【汚名挽回は正しい説再考】追記

                           2021年11月3日

飯間氏の疑義(「汚名挽回」への違和感に答える)に関する追記

註記:この追記は、記事の読み易さを考慮して別記事として起こすが、【汚名挽回は正しい説】と連続した記事と捉えてほしい。それ故、追記内では【汚名挽回は正しい説】を指して「本稿」と称することにする。特に追記部分だけを指す場合には「本追記」と称する。

さて、まずは本稿のタイトルにある「汚名挽回は正しい説」という表現が不正確だという指摘についてである。これは、本文中では一度も「正しい」とは表現しておらず、一貫して「非誤用」「誤用ではない」等の表現を用いていることでもお解りいただけると思うが、文藝春秋コラムのタイトルに当て付けて敢えてミスリーディングな表現を用いたものである。これについては不適切な表現という点において同罪であり、同じく素直に反省したい。

次に、当該反論記事では誤用派の主要な3つの主張について論破できれば「誤用とは言えない」と証明したことになるとして、それぞれ反証を示している。そして文藝春秋コラムの言葉を引用して「さんざん批判されてきた表現なので、(今更誤用ではないと言われても違和感が残るのは)無理もない。」(括弧内は筆者注)と述べているが、これは少し筆者の印象とは異なる。長らく批判されてきたから違和感があるのではなく、(本稿で指摘したような理由により)違和感があったから誤用ではないかと言われ始めたと見るほうが妥当ではないか。佐々木説②を始め、近年正しい表現と言われている「汚名返上」が、実はそこまで古くからある表現ではないという報告があることから察するに、「汚名挽回」が気持ち悪くて使いにくいので、後から「汚名返上」という言い回しが考え出され、推奨される表現として広まっていったのではないかと推測している。これについては、現在のところただの憶測でしかないので本稿でも特に触れずにいたが、個人的にはその方が自然な流れではないかと感じる。今後の更なる研究に俟ちたい。

また、

「汚名挽回」の「汚名」が標識だとすると、同様に「名誉」も標識とは言えないでしょうか。「名誉を傷つける」「名誉を守る」「名誉を重んじる」……などは、「名誉という状態を傷つける」などと解するよりは「名誉という標識を傷つける」などに近い意味だと思われます。それなのに「名誉挽回」と言えてしまうのはどうしてでしょうか。


という指摘についてであるが、この指摘は当たらないだろう。本稿の議論の中心が「挽回する」の2つの意味、即ち「(a) 取り戻す」「(b) 元の良き状態に戻す」のうち、後者 (b) についてであり、前者 (a) については特に触れなかったのでここで補足しよう。本稿では「汚名」を「標識」と捉えることで違和感の説明が可能になるのではないかと述べたが、正確には「負の評価を伴った標識」と捉えるということである。「名誉」「情勢」のような「(失うことが可能な)正の評価を伴う標識」「(悪化することが可能な)標準的な或いは基準となる状態」や、「失地」「失点」のように「失った物それ自体」は、 (a) の意味において「挽回」可能である。従って、これらの語と「挽回」との結合は、誤用派/非誤用派とも違和感なく受け入れられるものと考えられる。文藝春秋コラム内で漱石の「落日を中天に挽回…」という用例を引いているが、これも「落日」という「失われた物それ自体」を「挽回」することから、(a) の意味で十分足りるだろう。つまり、「汚名」が特に目立つのは、「負の評価を伴う標識」とも「負の状態」とも受け取ることができる不安定な位置に存在する語であるからではないか、ということである。

余談

筆者は、そもそも、この「汚名挽回」の様な問題を「正/誤」「誤用/非誤用」という軸で議論すること自体に疑問を感じている。例えば、「情けは人の為ならず」という慣用句を「その人の為にならないので情けはかけるな」と勘違いしたり、「旧態依然」を「旧体依然」と表記してしまったりする様な、明確に正解がある物事に対して間違ったならば、「誤り」と言えるだろうが、言葉の使い方や選び方というのは個人の言語感覚や所属している集団に大きく依存する。この様な問題に対しては「適切/不適切」「推奨/非推奨」という軸で語ることはできても、そもそも正解がないので誤りようがないと思う。例えば、医学分野では「口腔外科」を「コウクウゲカ」と読むのが適切で、これを「コウコウゲカ」と国語的に正しい読みで読んでも話が通じない。これでは医学の世界で円滑にコミュニケーションをとることはできないから、如何に国語的に正しかろうと「コウコウゲカ」は不適切かつ非推奨なのである。これを正しいとか正しくないとか言ってみても何も始まらない。

この基準で考えるなら、本稿で議論した「汚名挽回」に対する私個人の立場は、「非推奨の用法」である。奨めはしないが、どうしても使いたければ使えば良い。但し、先方に対して「こいつは変な言葉を使う人間だな」という印象を与える可能性がある、ということを承知した上で使いなさいということである。合っている/間違っていると言うと、どちらかに非があるようで大変宜しくない。「誤用派 vs 非誤用派の論争」といった構図になると、巻き込まれたくない穏健派層が遠ざかってしまい、いたずらに議論を停滞させるだけである。