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ラウンド・ミッドナイト
ジャズ映画の傑作と名高い「ラウンド・ミッドナイト」。観よう観ようと思っていて、ようやく機会を得たので鑑賞した。なるべく短く簡単に感想を残したいと思う。内容に触れているので、未鑑賞の方は注意。
play jazz
やはり演奏シーンは見逃せない。デイルがサックスを手に取るやいなや、まるで自分の魂をすべて吹き込むかのように演奏を始める。ゆったりとした曲調だが、普段の喋りや動きの緩慢さに比してどこか急いでいるような印象も覚える。
バストショットでデイルを収めるその画は、汗や(息を吹き込んでいるだけで、決して苦しいわけではないだろうが)苦悶の表情もあいまってデイルが演奏に命をかけていることを観客に突きつけてくる。
フランスのジャズクラブにおけるデイルの画は、フランシスから観たデイルなのだろう。崇拝とも尊敬とも愛情とも形容し難い目をしたフランシスは、まさにデイルを周りから切り取るようにタバコの煙をくゆらせながら見つめている。フランシスにとってデイルは「霊感」なのだ、それ以外の言葉では表せない。余談だが最初にジャズクラブに手引して入れてもらったシーンで流れていた曲が一番お気に入りだ。
一方でニューヨークに移った後のデイルの画は、心なしか少し後ろに引いて見える。それがフランシスのニューヨークという地に対する不安感ー例えばデイルの誘惑を目撃してしまったこと、を表しているのか、出迎えてくれた人が車内でまくしたてたのとは裏腹にニューヨークという街の冷たい人柄を表しているのかは分からない。
デイル・ターナーの孤独
デイルはどこか孤独だ。演奏が終わると向かいのバーに一人足を運ぶこともあれば、路地裏に座り込んでしまうこともある。フランスに来た理由が満たされているようには思えない。
自分の音楽を理解してくれるフランシスに面倒を見てもらってからもそれは変わらない。家に招かれても所在なく「ぼんやり」としている。引っ越しても突然夜中に目覚めてしまう。浜辺に遊びに行ったシーンでは、
なぜ世界は丸裸なのかな。
とデイルはフランシスに問いかける。
世界は中に人間を含まない、それだけで存在している。まさしく偉大なplayerとして尊敬されているはずのデイルが世界のどこにも居場所がない、そういった心境を表しているようだった。
この孤独さゆえに、演奏シーンが際立つのは間違いない。あの数センチ高い段の上では彼だけが主役なのだ。
さいごに
ジャズは素人だ。何も分からない。デイル・ターナーも寡聞にして知らなかった。
そんな私でも、パリとジャズクラブの薄暗い雰囲気の中で孤独と戦うデイルの演奏は、その生命をかけているかのような演出も相まって、胸を熱く打つ。家にいながらも体を動かしてしまう。決して「オシャレ」ではない。そこにいるのは誘惑や孤独と戦う一人の男だ。
ジャズの魅力が垣間見られた一作品だった。
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