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第3回「本を売る」ことに魅せられて

 1985年(昭和60年)21歳の夏。渋谷店のリニューアル期間中、僕は新宿本店で働くこととなりました。僕は、この聳え立つ、新宿本店のビルの前に立ち、空を見あげました。

紀伊國屋ビルディングは、紀伊國屋書店の創業者・田辺茂一が創業の地である東京・新宿に本社ビルを建設しようと、ル・コルビュジエに師事したモダニズム建築の旗手・前川國男に設計を依頼し、書店(紀伊國屋書店新宿本店)・劇場(紀伊國屋ホール)・画廊、さらに多くのテナント(物販・飲食)を有する複合ビル(地上9階・地下2階、鉄骨鉄筋コンクリート造)として、昭和39年(1964年)3月に竣工しました。
(紀伊國屋書店2017年3月23日プレスリリースより抜粋)

1964年と言えば、東京オリンピックが開催された年であり、僕が生まれた年です。

このビルが、東京都選定歴史的建造物に選定されたのは、のちの話。

当時、新宿本店は、2階からが書店のフロアでした。僕は、渋谷店と同じく社会・人文科学書がある3階に配属されました。僕と同じくらいの年代の学生も多く、特に寿南孝士さん、岡橋渉さんには、仲良くしていただきました。この3階フロアの責任者は、深田課長でした。ほっぺたがふくよかで、まるでアンパンマンのような顔だったので、みんなからは、深ちゃんマンと呼ばれていました。

その深ちゃんマンから、突然渡されたのが、『社会図書総目録』(人文図書目録刊行会)だったのです。そして、深ちゃんマンは、こう言ったのです。「その目録を見て、棚に欠本があれば、1冊補充していいよ。棚の管理もね」うわぁぁ!やったーと心の中で、叫びました。渋谷店リニューアル期間のみの本店勤務。きっとレジだけとか、雑用をするのかと思っていたら、欠本調査と欠本補充、そして、棚をいじって良いと言うのです。本店の担当者(すみません。お名前は失念)も「いいよ。どんどんやっちゃいなよ」と言うので、僕は、目録を片手に一心不乱に棚在庫をチェック。在庫のある商品は、棚から一度抜き取って確認し、記憶に焼きつける。在庫がない本は、目録に、ばつ印をつける。そして、ばつ印をつけた欠本分を日販専用の注文書に間違えないように、書名は全文、出版社名、著者名も書いていく。注文書は、カーボン紙を挟み複写式になっているので、発注したあとも控えが残るようになっている。この頃、書名の先頭から最後まで、一字一句間違わずに覚えていたのは、常に注文書に書きおこしていたからなのだろう。
1週間と経たずに、欠本調査は終わり、あとは、本の入荷を待っていたのですが、ちょうど、お盆を挟むため、入荷はお盆明けになりそうです。

そんな時、日本を否、世界中を震撼させた大事故が起きました。1985年8月12日、羽田空港から大阪伊丹空港へ向かう日本航空のジャンボジェット機が群馬県の御巣鷹山に墜落する事故が発生したのです。乗客、乗務員あわせて、520名が死亡し、生存者は、たった4名でした。著名人では、歌手の坂本九、女優の北原遙子、ハウス食品社長の浦上郁夫、阪神タイガース球団社長の中埜肇が犠牲となりました。
生存者がヘリコプターで救助された映像は、今も頭の中に焼きつけられています。

この年末には、各出版社からジャンボ機事故の本が出版されましたが、中でも『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』は、特に売れたのを覚えています。10年後の1995年、このジャンボ機墜落事故を含む日本航空をモデルとした山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』が『週刊 新潮』で連載がはじまり、この期間、日本航空では機内で読める雑誌から『週刊 新潮』を排除しました。
また事故の時に、上毛新聞の記者であった横山秀夫が、体験をもとに小説『クライマーズ・ハイ』(文春文庫)を著したのは、後の話。

