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半魚の島

この物語は、フィクションです。
実在の人物・団体・事件・地名・呼称などにはいっさい関係ありません。

01 出発

 今回の設計図の配達先は、ツキノミ島。もうすぐ沈んでしまう島。
 ぼくら配達者は、危機的状況に陥った島に呼ばれる。自力では生き残れないと判断した島の棲者は、ぼくらを呼んで設計図を受け取り、その設計図を自らの体に取り込み、生き残るための性質を得る。
 設計図は設計図と交換する。ぼくらは、設計図を配達した島の棲者から、彼らが持っていた設計図を受け取って、大切に保管する。ぼくらが保管している設計図は膨大だ。受け取った設計図は、何千年も使わないこともあるし、すぐに別の島へ届けることもある。そうやって、みんなで設計図を交換しあって、島とともに生きていく。
 ぼくらは、みんなの役に立っているはずだけど、嫌われてもいる。良くないモノもいっしょに運んでしまうことがあるから。ぼくらは、良くないモノが憑いていても気づけない。そんなぼくらに頼らないといけないほど、切羽詰まった島の棲者だけが、ぼくら配達者を呼ぶ。
 ぼくは今回、初めてひとりで仕事をする。今までは、師匠といっしょに配達をしていたけれど、ついにひとり立ちが認められた。出発する前、師匠からは、「棲者は生きのびるためならなんだってすることがあるから注意するように」と言われた。どういうことだろう。生きのびるために、危険を承知でぼくら配達者を呼ぶというのとは違うのかな。

02 シキ

「ここは、もうすぐ、沈んじゃうよ」
 あたたかくてフカフカの砂浜に寝転がっていたら、太陽を遮られた。
 眠っていたわけではなかったけれど、寝ぼけていた。潮風が、陽ざしが、あまりにも気持ちよくて、意識を手放していた。
「危ないよ。ついてきて」
 逆光でよく見えなかった顔は、両手を勢いよく引っ張られて起こされたせいで、軽い立ち眩みで、また、よく見えなかった。
 立ち眩みがなおったときには、彼女は、ぼくに背を向けて、歩きだしていた。彼女の髪は、腰まである長い緑色で、少しくせ毛でフワフワと風になびいて、ところどころがぷくぷくと膨らんでいて、なんだか海の中で揺らめく海藻みたいだと思った。髪の毛を海藻みたいと言われたら怒るかな? だけど、海藻みたいに綺麗だと思ってしまった。
 足元が、サラサラの砂から湿った土にかわった。目の前にはこんもりとした山。島のほとんどは山だった。小径から山の中に入ると、木々の天蓋から、太陽光が散らばって降り注いでいた。この天蓋を作っている青々とした葉も、もうすぐ海の底に沈んでしまうと思うと、少し悲しい気持ちになる。ぼくにはどうすることもできない。でも、「今日はまだ沈まないはずだよ」ぼくは彼女の背中に話しかけた。沈むのは、次の下弦の月の夜。今夜は満月。まだ少しの時間があるはずだった。
「あそこはね、毎日夕方になると、海に浸かっちゃう場所だから」
 海藻みたいな髪を揺らしながら、彼女がぼくに向かって笑顔を見せた。光が、睫毛の上で、躍っている。こんなに瑞々しくてキラキラする人を見たのは初めてだ。だから、ぼくの心臓はドキドキしてしまった。音が聞こえてしまわないように、少しだけ彼女から離れる。
「そっか。満ち潮でってこと?」
「そうだよー。朝には潮が引いて砂浜に戻るけど、夜のあいだは海なんだよ」
 彼女は、弾むような声で言った。もうすぐ沈んでしまう島に棲む人が、こんなに明るいとは思っていなかったので、ぼくは少しびっくりしている。
「きみは、配達者さんでしょ?」
「うん。約束の時間よりも少し早く着いちゃったから、休憩していたんだ」
 どうして配達者だとわかったの? と聞く必要はない。ぼくの体は涅色で、皮膚はザラザラとしていて、腕には鈍色の飛膜がある。彼女の、つるりとして透明感のある若草色がかっている体とは、まるで違う。ぼくは、この島にとっての異物だ――異物なのは、この島に限らず、どこの島へ行ってもそうなのだけど。それに、沈みゆく島に訪れる者なんて、配達者くらいなのだろうと思う。
「私はシキ。よろしくお願いします」
 シキと名乗った彼女は、かしこまっておじぎをした。
 ぼくも慌てて頭をさげる。
「よろしくお願いします。ぼくは、ヴィース。……ここは、いいところだね」
 頭をあげると、彼女は嬉しそうな顔をしていた。
「きみのこと、ずっと待っていたよ。会えて嬉しい」

