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第4回「本を売る」ことに魅せられて

 1985年9月27日(金)紀伊國屋書店渋谷店は、改装オープンしました。53日間の休業を経て、しかもフロアは、3階から5階へ移転し、フルリニューアルしました。棚構成は、平台140台、立台35台。照明は1100ルックス、床は朱色のカーペットで、通路はグレー、売場はレッド、カウンターおよび入口部分と柱はピンク系と豊かな色彩で演出されていました。渋谷店の総面積は、360坪(1188.20㎡ 旧1020.31㎡)店舗は288.6坪(952.54㎡ 旧805㎡)で、約40坪増床し、蔵書数は、30万冊を超えていました。参考までに事務所・倉庫は、71.4坪(235.66㎡ 旧215.31㎡)
この日のために公告、宣伝については、博報堂の見積額だけで682万円を投入していました。果たして、お客様は来てくれるのか、誰もが緊張の面持ちで、10時開店を待ち構えていました。

渋谷東急プラザによると、この日、東急プラザビル全館で55000人の入館客があり、大盛況だったとのこと。そして、エスカレーターを昇って、ショッピングゾーン最上階の5階へも、多くのお客様が来店しました。
紀伊國屋書店渋谷店の改装初日の売上は、832万円(前年比160%)で、渋谷店としては記録的な売上となりました。
「この2ヶ月間、大変不便でした」「他の書店には行かないで、紀伊國屋さんが開店するのを待っていました」という励ましの言葉を、多くのお客様からいただきました。
新装開店に際して、接客用語も見直され、それまで、お会計を締め括る言葉は「ありがとうございました」でした。しかし、この改装オープンから、お会計を締め括る言葉を「ありがとうございます。またどうぞお越しくださいませ」に変更したのです。今の接客業では、当たり前の接客用語ですが、この昭和60年当時では塩対応の書店には、めずらしい接客だったのです。しかし、接客用語として、言わされてるのではなく、本当に待ちに待っての新装開店に、わざわざ来てくださったお客様へ心から「またどうぞお越しくださいませ」と言えたのです。そして、お買い上げいただいたお客様へは、もれなく「渋谷、本晴れ」(「日本晴れ」ではなく「本晴れ」)と書かれた白いフィンバックをお渡ししました。そして、店内だけでなく、この白いバックを持った人たちで、渋谷の街をうめつくそうという戦略だったようです。博報堂が考えそうなアイデアですね。

ここで、渋谷店の改装による大きな変更点をお話しします。店舗レイアウトは、道端係長の発案で大幅に変更されました。
入口の新刊・話題書コーナーに続く売場が、経営、経済、簿記、経理、法律...つまり、ビジネス書が前面にでたレイアウトなのです。当時としては、珍しいというか、書店の華と言えば、文芸書です。例えば、新宿本店のように多層階の書店も雑誌、文芸書から始まります。それは、紀伊國屋書店に限らず、三省堂書店本店も、八重洲ブックセンターも1階は、雑誌と文芸書なのです。こうした謂わば、書店における一般常識を覆えす、挑戦的なレイアウトに、僕は共感していました。法律に続くジャンルは、通路を挟んで僕が担当する「政治・社会」のコーナーでした。入口から入って、「政治・社会」のコーナーの左手には、人文科学書が展開され、右手は、自然科学書が展開されていました。
店の中央に文芸、文庫、新書、芸術があり、児童、学参、文具が店の奥にありました。
レジは、中央と奥の学参前の2ヶ所に変わりました。(3階の時は、レジは3ヶ所ありました。)

この他店にも例がないビジネス書から始まるレイアウトは(丸善丸の内本店が1階をビジネス書売場のレイアウトでオープンしたのは、2004年9月でしたので)、円高、株式投資、不動産投資が盛んとなるバブル経済がはじまることを予期していたわけではありませんが、結果的に先取りした形となりました。

