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第5回「本を売る」ことに魅せられて

 1986年(昭和61)年、渋谷店は、改装後の売上も好調で、忙しい日々が続いていました。1月16日に決定した第94回直木賞は、森田誠吾の『魚河岸ものがたり』(新潮社)と林真理子の『最終便に間に合えば』(文藝春秋)のダブル受賞でした。
一方、芥川賞は、米谷ふみ子『過越しの祭り』(『新潮』1985年7月号)が受賞しました。前年に文藝賞を受賞し、芥川賞にノミネートされていた山田詠美の『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社)は惜しくも落選しました。
しかし、『ベッドタイムアイズ』は、樋口可奈子主演で映画公開も決まっていたため、芥川賞に関係なく本は売れ続けました。

篠山紀信『ベッドタイムアイズ』写真集―樋口可南子/マイケル・ライト (講談社MOOK)

1月28日、米国のスペースシャトルチャレンジャー号が打ち上げから73秒後に爆発。7名の乗組員が全員死亡。発射前から爆発までの生々しい映像が、幾度となくテレビで放送され今も頭の中に残っています。

僕はと言えば、変わらず「政治・社会」「就職・資格」の棚を担当し、それと、社会・人文科学書の『新刊台帳』作りも、継続していましたが、その頃だったと思います。歴史書を担当していた山埜井課長が役職定年となり、調査役になるタイミングで、棚の担当を外れることとなりました。すると、昨年、渋谷店のリニューアルオープンに合わせて、新宿本店から異動してきた深ちゃんマンから呼び出されたのです。

歴史書の棚を引き継いで、欲しいと言うのだ。僕としては、余力があると言うか、まだまだ仕事がしたいと思っていたし、そして、何よりも歴史書は、一番やってみたい担当だったのです。なぜかと言えば、僕は、当時、國學院大學の現役の大学生であり、しかも専攻は、「日本史」でした。

ちょっと話は脱線しますが、僕がどれほど「歴史推し!」なのかを説明させていただきます。
僕が「歴史推し!」に目覚めたのは、おそらく、1973年(僕は当時、9歳)NHKの大河ドラマで司馬遼太郎原作の『国盗り物語』を観てからだと思います。木下藤吉郎の役を、火野正平が演じていたことを覚えています。
と、ここまでは、普通ですよね。大河ドラマを見て、歴史を好きになる。普通の少年です。しかし、ここからが、ちょっと変わっていきます...
僕は学校の図書室に通って、本を読んだり、本を借りるような子供ではなく、当時、家にあった平凡社の百科事典を読み耽るような変な子供でした。
おそらく学校の図書室にあったマンガの偉人伝などを読んだけど、「幼稚だ」と思って、ここには自分が読みたい本はないと思ったのでしょう。
『国盗り物語』に登場する人物を片っ端から百科事典で、引いては、その関連人物や事変などについても、百科事典でひいて読んでいたのです。


まだ小学生でしたが、百科事典に夢中になって、徹夜したことも何度かあり、こんなこともありました。季節は夏、当時はエアコンもないので、暑いから窓を開けていました。僕は百科事典をめくり、わからなかった事を、また別の巻でひくことを繰り返し、部屋中に開いたままの百科事典が散乱していたのです。僕は窓を背に一心不乱に百科事典を読んでいたのですが、早朝6時頃、突然うしろから「おい!」と呼び止められたのです。ここは2階。どうして?と思いながら、振り向くと警察官がハシゴをかけて2階の僕の部屋へよじ登ってきたのです。「なんですか?」と尋ねると、昨夜うちの裏側にある家に泥棒が入ったというのだ。「物音は、しなかったか?」と聞かれ、「そう言えば夜中2時くらいに、少し大きな音が聞こえた」と答えると「足の裏をみせて」と聞かれた。え!僕を疑っているの?確かに屋根づたいに隣の家には行ける。「小学4年生捕まる」という新聞の見出しが頭の中で散らつく。恐る恐る足の裏を見せると「汚ねえな。風呂入ってないのか」と言うので、「昨日は、風呂に入らなかった」と言うと「風呂入れよ」と加藤茶のような科白を言って警察官は、ハシゴを降りて行ったのです。まさか、この警察官が犯人だったりして...そんなことはないか。
このような体験もありましたが、それでも百科事典をめくりめくーるな日々は、続きました。