03 泉

「配達者ヴィースよ、まずはこの泉で清めるがよい」
 シキに案内されて、ぼくは、この島で最高齢というルーカお婆さんに挨拶をした。そして、ルーカお婆さんに、山の中にある小さな泉に連れられてきた。
 泉の水面は、まったいらでキラキラしていて、その下は深いのか浅いのかもわからないくらい透きとおっている。とっても綺麗で、見とれてしまう。だけど、ぼくがこんな綺麗なところに入ってもいいのかな? ぼくは自分の涅色の体を見まわした。
「泉に認められた者としか、我らは取引をせぬ」
 ルーカお婆さんは、静かな低い声で言った。
 泉に認められるってどういうことだろう。そういえば、「この島の棲者はすごく気難しい」という噂があったっけ。きっとこのルーカお婆さんのことかな。
 そうだった。この島からは、もう何人もの配達者が追い返されていたのだった。みんな泉に認めてもらえなかったのかもしれない。ぼくも、もしかしたら追い返されてしまうかもしれないけど、がんばろう。だってもう島が沈む時まで、あまり余裕がない。この島の棲者だって、早くぼくらから設計図を受け取りたいはず。でも、泉に認められるにはどうすればいいのかな。
 ぼくは、そっと、透明な水面に足をつけた。
 ちゃぷんという音が聞こえたときには、足裏が水底についていた。思った以上に浅くてびっくりした。ぼくのくるぶしくらいの深さだった。少し歩いてから振り返ると、ルーカお婆さんが大きくうなずいた。
 泉の中央に向かって歩く。だんだんと深くなっていく。泉の底は、柔らかな砂の絨毯みたいで、歩きやすい。腰まで浸かったところで、また振り返る。
「これでいいですか?」と聞くと、ルーカお婆さんは、「体全体を沈めて朝まで過ごすように」と言った。
 泉の水は柔らかい。ぼくの皮膚まで滑らかにしてくれるんじゃないかと錯覚してしまう。熱くもないし、冷たすぎることもなくて、心地いい。ぼくは、岸辺近くの浅いところに戻って、仰向けになったら顔だけが水面からちょうどでる場所を探しだして、そこに寝転んだ。
「明朝に迎えにくる」
 そう言い残して、ルーカお婆さんは、ぼくに背中を向けて去ってしまった。
 ひとりでのんびり過ごすのは得意だ。ぼくは空を眺めてぼんやりすることにした。
 夕焼けで空が橙色になって、赤くなって、紫色になって、まもなく夜が訪れた。けれど暗闇にはならなかった。夜空には満月が輝いていたから。だけどそれだけじゃなかった。
 泉が金色に光りだして、辺りを明るく照らした。満月と同じ金色に見えたけれど、少し違った。泉の水面を漂う金色には濃淡があって、模様が描かれたみたいになっていた。手のひらで撫でると、濃い金色と薄い金色が移動して模様の形が変わった。それが楽しくて、ぼくはしばらく水面を撫でて過ごした。そのうちに、寝転がったままでは物足りないと思うようになった。
 体全体を沈めるという命令が守れるように、肩まで浸かれる深さのところまで移動する。ぱしゃぱしゃと水面を波立たせると、金色の泡が生まれて、金色のしぶきが飛び散った。ぼくは夢中になって遊んでしまった。ところがふと、泉を包む静寂に気づいて、ぼくは満月を独り占めしているみたいで落ち着かなくなった。この景色を、あの子といっしょに見たらどんなに素敵だろう。ぼくは、昼間に出会ったシキのことを思いだしていた。

 翌朝、太陽が昇り始めて少し経ってから、ルーカお婆さんが泉にやってきた。
 ぼくは、遊び疲れてうとうとしていたけれど、厳かな雰囲気のルーカお婆さんを見て、すっかり目が覚めてしまった。
 ルーカお婆さんは、「もう泉からあがってよい。少し話をしよう」と言って、泉のほとりの大きな木の根元に腰かけた。その隣に座って、ぼくも、朝陽を浴び始めた泉を眺めた。
 話をしようと言ったのにルーカお婆さんは、何も言ってくれない。目を見開いて、ときおり細めながら、なめるように泉を見ている。
 水面には、金色で描かれた模様が浮かんだままだけど、夜に比べて薄くなっていた。
 ぼくは泉に認めてもらえただろうか。何もそれらしい出来事はなかったなと不安になる。
「昨夜、この泉はどうであった?」
 やっとルーカお婆さんが口を開いてくれた。
「とっても綺麗でした。昼間も綺麗だったけど、夜は金色に輝いていて、それに模様みたいに見えて、素敵な泉ですね」
 ぼくは、泉の美しさに感動したことを素直に伝えた。
 ルーカお婆さんは、目を閉じてうなずいた。
「そうか。間違いないようだな。……我らが待ち望んでおったのは、そなたであった。設計図の交換を頼もう」

04 設計図

 この島の集落は、山の麓の平地にあった。お椀を伏せたような形をした家々が円状に建ち並んでいて、その中心は広場になっていた。ぼくはそこで、ぼくの仕事を始めた。
 魚の形質を作る設計図を、島の棲者たちに渡していく。