話を戻します。

そんな1985年の夏、紀伊國屋書店新宿本店で、その年、NHK銀河テレビ小説となった北野武の『たけしくん、はい!』(1984年刊  太田出版)のサイン会があるので、手伝うように指示を請けました。『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系列1981年5月16日〜1989年10月14日)で大人気のビートたけしですが、本名で書いたこの本も売れていました。この頃は、『戦場のメリークリスマス』(監督:大島渚  1983年)で俳優デビューをしていましたが、映画監督になるのは、のちの話。(初監督作『その男、凶暴につき』は、1989年)僕は、サイン会場への入場列を整理したりで、ビートたけし本人を見ることはありませんでした。サイン会は、無事に終了しましたが、問題が一つだけ残りました。どうやって、ビートたけしを送りだすか!ビルの周りは、出待ちのファンでいっぱいでした。結局、ダンボールに入ってもらい、台車に載せて、搬入搬出口からトラックで、お帰りになりました。(当時の仕入のアルバイトから聞いた話なので、真偽不明)

お盆が終わり、通常どおり流通が動きだすと、『社会図書総目録』の欠本分が続々と入荷してきました。それらの本を一冊一冊吟味して、棚に入れて行く。ここで、重要なのは、必備図書カードを作成して、売上スリップと一緒に挟み込むことです。既刊本の多くは、常備寄託として棚に並んでいます。常備寄託の商品には、常備カードがスリップと一緒に挟み込まれ、売上があがると、常備カードの裏側の白地に、デート印(日付のハンコ)を押すのです。担当者は、そのデート印を確認しながら、次の展開を考えていました。一方、新刊や、こうして欠本調査で補充した本には、売上スリップだけが挟まっていましたので、必備図書カードを私製して、挟み込むと常備カードと同様に売上があがったら、デート印を押すことができるようになるのです。ここでも書名、出版社名、著者名を、しっかり書いていたので、それぞれが頭の中で紐づくようになっていました。

本店の「政治・社会」の売場は、渋谷店の5倍ありました。売上も商品によりますが、3〜5倍というところです。
僕は、本店の「政治・社会」の棚で当時、出版されていたものを全て触ることができたのです。ですから5分の1の売場に戻った時に何を残すのか、どのようにセレクトすれば良いかも考えることができました。
今から考えると贅沢な勉強をさせてもらったと感謝をしています。

8月は、紀伊國屋書店の決算月で棚卸を実施するのですが、今のように棚卸業者に依頼するのではなく、すべて自店のスタッフと出版社の応援で棚にある本の値段と冊数をカウントしていました。渋谷店は、改装中のため棚卸はありません。そのため他店舗の棚卸応援で、僕は吉祥寺店に行きました。

棚卸も終わり、9月になると、この年に筑波研究学園都市で開催された国際科学技術博覧会(つくば博)に行きました。昭和45年の大阪千里丘陵の日本万国博覧会、昭和50年の沖縄国際海洋博覧会に続く、国内では3度目の博覧会。今、確認すると当時流行っていた「ニューメディア」を実体験できる見本市とのふれ込みだったが、まったく記憶に残ってない。古いアルバムを見ると、確かに「つくば博」に行って、彼女と記念写真を撮っていますが、どこのパビリオンに並んだとか、覚えていません。6歳の時に行った大阪万博・太陽の塔は、しっかり記憶にあるのに、不思議なものです。さすが岡本太郎「芸術は爆発だ」

1985年 つくば博
1970年 大阪万博 太陽の塔


9月中旬、本店での仕事も残りわずかとなりました。いよいよ渋谷店が新装オープンするのです。そんなある時、本店の社員の野中克宏さんと昼食を食べ昼休みが終わる前に、僕が「トイレに行こう」と言うと野中さんが「7階のトイレは、空いてるよ」と言うので、2人で7階のトイレに行きました。用を足そうとズボンのチャックを下ろした時、誰かがトイレに入ってきました。すると野中さんが、その誰かに一礼をしたのです。そして、その人は、何事もないように僕の隣で用を足したのです。その時、「はっ!」と気づいたのです。その人こそ、紀伊國屋書店 代表取締役社長の松原治さん(当時、68歳)だったのです。まさか社長と、このような場で、初めてお会いするとは!この邂逅は、忘れられない本店での思い出となりました。