やがて、中学生になると教科書では、物足りず、自分で「歴史」の「教科書」をつくるようになりました(笑)

作り方は、まず教科書を読み、ツッコミどころを確認し、印をつけておく。次に教科書の本文を大学ノートに書き写します。但し、本文の上下5行くらいは行間を空けて、書き写すのです。
山川出版の『日本史教科書』で言うと、例えば

741(天平13)年に国分寺建立の詔、つづいて743(天平15)年には盧舎那大仏造立の詔を出した。都がやがて平城京にもどると、紫香楽宮ではじめられた東大寺の大仏造立の事業は平城京に移され、10年後には大仏開眼供養がおこなわれた。しかし政治は安定せず、その後も藤原仲麻呂(恵美押勝)・僧道鏡らによって政争がくりかえされた。藤原仲麻呂は、橘諸兄の死後、祖父藤原不比等が編纂した養老律令を施行するとともに、橘奈良麻呂をたおし、淳仁天皇から恵美押勝の名をたまわって、政治の実権をにぎった。しかし、孝謙上皇を看病して信任をえた僧道鏡と対立し、これをのぞこうとして兵をあげたが、逆に敗死した。道鏡は、弓削氏の出身であったが、孝謙上皇の病をなおしたことから、復位した称徳天皇の時代に異例の法王に任じられ、仏教政治をおこなった。その後、豊前の宇佐八幡宮の神託と称して、道鏡を皇位につけようとする事件がおこったが、これに反対する藤原百川や和気清麻呂らはこれをはばみ、称徳天皇の死後、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位すると、道鏡は下野國に追放された

という記述があります。そうなると、「おい待てよ。『百万塔陀羅尼』に関する記述がないぞ!ちゃんと孝謙・称徳天皇の事績を記すべし」とツッコミをいれて、百科事典で、調べたことを、例えば以下のように

『百万塔陀羅尼』(ひゃくまんとう・だらに)は、現存する中では、印刷された年代が明確な世界最古の印刷物です。
『百万塔陀羅尼』は奈良時代の天平宝字8(764)年、時の天皇であった孝謙天皇(重祚して、称徳天皇)が恵美押勝の乱で亡くなった人々の菩提を弔うとともに、国家安泰を願い、延命や除災を願う経文「無垢浄光陀羅尼経」を100万枚印刷させ、同時に作らせた木製の三重小塔100万基の中に納めて、法隆寺や東大寺など十大寺に分置したものです。この国家事業は『続日本紀』に記録されており、そこには、神護景雲4(770)年の完成まで5年8ヶ月を費やし、157名の技術者が関わったと記されています。

とノートに書き足すのです。

蛇足ながら、『百万塔陀羅尼』を観たい方は、印刷博物館に行くことをお薦めします。木版を複数つくり印刷したとする説と、木版では版が磨耗し、100万もの印刷は不可能なので、金属版を用いた説があります。印刷博物館では、金属版を使用した実験映像を公開しています。

また孝謙天皇は、聖武天皇と光明子(藤原不比等の娘)の娘であり、女帝でした。しかも、立太子して天皇になっています。同族でもある藤原仲麻呂との争いなど関係性がわかりやすいように、系図をノートに記すこともありました。

こうして、自分用の『歴史教科書』づくりは、高校生になってからも続き、ほぼ受験勉強をすることもなく、毎日が自由研究。日本史を解かせたら、絶対に100点とれるという変な自信があったのか、国語と英語も受験科目であることを忘れ、大学受験は、國學院大學一校のみ受験しました。歴史を学ぶなら國學院と決めつけていたから、落ちることは考えていませんでした。受かったのは奇跡です。