「でもねぇ、本当に魚になって生きていけるのかねぇ」
 藍色の衣を着た棲者が、設計図を受け取りながら、不安そうな顔で言った。
「このサカナ形質の設計図は、島が沈んで棲めなくなるときに使われる定番の設計図です。古くから使われていて、使用実績も多いです。ヒト形質の棲者での感受性試験にも合格しています」
 ぼくは、自信を持って言った。
「それはそうでしょうけどね。でもねぇ、形だけ魚になったからって、すぐに本物の魚のように生きられるものかい? ずーっと海の中で泳いで、食べ物を自分で獲って、大きな魚に食べられないように逃げて……。そんなこと、すぐにできるものかねぇ」
 ぼくはこたえに詰まってしまった。すると、その棲者は、「ごめんなさいねぇ、あなたに言ってもしかたないのにねぇ」と言って帰っていった。
 設計図にできることは、体の形や仕組みを作り変えることだけ。作り変えられた体の機能を使いこなすための能力は、設計図には入っていない。だから、それを使いこなせない個体は、どうしてもでてきてしまう。特に、元の形質から大きく離れた形質に作り変える場合には。ヒト形質からサカナ形質への変化による負担は、かなり大きい。棲者の心配事は、もっともだった。

 次に訪れた棲者は、親子連れだった。
「どうせなら、鳥になりたかったなぁ。俺だけ、鳥の設計図にしてくれない?」
 ぼくと同じくらいの背の高さの少年が言った。
「設計図の交換は、島全体で一種類と決められていますので、それはできません。……それに、トリ形質はお勧めしていません」
 ぼくは、マニュアルどおりのこたえを言った。
「どうしてお勧めじゃないの? 配達者さんも羽があっていいよね。羽があったら、どこへでも行けそうだし」
 好奇心に満ち溢れた目で、少年はぼくの鈍色の飛膜を見つめていた。
「羽があっても、空を飛ぶのは、簡単ではありません。大きなエネルギーが必要です。島のない場所で力尽きてしまえば、海へ落ちるしかなく、そうなると、生存の可能性は、ほぼありません」
「もしかしたら、近くにいい島があるかもしれないよね? それで、その新しい島にたどりついたら、また人の形に戻って暮らすのがいいよなぁ。ねぇ、調べてみてよ。どっちの方向へ飛んでいけばいいのかを教えてくれるだけでもいいよ。それがわかったら、みんなも鳥になりたいって意見を変えるかもしれない。みんなが鳥になりたいって決まったら、変更はできるんだろう?」
 よくある質問だった。だから、調査隊が事前に調査をしていて、配達隊にはその結果が渡されている。
「調査をしましたが、トリ形質に作り変えたばかりの体で飛べる距離に、島はありませんでした」
 島と島の距離は遠い。仮に近くに島があったとしても、その島に棲めるとは限らない。それに、過去に起きたいくつもの悲惨な事故を知っているぼくらは、ヒト形質からトリ形質への作り変えを勧めることはできない。
「もう、ほんとにすみません。配達者さんを困らせたらだめよ」
 少年の母親が恥ずかしそうにしながら言った。
「なんだよー。母ちゃんが聞けって言ったから聞いたんだぜ、俺」
「あんた、なに言ってるの! ああもう本当にすみません。……でも、私たち、本当に、魚になるしかないんですか? なんとか、こう、人の形のままでも、海の中で呼吸さえできれば、生きていけるような気がするのですが……。すみません。今さらなのはわかっています。でも……、海の中で魚として生きるのはどのくらい安全ですか? 私でも、ちゃんと生きていけますか? この子を守って生きていけますか?」
 調査隊にもらった調査書をめくってこたえを探す。
「ヒト形質のままで海の中で生きていくのは、無理です。呼吸の問題だけではありません。人の形は、海の中で生きるのに適していません。時間とともに、淘汰されてしまいます。調査の結果、この島の棲者の水棲形質への作り変えでもっとも安定的な形質は、サカナ形質です。生きのびる確率は、サカナ形質がいちばん高いです」
 読み上げながら、これはこたえになっているのだろうかと首をかしげそうになったが、配達者は自信のない態度をしてはいけない。ぼくは胸を張って言いきった。
「そう。……そう。……そうなのね」
 彼女は、かみしめるように残念がった。その隣にいる少年は、「俺、魚になったら、何して遊ぼうかなー」と楽しそうに言っている。魚になってしばらくは、たぶん、遊ぶ余裕はない。ぼくはそれを言うのは、やめておいた。
「これは、いつまでに飲めばいいのですか」
 これまで会話に入ってこなかった父親が質問した。
「なるべく早く飲んでください。少しでも早く、新しい体に慣れてください」
「わかりました。でも、思っていたよりもだいぶ小さくてびっくりしましたよ。本当にこれを飲むだけでいいのですか?」
 彼は、手のひらの上の設計図をまじまじと見つめていた。
 設計図は米粒くらいの大きさの殻に包まれている。このサイズは設計図の中では大きいほうだけど、初めて見た棲者は、みんな驚く。事前に配っている取り扱い説明書で知らせていても、多くの棲者が聞いてくることだった。
「はい。そのまま飲み込めば、体内で殻が溶けて、設計図が吸収される仕組みになっています」
 真剣な表情でうなずく彼に、ぼくは、設計図の取り扱い説明書を見せながら話を続ける。
「設計図を飲むと、半日から一日くらいで、サナギになります。サナギになってからまた半日から一日が過ぎれば、環境が整うと自然に脱皮します。そのときには、もう魚になっています。脱皮までに必要な期間は、個体差があるので、じゅうぶんな余裕を持ってください。周囲の環境が作り変えたあとの体にとって不適切な場合は、ずっとサナギのままですが、この設計図は魚になる設計図なので、島が沈んで海に浸かれば脱皮することになります。でも、島が沈むときは海が荒れるので、そこで脱皮が始まるのは危険です。だから、島が存在するうちに、潮が引いている時間に、潮が満ちたときに海になる場所で飲んでください。サナギ化の初期に潮が満ちてしまうと、人の形のまま海に浸かることになってしまって、それも危険です。だから、時間にはじゅうぶんな余裕を持ってください」
「なるほど……。しかし、我々は、我々の持っている設計図は、いつ出せばよいのですか?」
「魚になる設計図の中には、交換する設計図をサナギの殻の中に残すプログラムが入っています。脱皮後に回収隊が回収しますので、みなさんは何もしなくて大丈夫です」
 サカナ形質の設計図との交換でぼくらが受け取るのは、太陽光から栄養を作りだす機構の設計図。この島の棲者は、太陽光を浴びていないと、動くことができないという。それは、太陽光から栄養を得ることができる機構の裏返し作用。だから、この機構を捨てれば、太陽光が届かない海の中でも活動できるようになる。とても理にかなった交換だ。ただしその代わり、魚になった棲者たちは、栄養になる食べ物を自分で獲らなければいけなくなる。
「できれば、みなさん、近い場所でサナギになってください」
 設計図の回収は、回収隊がおこなうけれど、あんまりにも回収場所がバラバラで作業が大変だと、回収隊から苦情がくるのだ。