また、自然科学書売場では、新たにパソコン(パーソナルコンピュータ 略してPC)のコーナーもできていました。
僕は、この年(1985年)の10年後、つまりWindows 95が発売される1995年にIT系の出版社に転職するのですが、この頃は、まだパソコンの『パ』の字も知らない学生でした。改装前の渋谷店には、パソコンの棚はなく、工学書の電気の棚に、かろうじて「マイコン」(=micro computer)というコーナーがあったくらいでした。
しかし、インテル社が世界初のマイクロプロセッサ(4ビット)を開発したのが1971年、アップル社がAppleⅡ(8ビット)を発表したのが1977年。その後、「コンピュータ業界の巨人」とよばれたIBMがパソコン(16ビット)市場に参入するのが1981年。と同時にMicrosoft社のMS-DOSがOS(オペレーティングシステム)のデファクトスタンダードとなりました。一方、アップル社は1984年にMacintoshを発表。日本では、マイコン雑誌の『I/O』の編集者だった西和彦、郡司明郎、塚本慶一郎(郡司と塚本は、1992年にインプレスを創業する)がアスキー出版を設立したのが1977年、孫正義が日本ソフトバンクを創ったのが1981年、1982年にNECのPC-9800シリーズが登場し、この1985年は、ジャストシステムのワープロソフト「一太郎」がリリースされた年でした。
改装後の渋谷店では、それまであった農業の棚を削って、パソコン書の棚を山上課長が作りました。後年のパソコンの隆盛を考えると、この時の判断は的確だったと後々、山上課長に会うと「あの時の俺は正しかった」と自慢していました。(笑)

さて、そんな渋谷店ですが、店長、副店長は、約2ヶ月の休業と上層階への移動で、客離れを懸念していましたが、開店日からも売上は、伸び続け、翌10月に入っても前年比114%をマークしていました。

僕はと言えば、新宿本店で修行した「政治・社会」の棚を、さらに磨いて、売上は店の平均を大きく上回る前年比140%台をキープしていました。
もっとも山崎さんが担当する「経営・経済」などのビジネス書も、同じように伸びていました。

その頃だったと記憶しています。河出書房新社から発行された新刊に僕は、注目したのです。
『ダグラス・マッカーサー』上下巻、著者は、ウィリアム・マンチェスター、アメリカの歴史家、伝記作家。1977年にアメリカの大統領、ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ニクソンまでを著した『栄光と夢ーアメリカの現代史』全5巻(草思社)を、『ダグラス・マッカーサー』と同じく、鈴木主税の翻訳で出版していました。
(おお主税さん、僕と同じ名前)
帯には『戦後日本の方向を決定づけた大人物。崇高、傲慢、滑稽。途方もない逆説的人間マッカーサーの生涯を追体験することで実像に迫る決定的評伝』と書かれていました。
マッカーサーと言えば、退任演説の「老兵は死なず、単に消え去るのみーOld soldiers never die, they simply fade awayー」は名科白ですね。この1985年(昭和60年)は、戦後40年の節目の年であり、マッカーサーが厚木基地に降りたってから、ちょうど40年になります。この時、これは「売れる」と感じたのです。「経営・経済」担当の山﨑さんが、いつも並べる前から追加発注をしているように、僕もここで動かなければならない!配本10冊じゃ足りない!ところが、出版元は、手持ち在庫なし。

そこで、主帳合の日販、それから東販(現在のトーハン)、そして、鈴木書店に各々10冊の補充注文を依頼しました。
配本残が取次にあるか、若しくは、即返(並べることなく、あるいは箱ごと即返品する書店が必ずある)を期待して!
さて、どこが最初に追加を入れてくれたか?
答えは、簡単!業界歴が長い方ならおわかりですね。人文書は、やはり鈴木書店。頼んだ次の日に納品してくれました。遅れて商品を入れたのは東販。そして、日販は2週間後でした。

こうして、『ダグラス・マッカーサー』は、予想通り売れ続け、上下巻合わせて7,645円の本を各50冊計100冊以上売りました!
この時、「本を売る」愉しみ、面白さを体感したのです。