長い脱線で、すみません。
話を1986年に戻します。

山埜井調査役から歴史の棚を引き継ぎ、まずは毎日の売上スリップを管理して、今売れている商品、平積み、棚さしも含め、良好書を切らさないよう注意を払いました。

そして、このジャンルを担当する上で、大変お世話になった方を、ご紹介します。吉川弘文館の横井真木雄さん(当時35歳)です。
吉川弘文館と言えば、1857年(安政4年)の幕末に創業した出版社です。安政4年と言えば老中の阿部正弘が亡くなり、井伊直弼が大老となって「安政の大獄」がはじまった頃ですね。

吉川弘文館は、僕の家の本棚の中で、一番占有率が高い出版社です。特に好きなのは、教科書として購入した「國史体系」シリーズ。卒論のために購入した『吾妻鏡』や、日本古代史の授業で『続日本紀』を読みました。


それと人物叢書シリーズは、日本近世史の授業で高柳光寿『明智光秀』を読んでいました。人物叢書シリーズは、書き手が違うのに、編集方針が統一されていました。年代順の記述や系図・年譜の記載。俗説を批判して第一級資料をもとに書かれているので、まさに正史による人物伝。初学者にとっては、最初に手にすべき一冊です。授業とは関係なく、石井孝『勝海舟』や門脇禎ニ『蘇我蝦夷、入鹿』、渡辺保『源義経』なども持っていました。この年も安田元久『後白河上皇』が出版されましたが、即購入しています。

そんな僕は、吉川弘文館の新刊を案内されると、全部買いたいと思い、自分の分も含め注文が多めになってしまうのですが、横井さんは「そんなには売れないよ。新宿本店だって◯冊だよ」などと優しく諌めてくれるのです。
横井さん!ありがとうございました。

この年の日本史で言うと「売ること」に心が踊らされた本がありました。
僕は、小学生の頃から百科事典を読み耽ってきましたが、歴史という学問は、奥が深く、古今東西にある文献史料は、生涯をかけても読み尽くせないものであることを知っています。求めても求め得られない。だからこそ、求める価値があると感じ、歴史という学問を探求しています。
故に歴史を、例えば「日本通史」を書かれる著書については、なんとなく信用できないというか、よほどの大家でなければ、書くのは慎むべきだと思っています。
しかし、この先生は、別格です。
國學院大學の名誉教授であり、『梅干しと日本刀』(祥伝社1974年刊)を著し「うめぼし博士」と呼ばれる樋口清之 先生。
樋口先生の専門は、考古学、民俗学であり、登呂遺跡の発掘にあたり、日本考古学の発展に寄与。民俗学者としては、柳田國男と並び称される研究者です。また小説『宮本武蔵』(吉川英治)の時代考証に協力。松本清張のブレーンでもありました。
その樋口先生が、この年、『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史―昭和→大正→明治 』(祥伝社)を出版し、続いて、『うめぼし博士の 逆(さかさ)・日本史〈武士の時代編〉江戸 戦国 鎌倉』(祥伝社)を刊行し、さらに『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史〈貴族の時代編〉平安→奈良→古代 』さらにさらに『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史〈神話の時代編〉古墳→弥生→縄文 』(祥伝社)を出版しました。