1985年当時 紀伊國屋書店代表取締役社長 松原治


しかし、松原治さんのエピソードが、ツレションだけだと失礼なので、少しだけ話をしたいと思います。
この話は、渋谷店の店長が朝礼で話されたことなので、記憶違いの部分もあると思いますが、ご容赦願います。
店長と言っても当時、渋谷店の店長は、毎年交代していました。渋谷店の店長職は、定年直前の名誉職の側面もあったので、どの店長だったかは、定かではありせんが、店長は、松原治さんについて、紀伊國屋書店の救世主なのだという話をされました。
どういう話かと言うと、

新宿本店ビルが建つ前の時代。(1960年代)その当時、紀伊國屋書店は倒産するという噂がたったのです。その噂を聞きつけ、真っ先に商品の出荷をとめた取次もありました。どこかは内緒にしますが(笑)
しかし、店長は、こう言ったのです。その噂は本当だった。紀伊國屋書店の経営は危機的な状況だったと。
その状況を救ったのが当時、常務だった松原治さんで、何をしたかと言うと、当時、各地にできた新設の大学へ行って、洋書の注文を前受金をもらって受注したと言うのです。
そのお金で紀伊國屋書店は、よみがえり、本店ビルも建ったと言うのです。
そして、真っ先に出荷をとめた取次ではない取次を首都圏では、主帳合としていると言うのです。


なるほど、だから本店も、渋谷店も主帳合は、●販なんですね。

松原治さんについて、もう一つ。当時、発行していた『社内報』の巻頭は、社長が書かれていました。印象深かったのは、この年発売されたばかりのピーター・F・ドラッカーの『イノベーションと企業家精神―実践と原理』(1985年刊  ダイヤモンド社)について、書いていたのです。
『社内報』の<巻頭言>から引用します。

「イノベーションと企業」
 日本人は、プロセスイノベーションには非常に優れているがプロダクトイノベーションでは反対に劣っているとされる。これはノーベル賞受賞者の数にも端的に示されている。
日本人が農耕民族であったことと深く関係があり、創造性に欠け、守成に勝っているのかもしれない。
 然し、唐の太宗も創業は易く守成は難しと云い、ドラッカーも「昨日の成果を守ることはイノベーションではない。昨日を守ることは、明日を創るよりははるかにリスクが多い」と述べている。しかし、国家でも企業でも守成のみで繁栄をつづけたためしはない。イノベーションの結果、今日があるので、これを守ることは大変な努力を要するが、時代は激しく動いておりこれに即応したイノベーションを行なっていくことなくしては明日の繁栄はあり得ない。つまり守成と創業を同時に推進させねばならない。
 ドラッカーはイノベーションの主要な契機として
(1)予期せざるもの
(2)調和せざるもの
(3)プロセスニーズ
(4)産業と市場の構造変化
(5)人口構成の変化
(6)認識の変化
(7)新しい知識
を挙げ、ここにイノベーションに対する体系的な考察を展開し、これらをどう実践し具体化すればよいか助言している。熟読玩味に値するもので必読をお奨めする。(60.11.28)

『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『イノベーションと企業家精神』を読んだら』(ダイヤモンド社)が出版され、この本が再びベストセラーになったのは、ちょうど30年後の話。

いよいよ次回は、新装開店の渋谷店の話をします。

それでは今宵は、ここまで。
この曲で、お別れしましょう。
1985年のヒット曲で、中森明菜『飾りじゃないのよ涙は』(作詞、作曲:井上陽水)

飾りじゃないのよ涙は HA  HAN
好きだと言ってるじゃないの HO HO
真珠じゃないのよ涙は HA  HAN
きれいなだけならいいけど
ちょっと悲しすぎるのよ涙は HO HO HO ...


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