ちょっと1985年、いろいろありすぎて、長くなっちゃいました。

この辺で、終わりにしますが、この年に売れた商品をチェックしましょうか。

文庫では、『レッド・オクトーバーを追え!』(1985年刊 文春文庫)が印象に残っています。本書は、トム・クランシーの処女作であり、CIAのジャック・ライアン(架空の人物)が初登場するシリーズ第1作。理由は、わかりませんが、仕入の野本課長が力をいれていて、店の入り口の新刊台で多面展開していました。この頃の紀伊國屋書店では、多面といっても、せいぜい2面か3面くらいしか展開していなかった時代に平台1台を、上下巻オール面だしで売るのは、チャレンジでしたね。弾道ミサイル搭載のソ連の潜水艦がアメリカへ向かうテクノスリラー小説です。潜水艦同士の戦闘など、かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』(1988年〜1996年『モーニング』連載)が好きな方には、お薦めです。と言っても本は残念ながら品切れです。著者も亡くなっているので、難しいのかな。1990年にショーン・コネリー主演で映画化されていますので、こちらのDVDをご覧ください。

文芸では、この年、発売された塩野七生の『ロードス島攻防記』(1985年刊 新潮社)と前作の『コンスタンティノープルの陥落』(1983年刊 新潮社)は、揃って売れていました。メインの売場は、もちろん文芸書でしたが、歴史のコーナーに置いても、売れていました。塩野七生と言えば『ローマ人の物語』(1992〜2006刊 新潮社)と応える人が多いですが、この頃は執筆しておりません。このとき(1985年)の塩野七生と言えば『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』(1980〜81年刊 中央公論社(正・続)/2009年刊 新潮文庫 全6巻)などイタリア中心の中世ヨーロッパ史だったのです。ちなみに塩野七生とは、本名であり。七生(ななみ)は、7月7日に生まれたことに由来するそうです。おぉ7月7日と言えば、僕と同じ誕生日じゃないですか!そして、生年は、亡くなった僕の母と同じですね。お母さんと呼んでいいですか?


この頃、荒俣宏が『帝都物語』(角川書店)で、小説家デビューしました。

それと、堺屋太一が著した『豊臣秀長』(PHP研究所)がベストセラーとなりました。羽柴秀長と言えば、豊臣秀吉の実弟であり、兄の秀吉をささえ、豊臣政権のNo.2でした。時代小説でありながら、こちらも、文芸書の棚だけでなく、ビジネス書売場で、売れましたね。

そして1985年、ビジネス書の第1位は、リー・アイアコッカの自叙伝『アイアコッカ―わが闘魂の経営』(ダイヤモンド社)でした。フォード2世により社長の椅子を追われ、屈辱を晴らそうと、ライバル社の会長職に転身、クライスラー再建のための打ち手を次々に講じて倒産を回避、空前の業績を上げるに至るビッグ・ビジネスの面白さ、奥深さを味わわせてくれる最高のビジネス書。この年、書籍全体の1位となる大ベストセラーとなりました。 

さて、1985年の世の中は、どんなことがあったでしょうか?

この事件?を書かないと、ファンから怒られますね。そう、この年、1985年は、阪神タイガースが1964年(僕が生まれた年やんけ)以来、21年ぶりにセントラル・リーグで優勝したのです。そして、日本シリーズで西武を敗って初の日本一に輝きました。レギュラーシーズンでは、ランディ・バースが打率.350、54本塁打、134打点で、セ・リーグの三冠王となりました。(パ・リーグでは、落合博満が二度目の三冠王になった年でした。)しかし、印象深いのは、ファンの暴走っぷり。『六甲おろし』を合唱して、ねり歩き道頓堀川へ飛び込むという乱痴気騒ぎは、笑わせてくれました。ケンタッキーのカーネル・サンダースも道頓堀川に沈みました。虎きち恐るべし。 

両国国技館のこけらおとしの初場所で、千代の富士が全勝優勝しました。また北の湖(きたのうみ)が引退を表明した場所となりました。

三公社をご存知でしょうか?(普通は、三公社五現業で覚えてますね)この年、日本専売公社と日本電信電話公社のニ公社が、それぞれJT(日本たばこ産業)、NTT(日本電信電話株式会社)となり、民営化されました。