例えば、神話の時代編では、こんな記述があります。

なぜ日本武尊(やまとたけるのみこと)が農耕社会の英雄であるかというと、『古事記』や『日本書紀』の記述をじっくり読んでみると理解できるのだが、彼の使命は、徹底して農業の普及にあったからである。
伊勢神宮の倭比売命から草薙の剣とともに与えられた火打ち石の存在が、彼の使命が農業普及であることを、よく象徴している。
日本武尊が今の静岡県で、敵によって放たれた野火に囲まれた時、迎え火を放ち、窮地を脱した話は有名だが、この時使われた火打ち石がそれである(ちなみに、この焼き討ちにちなんで、その土地は焼津と呼ばれたと『日本書紀』は伝えている)。
そして、この焼き討ち事件の真相にしても『古事記』や『日本書紀』が伝えるような相模国造(さがみのくにのみやつこ)に対する征伐劇ではなく、当時の開墾法である火田法(原野に火を放ち、農地を作る方法)を広めようとする日本武尊と相模国造の対立、ひいては、火田法の方法論を反映して作られた説話に基づく「神話」と受け取れる。
事実、このような農業開拓にまつわる逸話は、日本武尊の伝説の中に、あちらこちらに散見される。
結局、日本武尊とは、誕生間もない大和朝廷によって、全国各地に派遣された農業指導者たちの"活躍の記憶"が、一人の英雄神話として昇華されたものなのだろう。それは、ちょうど弥生から古墳時代への移行期だったと考えられるが、そういう意味で、日本武尊は何人もいた、ということになる。つまり、日本武尊というのは固有名詞ではなく、「大和の猛る男」という意味の普通名詞であり、私たちはこのヒーロー伝説を通して、当時の社会に農業を普及していった過程を読み取ることができるのである。

日本武尊は、一人ではなかった。農業開拓のために全国に派遣された男たちだったと言うのです。このように「目から鱗」の話が満載であり、歴史を学ぶ者としては、これくらい頭を柔らかくしなければならないのかと、大変な刺激を受けました。
この本は、歴史書の売場だけに留まらず、新刊台など一般書としても展開され、売れに売れたことを記憶しています。
今でも、文庫で読めますので、お早めに!

まだまだ歴史書については、書きたい事がありますが、続きは次回に(←続くのか!)

歴史書ばかりの話をしてては、いけませんね。
もうひとつ担当している「政治・社会」ですが、昨年末(1985年12月)京都大学の名誉教授で、哲学者の田中美知太郎が亡くなりました。その遺著ともいうべき一冊が文藝春秋から刊行されました。『今日の政治的関心』は、オビには「戦後日本の様々な政治的事件を考察し、その真の意味を説きゆるぎない判断を示した碩学最後のエッセイ集!」とあります。
勿論、これは売るべき本と思い新刊台、政治、哲学の棚で展開しましたが、大きな成果をあげることができませんでした。忸怩たる思いが残る一冊でした。

一方で当時、東京大学助教授の舛添要一(のち参議院議員、厚生労働大臣、東京都知事、政治評論家)の『現代国際政治入門』(PHP研究所1986年刊)は、売り出し中の国際政治学者の本として、ロングセラーとなりました。

話題は、変わりますが、この年、ハレー彗星が76年ぶり、1986年4月11日に大接近ということで、天体望遠鏡が売れに売れて過去にない天体ブームが起こりました。ハレー彗星や天体に関する本もたくさん出版されましたが、『理科年表』(当時、丸善、現在の丸善出版)が一番売れました。

日本天文学会『ハレー彗星をとらえた―1985‐86年の写真記録』(東京大学出版会1986年刊)


南半球へ行けば、よく見えるとも言われていて、バブル経済の最中、海外旅行者も急増した時代。オーストラリアに行って見たいという彼女。貧乏学生にそんな余裕はなく、3月頃、ひと足はやく、彼女を連れて当時、渋谷の東急文化会館(現在は、渋谷ヒカリエ)にあった五島プラネタリウムで、ハレー彗星の特集を観ました。

実は『日本書紀』にも、ハレー彗星と思われる記述があります。

天武十三年(684年)秋七月「壬申に彗星西北に出づ。長さ丈余」

丈=10尺。メートルでは、3.03ですから、相当大きい彗星だったのですね。
天武天皇は、妃(のちの持統天皇)と一緒に天体観測したのだろうか?

残念ながら1986年のハレー彗星は、日本から見えなかったようです。次の大接近は、2061年です。僕は97歳か!生きていても呆けているかも(笑)

ということで、今宵は、この曲で、お別れしましょう。1986年のヒット曲で、チェカーズの『Song for U.S.A』(作詞:売野雅勇 作曲:芹澤廣明)Check it out! Yo

桟橋で君を抱きしめ
見果てぬ夢を夢中で話していたね
彗星が海越えてくよ.....

つづく


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