 次に訪れた棲者は、鮮やかな紅色の羽織を着た女の人だった。
「私は、右腕と右半身の一部がありません。それでも、みんなと同じように魚になれますか? 完全な魚にはなれないかもしれませんか?」
 彼女は羽織をひらりと上げて、その体をぼくに見せた。このこたえもマニュアルに書いてあった。
「体の欠損そのものは、作り変えの成功確率に影響しません。設計図を飲むとサナギになりますが、そのサナギの中で、体はドロドロの液体になります。その状態から、設計図が新しい体に作り変えます。だから、作り変え前の体に欠損があっても、問題はありません。ただし、サナギになる前の体の総容量は、作り変え後の体の大きさに影響を与えます」
 目を合わせてうなずきながら聞いてくれる彼女に、ぼくは、付け加えて言った。
「……でも、それとは別に、設計図のエラーはゼロではありません。エラーは、確率としては非常に低いのですが、……ゼロではありません」
 設計図の説明書に書いてあるし、隠しているわけではないけれど、エラーの話は、やっぱり言いづらかった。
「その種みたいな形のものが設計図ですよね。その中から、自分で好きなものを選ぶことはできますか?」
 エラーのある設計図を避けたいのかな。そんなことは無理なんだけどな。ぼくは戸惑いながら口を開いた。
「……見た目では、どの設計図も違いはなくて、見分けられないと思います」
 彼女は、にっこり笑ってうなずいた。
「いいの。自分で選んだっていうのが大事だから。私は、もし、運が悪い結果になったとしても、自分で選びたいんです」
 そういうことならと、ぼくは彼女に設計図を選んでもらうことにした。
 じっくり選ぶのかなと思ったけれど、彼女は一瞬で決めていた。そして、まぶしい笑顔でぼくに「ありがとう」と言って、帰っていった。