世界の情勢は、どうだったでしょうか。
ソ連共産党のチェルネンコ書記長が亡くなり、後任はゴルバチョフに決まりました。 

米・英・西独・仏・日の5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が、ドル高是正のため為替市場への協調介入強化で合意。米国ニューヨークのプラザホテルで開催されたため「プラザ合意」と言われています。日本からは大蔵大臣の竹下登が出席しました。「ドル高」時代から「円高」時代への転換点となりました。

国内に話を戻します。

ゲーム業界では、任天堂のファミリーコンピュータの人気を決定づけた『スーパーマリオブラザーズ』が9月に発売されました。

アニメでは、日本サンライズが制作した『機動戦士Ζガンダム』がテレビ朝日系列で1985年3月2日から1986年2月22日まで放映されました。

音楽シーンでは、岩崎良美の『タッチ』(作詞:芹澤廣明  作曲:康珍化)がアニメとともに流行し、今もまだカラオケの定番ソングとして、愛されていますね。小林明子『恋におちて』(作詞:湯川れい子  作曲:小林明子)は、テレビドラマ『金曜日の妻たちへⅢ』(TBSテレビ)の主題歌として大ヒットしました。そして、この年に、おニャン子クラブが結成されて、デビュー曲『セーラー服を脱がさないで』(作詞:秋元康  作曲:佐藤準)が話題となりました。それと、ドラムスだったハイトーンボイスの笠浩司がボーカルもつとめたC-C-Bの『Romanticが止まらない』(作詞:松本隆  作曲:筒美京平)が中山美穂が主演するドラマ「毎度お騒がせします」(TBSテレビ)の主題歌として、ヒットしました。
人気アイドル歌手の松田聖子が神田正輝と結婚したのも、この年でした。

序でに、ビルボードチャートも見てみましょう。前年から旋風を巻き起こしていたマドンナの『ライク・ア・ヴァージン』をおさえて、トップに立ったのは、ワム!の『ケアレス・ウィスパー』でした。

テレビドラマも見ましょうか。
和田慎二の『スケバン刑事』(白泉社 花とゆめコミックス)が、主演:斉藤由貴でドラマ化されたのも、この年でした。しかし、この年、最も視聴率が高かったドラマは、第1回「東宝シンデレラ」でグランプリを受賞した沢口靖子が主演のNHK朝の連続テレビ小説『澪つくし』(1985年4月〜9月放送)であり、最高視聴率は55.3%平均視聴率44.3%を記録しました。ニューヒロイン誕生。とその陰で、女優の夏目雅子が急性骨髄性白血病のため、27歳の若さで亡くなりました。

最後は、映画の話ですが、この年、僕が観た映画の中で、ベスト3を書き記しておきます。(興行成績では、『ゴーストバスターズ』が1位でしたが)

まず第3位は、監督:ジョー・ダンテ。制作総指揮:スティーブン・スピルバーグの『グレムリン』。ヒロインを演じたフィービー・ケイツ  が好きでした。

続いて第2位は、監督: ウォルフガング・ペーターゼンの『ネバーエンディング・ストーリー』。ミヒャエル・エンデの小説『はてしない物語』(岩波書店)の映画化作品です。

そして、1985年の第1位は、原作:夏樹静子(光文社カッパノベルス/角川文庫)監督:澤井信一郎。製作:角川春樹事務所。主演は薬師丸ひろ子の『Wの悲劇』です。第9回 日本アカデミー賞にて、最優秀監督賞、三田佳子が最優秀助演女優賞を受賞しています。主題歌は、薬師丸ひろ子が歌唱。僕は薬師丸ひろ子が歌う『セーラー服と機関銃』(作詞:来生えつこ. 作曲:来生たか)や『探偵物語』(作詞:松本隆,作曲:大瀧詠一)も好きだけど、この『Wの悲劇』の主題歌である『Woman"Wの悲劇"より』(作詞:松本隆,作曲:呉田軽穂)は、薬師丸ひろ子のベストソングだと思っています。 

もう愛せないと言うのなら
友だちでもかまわないわ
強がってもふるえるのよ声が...
ああ時の河を渡る船にオールはない
流されてく横たわった髪に胸に降りつもるわ
星の破片(かけら)

今聴いても、切ないラブソングですね。

出版業海を渡る船にも、オールはないんですがね。(いらないか、こんなオチ)

つづく

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