が繰り広げられた。将軍夫人に誰を送り込むかで、権力の構図が大きく変わっていくのである。水面下で展開される、そのはげしい争いのなか、次第にその侯補が下総の豪族、足利義兼の娘に絞りこまれていった。しかしこのとき実朝は強くこの話を拒み、余の台所は都から迎えたいと言った。ただの飾りに過ぎなかった少年実朝が、はじめて彼の意志を貫いた一つの事件であった。
 
 その実朝の抵抗に、誰よりも鋭く反応したのは、政子だった。かつて頼朝は、娘大姫を天皇家に送り込もうと画策したことがあったが、そのことが政子のなかに痛烈によぎっていったのである。その手があったのだという思いだった。天皇家と縁戚を結ぶことこそ、鎌倉の地位をより高め、より安泰にしていくことであった。
 
 政子は幕僚たちを動かし、朝廷に幾度も工作の使者を差し向け、ようやく引き当てた内大臣坊門(ぼうもん)信清の娘兼子との婚姻をすすめるのだった。坊門家は、長女を後鳥羽上皇の中宮に送り出した、都でもきっての名門だった。すべてが整って、兼子が婚礼の長い列をつくって、都を発ったのが、元久元年十月十四日だった。
 
 しかし実朝が都の娘を所望したのは、むろん政治的な理由ではなかった。実朝の世話をする女たちのなかに、都から下ってきた鷹司忠度の娘がいた。彼女は、鎌倉育ちの無骨な娘たちと違って、どこか別の国からきたかのようだった。実朝の衣装の着替えを手伝うときも、かるた遊びをするときも、歌会のまねごとをするときも、実朝を取り巻く女たちとは違って、物腰のそこそこに優雅さと気品をたたえていた。そしてなによりも実朝の心を捕らえたのは、彼女が歌に深い知識を持っていたことだった。実朝が歌をつくりだしたのは、あきらかに彼女の影響だった。少年実朝が、自分の妻に都の娘を望んだのは、この昌子に対する憧れからだったのである。
 
 その長い婚礼の行列が鎌倉に着いたのは十二月十四日だった。その日は雪が舞っていた。そのとき実朝が十三歳で、兼子は十二歳だった。実朝が望んだように、都から兼子という台所がやってきたのだ。しかし彼女はあまりにも幼なすぎて、彼の恋の対象とはならなかった。実朝の昌子に対する思いは、かえってその婚儀によって、深くなるばかりだった。
 
 昌子もまた菅原左衛門という武者に嫁いだ。しかし彼女が人妻になったあとも、実朝の昌子への思いは少し変わらなかった。成就せぬ恋ほど、その思いをいよいよ深めていく。遠く離れていることが、その恋を純化させていく。藤原定家によって、編まれた実朝の和歌集には、百首を越える恋の歌が載っている。身を焦がさんばかりの、苦しみをにじませた恋の歌の数々。彼はただ一人の女性を、ずうっと心に秘めていたのだ。その昌子は実朝が二十二歳のとき病で没した。若い死だった。その死は実朝を悲しみに沈めたが、しかしそれはまた同時に彼を呪縛していた女からの解放でもあった。
 
 そのとき実朝は、傍らに立っていた兼子に、はじめて眼を向けるのだった。彼女は、もはや苗木のような、幼い性を持つ少女ではなかった。豊満な肉体と、都の伝統と文化の匂いをいっぱいに放つ女になっていた。兼子は実朝の気づかぬところで、豊かに成熟していたのだ。
 
 それは和田の乱のときだった。討ち取られた和田の家臣の首が、滑川の河原に並べられた。その数三百にも及ぶ。実朝はその場に足を運んだ。義盛の、常盛の、義重の、義直の首がずらりと並べられている。誰もが目をむき、口を歪め、怒りと無念を咆哮していた。死臭があたりをつんざくばかりだ。実朝が、こよなく愛した朝盛の首に対面したとき、実朝は思わずくらくらとなり、河原に膝をついた。
 
 その夜、実朝は、はげしく兼子の肉体を求めたのだ。兼子の肉体に幾度も幾度も身を沈めた。そうすることによって、実朝は精神の均衡を保ったのだ。もし兼子がいなければ、実朝の繊細な精神は、そのとき崩壊していたかもしれなかった。



 

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