05 宴

 設計図を配りだしてから三日目になった。下弦の月の夜の五日前。ぼくが持ってきた設計図の残りは、ちょうど半分になっていた。設計図を受け取った棲者は、みんな、波打ち際の砂浜でサナギになっていった。時を迎えたサナギは、満ち潮の波の下で脱皮をして、魚になって、大海原へ旅立っていった。だけど、一時的に島を離れても、島が沈みきって穏やかさをとりもどしたころに戻ってくるだろう。そして、この辺りの海で暮らすはずだ。帰巣本能が働いて、形質が変わっても、棲者はあまり遠くへ行こうとしない。トリ形質への作り変えで事故が起きやすいのも、元の島から離れることに抵抗を感じるために思いきった飛行をしないからではないかとも言われている。
 砂浜を見てまわったところ、これまでに脱皮に失敗した棲者はいなかった。ここまでは順調だ。けれど、広場に設計図を受け取りにくる棲者が減っていた。ルーカお婆さんも、シキも、まだきていなかった。
 訪れた棲者がいちばん多かったのは初日だった。きのうは、まばらにしか訪れなかった。そして今日は、もう正午を過ぎているのに、ひとりもきていない。ぼくは広場を取り囲んでいる家々を訪ねることにした。
「こんにちは」と言いながら、一軒一軒をのぞいていく。家の入口には、枯れた植物を編んだ布が垂れているだけだから、その中を確認するのは簡単だった。
 家の中は外と同じくらいに明るくて、畳の床には、全面に光が降り注いでいた。この島の棲者は太陽光を浴びないと動けない。家の中のどこにいても太陽光が届く作りになっていた。天井には、採光用の丸い窓や四角い窓がいくつもあって、にぎやかな模様みたいになっていた。
 ぜんぶの家を見てまわった。太陽光が届かないところで眠っている棲者はいないようだ。そして、動いている棲者にも会えなかった。みんなどこへ行ってしまったのだろう。ぼくは、あてもなく山の中に入った。すると、声が聞こえてきた。あの泉のほうからだった。

 泉のほとりに、点々と、棲者の集団がいた。それぞれ三人から六人ずつくらいで輪になって、楽しそうに何かを飲んでいるようだ。
「あのう。すみません。設計図の受け取りには、いつきてくれますか?」
 ぼくは、いちばん近くにいた四人組に声をかけた。
 お爺さんがふたりとお婆さんがふたり。ぼくに気づいてからこちらに振り向くまで、とてものんびりとした動作だった。
「おや。配達者さん、わしらのことはかまわんでえぇよ」
 豊かな白髪のお爺さんが言った。顔は笑っているけれど、目の奥が笑っていないように見えた。
「でも……、ぼくは、みなさん全員に設計図を受け取ってもらわないといけないのです」
「そうかい。悪いがね、まぁ、あと一日くらい待ってくれないかね」
 赤ら顔のお爺さんが言った。
「でも……、少しでも早く海に出たほうがいいですよ。島が沈むときに近くにいると、危険です。海の底に引き込まれる渦に巻き込まれてしまいます。泳ぐのに慣れていないと、その渦から逃れられずに死んでしまうかもしれません」
「いいんだよ。どうせ、わしらは、生き残れん」
 白髪交じりの長い黒髪のお婆さんが言った。
 ぼくは返事に困った。マニュアルに書いてあるこたえを言うのはためらってしまう。ぼくがどうこたえようかと考えていると、白髪のお爺さんが、大きな木の実をくりぬいたコップの中身を飲み干してから口を開いた。
「体力のない者や、わしらのような老いぼれは、体の作り変えに耐えられんのだろう? 知っておるよ。サナギになったまま、脱皮できずに、死んでしまうのだろう?」
 あぁ、こんなとき師匠といっしょだったら、師匠がこたえてくれるのに。今は、ぼくしかいないから、ぼくがこたえなければいけない。
「全員がそうなるとは限りません。やってみないと、わかりません。人の形のままでいたら、死ぬ確率は百パーセントです。だから、設計図を受け取ってください」
 理屈ではそうだけれど、お爺さんの気持ちはよくわかる。調査隊によると、この島の棲者のヒト形質からサカナ形質へ作り変えの成功確率は、六割。体力によって成功確率が変わる。体力のない個体の成功確率は、一割前後という調査結果が、調査書には書かれていた。
「誤解しないでくれ。配達者さんに恨み言を言いたいわけではないよ。どうしようもないことだ。だけど、わしらは死ぬ確率が高い。だからこうして最後に少しの時間だけ、宴を楽しむことを許してはくれんかの」
「もしかして、この泉の周りにいる人たちはみんな……」
