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おつかれさま

 細い細い、谷の奥。望んでは行きつけぬ隠れ里に、ちいさな庵がある。そこへ訪れた女がひとり、若旦那はつと顔を上げた。
「おや、またいらしたんですか」
 仕方ありませんね、と吐き出す息は女の耳に届かない。物思いに沈んでうわの空、手を引かれるまま濡れ縁に腰をおろす。
 耳をそよがせ尾をはたき、童たちは慣れたようすで世話を焼いた。髪を梳り爪を磨き、脳天から足先までを揉み解していく。これを仕上げと手渡したのは、とろりと椀に満ちる飴色。女はそれを飲み干すと、ほうと息をついてそのまま寝入ってしまった。
 さて、女が目覚めたのは見慣れた我が家である。気分は爽快、体も軽い。それが一体なぜなのか、女はついぞ思い出せないのだった。

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