「そうだよ。体力に自信のある者は、配達者さんからの設計図を受け取ったよ。ここにいるのは、わしらのような老いぼれか、若くても病弱だったり、あとはまぁいろいろだが、魚になって生きられるとはどうしても思えない者ばかりじゃよ」
 確かに、ぼくが設計図を渡した人たちは、みんな、元気そうだった。赤ん坊もいたけれど、形質変更への適応力は、幼い個体ほど高い。設計図を受け取ったのは、成功確率が高そうな棲者ばかりだったことになる。
「ついでと言っちゃあなんだが、ほれ、この桶に泉の水を汲んできてはくれんか。わしらはもう、歩くのもつらくての」
 赤ら顔のお爺さんが、からっぽの桶を持ち上げながら言った。
「泉の水を飲んでいるんですか?」
 ぼくは桶を受け取りながら聞いた。
「そうだとも。こりゃあうまい酒だ。そいつは少し飲みすぎだがね。もう顔が真っ赤だ」
 白髪のお爺さんが、赤ら顔のお爺さんを見ながら言うと、お婆さんふたりが、うんうんとうなずいていた。お婆さんたちが持っている木の実のコップをのぞいてみると、濃淡のある金色に光る水が揺らめいていた。
「おまえさんには、あげないよ。飲むんじゃないよ」
 結い上げた髪に赤い簪をさしているお婆さんが言った。
「あんたまたそんな言い方をして。この人は口が悪くってね。気を悪くしないでおくれね。でも、飲んではだめだよ」
 白髪交じりの長い黒髪のお婆さんが言った。
「いえ、ぼくは……」
 ぼくら配達者は、棲者から警戒されることには慣れている。ぼくは、「もちろん飲んだりしません。泉の水を汲んできます」と言って、泉へ向かった。
 歩きながら考えた。あと一日待っても、危険はないだろうか。一日後、一番遅い人で、ちょうど今くらいの時間までに、設計図を飲んでもらう。下弦の月の夜の四日前。だけど、夕方に潮が満ちるあの砂浜でサナギになってもらえるとしても、当日の満ち潮には間に合わないかもしれないから、翌日か翌々日の満ち潮の時が確実な脱皮の時とすると、それが下弦の月の夜の三日前または二日前。いちおう、間に合う。ぼくは少し不安になったけれど、島からじゅうぶんな距離まで泳ぐのに必要な時間は一日もあればいいはず。それなら、陸地での最後の宴を邪魔する理由にはならないなと思った。
 預かった桶に泉の水を汲んでいると、同じように水を汲みにきている棲者の姿がちらほら見えた。みんな、ほろ酔いという様子で、楽しそうだ。ぼくを見つけて、小さく会釈する人もいるし、ふっと目をそらす人もいた。
「明日、広場で待っています」と言いながら、ぼくは、なみなみと泉の水を入れた桶を、赤ら顔のお爺さんに渡した。お爺さんは桶の中身を見て、満足そうにうなずいてから、「はいよ」と言った。
 ぼくは、シキを探しながら、宴をしている棲者の輪を見てまわった。そしてようやく気づいた。みんなとシキは、違った。肌の色、髪の毛の雰囲気、シキとシキ以外の棲者は、まるで別の島に棲んでいるくらい異なっていた。この島でいちばん初めに出会ったのがシキだったから、シキを基準に考えていたけれど、シキが異質だった。シキ以外の棲者は、砂色の肌をしていて、髪の毛は海藻みたいというよりは糸みたいだ。だからシキを探すのは簡単そうだ。見間違いようがない。だけど、泉を一周したのに見つからなかった。
 シキは見つけられなかったけれど、ルーカお婆さんには会えた。
「シキを探しているんですが、どこにいるか知りませんか?」
 ルーカお婆さんは、ぼくと目を合わせたまま、思案顔で黙っていた。
 ぼくがルーカお婆さんのこたえを待っていると、向かい側に座っていた細身のお爺さんが、「シキ? あんた、シキに会ったのか?」と、しゃっくりをしながら言った。ぐでんぐでんに酔っぱらっている。
「はい。シキは、まだ設計図の受け取りにきていません。体が弱いのですか?」
「体が弱い? そうだなぁ。わしらは、シキを見捨てるわけにはいかん」
 細身のお爺さんは、涙ぐんで言った。
「どういうことですか? 見捨てる?」
「ずっと、ともに生きてきた。このまま島が沈めば、シキは、シキでなくなってしまっただろう。だが、あんたのおかげで、わしらは、シキとともに……」
 細身のお爺さんの隣で酒をちびちびと飲んでいた恰幅のよいお爺さんが、肘で小突いて、その言葉をさえぎった。
「なんでもない。酔っ払いのたわごとじゃよ」
「……ぼくは、シキに会いたいです。どこへ行けば会えますか?」
 恰幅のよいお爺さんは、悲しそうに目を伏せた。
「それは、あきらめてくれ」
「どうしてですか?」
 お爺さんのこたえを待ったけれど、それっきり、誰も口を開いてくれなくなってしまった。ぼくは、「明日、広場で待っています」と言い残して、その場を離れた。

06 異変

 翌日、太陽が昇る前から準備をして、ぼくは早朝の広場で棲者を待った。だけど嫌な予感がしていた。そして嫌な予感は当たった。正午になってもひとりとして訪れない。ぼくは、重い気分で泉へと向かった。
 思ったとおり、みんな、泉の周りにいた。酔っぱらって眠っている人、酒盛りしている人、きのうと同じ光景だった。けれど、ぼくは違和感を覚えた。何かが違う。何が違うのだろうと考えながら、近づいていく。
 違和感の正体はすぐにわかった。棲者の体には、緑色の草のようなものがまとわりついていた。それに、泉の水が減っている。満月の夜に、ぼくが顔だけを出して寝そべっていた辺りは、水がなくなっていて、底の砂があらわになっていた。
 きのう最初に会話をした四人組のお爺さんとお婆さんたちは、土の上で気持ちよさそうに眠っていた。緑色の草がまとわりついているその体は、きのうよりも大きくなっているような気がする。膨らんでいるような気がする。そして、ぼんやりと、金色に光っていた。
 眠っている人を起こすのは悪い気がして、起きている棲者のところへ行く。
 何から聞けばいいのかわからなくて、出てきた言葉は、今いちばん言いたいこととは違った。
「すみません、設計図を受け取りにきてください」
 どうしてだろう。ぼくの声は震えていた。
「あらぁ。ごめんなさいね。あと一日くらい許してくださいな。みんな、酔っぱらってしまって、動けなくなってしまってね」
 陽気な声で、丸顔の女の人が言った。顔にも、手にも、首にも、緑色の草が張り付いている。彼女は、お婆さんでもないし、体力がないわけでもない。けれど魚として生きていく自信が持てないという理由で、友人五人とこの宴に参加をしていると、きのう言っていた。
「明日には、必ずきてください。……ところで、みなさん、どうして草が張り付いているのですか?」
 丸顔の女の人の近くには、いっしょに宴をしていた五人の女の人たちが、丸くなって眠りこけていた。五人の体にも、緑色の草が張り付いている。
「ああ、これかい? 土の上で眠っていたら、朝露で湿り気があるから、くっついちゃったんだねぇ」
 ぼくは、宴の輪を見てまわった。みんな、みんな、起きている人も眠っている人も、緑色の草を張り付けて、ぼんやりと金色に光っている。まだらに濃淡のある金色の水が、棲者の体内に流れていて、それが透けて見えている。その金色は、泉の水だったものにしか思えない。泉の水が、棲者の体内で光っているとしか思えない。これは、どういうことだろう。この島の営みの一部なのだろうか。
 少しでも会話ができそうな棲者を探して声をかける。「設計図を受け取りにきてください」と言う。すると、「それよりも、ちょっとすまないが、この桶に泉の水を汲んできてくれないか」と、みんなが同じようにぼくに頼んでくる。
「飲みすぎではありませんか? 大丈夫ですか?」とぼくが心配をあらわすと、誰もが幸せそうな顔をして「大丈夫だよ」と言う。そして、「明日こそは設計図を受け取りに行くから、今日は見逃してくれないか」「明日でも間に合うんだろう?」と言う。
 確かに明日ならまだ間に合う。みんなの幸せそうな顔を見ていたら、強引に宴を終わらせることはとてもできないと思った。ぼくは、言われるがままに、桶に泉の水を汲んで棲者たちに渡した。

 けれどそれは間違いだった。次の日も、泉の周りでの宴は続いていた。泉の水は、さらに減っていた。棲者の体は、いっそう金色を帯びて膨らんでいた。棲者の体に張り付いていた草は、伸びていた。ぼくはもう認めるしかなかった。緑色の草は、肌に張り付いているのではなく、棲者の体から生えていた。

07 ツキノミの泉

 満月の夜の翌朝にぼくと話をした木の根元で、ルーカお婆さんはひとりで座っていた。ルーカお婆さんも、みんなと同じだった。体のいたるところから緑色の草が生えていて、ぼんやりと金色に光っていた。
「この島では、体から草が生えたり、体が金色に光ったりするのは、普通なのですか?」
 ぼくはおそるおそる質問した。
「あと三日になったか」
 確かめるようにつぶやいたルーカお婆さんは、初めてぼくに優しい笑顔を見せた。
「普通ではない。初めてのことだ。……我らはもう、ヒト形質とは言えぬのではないか? ならばもう間に合わない。そうだな?」
 ぼくは絶望的な気持ちになった。あと三日なら、まだ間に合う可能性はじゅうぶんある。だけどそれは、調査隊が調査したこの島の棲者のヒト形質の個体の場合だ。草が生えて金色に光るヒト形質といえるのか不明なものからサカナ形質への作り変えは、今回の設計図の想定外だ。
「普通ではないということは、……病気なのですか?」
「モザイク病という」
「モザイクビョウ……?」
「そう。だが、病になったのは、我らではない。泉だ」
 ぼくは、胸が押しつぶされそうになった。
「それは、どんな、病気なんですか?」
「この島の名は、ツキノミ島という。この泉が月の光を飲んで生きていることが、名の由来だ」
「月の光を、飲む……」
 そんな泉は、見たことも聞いたこともなかった。だけど、初めて見聞きすることに出会うのは、ぼくの経験が少ないのかもしれないし、世界はそういうものなのかもしれなかった。
「しかし、そなたが運んできた良くないモノで、泉は病におかされた。金色に輝いたのは、月の光を飲めなくなって、跳ね返してしまったからだ。泉に吸収されなくなった月の光が水面に漂って、それがモザイクのように見えるため、モザイク病という。いにしえからの言い伝えにあるが、この目で見たことはなかった。美しい姿だろうが、月の光が飲めなくなったら、この泉は、ゆるやかに死んでいく。既に、泉の水は湧き出ることもなくなった」
 あの綺麗な金色は、病気のせい……。ぼくが、運んできてしまった良くないモノのせい……。ぼくの頭はぐるぐると同じ言葉を繰り返した。
「我らは、この泉とともに生きてきた。泉を見捨てて、我らだけが生きのびることは、最初からできぬことだった。島が沈み、海に混ざれば、この泉は存在を保てぬであろう。ヴィースよ、そなたこそが、我らが待ち望んでいた配達者である。何人もの配達者を呼んでも、出会えなかったゆえ、もうあきらめようかとも考えていた。だが、間に合った。そなたが連れてきたモノのおかげで、我らは、泉と運命をともにすることができるであろう」
 病気になった泉と運命をともにするということは、――死んでしまおう、ということなのかな。そんなの、ダメだよ。だけど、ダメだと言う権利なんて、ぼくにあるのかな。
「治らないのですか? 泉の病気が治れば、ルーカお婆さんたちも、元に戻りますか?」
「治療法はわからぬ。なにせモザイク病の発症は、八百年も前に一度あったきり。この島にはかつて、ふたつの泉があったのだ。しかしそのとき、ひとつの泉が消滅した」
 配達者を呼ぶと、配達者に憑いている良くないモノが島に入ってしまう危険がある。みんなわかっていることだ。ぼくら配達者も、島の棲者も。だけど、何も起きないことのほうが多い。だけど、この島では、起きてしまった。ぼくのせいで。ぼくは、ルーカお婆さんの顔を見ることができなくなった。
「ごめんなさい」
 ぼくはやっとのことで言葉を絞り出した。
「謝る必要はない。詫びなければならぬのは、我らのほうだ。配達者の仕事を知っておるよ。設計図の交換を経験した先祖からの伝えを代々受け継いで聞いておる。受容体を持つ棲者全員が設計図の交換をしなければならない理由も知っておるよ。体を作り変えれば、その負荷に耐えられずに高い確率で死ぬとわかっている者も交換対象にすることでこそ、そなたらの仕事は成り立つのであろう? 設計図の交換だけでは、そなたらの持つ設計図の数も種類も、なかなか増えぬ。増やすためには、死者が残した設計図をすべて回収するのであろう? 設計図を少しでも多く集める。それがそなたらの性であろう。だから設計図の交換は、島の全棲者とおこなうのが条件になっておる」
 何か言わなくちゃと思ってぼくが顔をあげると、ルーカお婆さんはまた優しく微笑んだ。
「責めようとしているのではない。そなたらは、そういう性の生き物なのだから、それでよいのだ。そして、それがこの世界の均衡を保つために必要だとも知っておる。だがな、我らも、生きようとすることを止められんのだ」
 師匠なら、どうやってこたえるんだろう。ぼくはただ、ルーカお婆さんの言葉を聞いていた。
「島の棲者は、ひとりでも設計図の交換をおこなったら、残りの者も交換をしなければならない。しかし、配達者が持ち込んだ病によって設計図の交換ができなくなった場合、我らに責任は問われない。これは間違いないか?」
「はい。間違いありません」
「それを聞いて安心をした。すまないが、魚になった我らの仲間に何かあったときには、また助けてやってくれるか」
「それはもちろん。でも、ルーカお婆さんたちは? ……死んでしまうつもりなのですか?」
「我らも初めてのことで、うまくいくかどうかわからん。まぁ、見ていてくれないか。我らが死んだら、設計図を回収してくれ」

 ぼくは、調査隊と回収隊と配達隊の緊急連絡窓口に、ことの次第を報告した。どの隊からも、「手遅れだな」という返事がきた。配達隊からは師匠に伝わったらしく、師匠からは、「見届けろ」とメッセージが届いた。

08 下弦の月の夜

 島が沈むまでの残りの日、宴を続ける棲者たちに、ぼくは、泉の水を汲んで配る仕事をして過ごした。
 泉の水は、みんなが飲めばその分だけ減っていき、下弦の月が昇る日の朝には、からっぽになっていた。その代わり、棲者たちの体は腹を中心にパンパンに膨張して、その体から生えている緑色の草は、棲者の身長を超える長さに育っていた。まだらに輝く金色の水は、棲者の体内とそこから生える緑色の草の内側を循環していた。
 モザイク病。なんてぴったりな名前だろう。濃淡のある金色の光の模様は、まさにモザイクだった。
 内側に金色の水をたたえたその草が風に揺らぐ姿には、見覚えがあった。シキの髪と同じ緑色の草。美しく揺らめく海藻を思わせる草だった。
 もうぼくは気づいていた。シキは、泉だった。泉の化身だったのだ。ぼくはシキを病気にしてしまったのだ。だから会えなくなったのだ。ルーカお婆さんに確認したいと思ったけれど、ルーカお婆さんも、他の棲者も、みんな、きのうから、目を覚まさない。
 ぼくは、ひとりで夜を待った。

 風のない夜だった。下弦の月が濃紺の空に輝き始め、呼応するように島が沈み始めた。どんな島も、休眠期を迎えると海の底に沈む。眠りから覚めればまた、海面に陸地を見せる。島によって周期が異なるだけで、この営みは誰にも止めることができない。
 ぼくは、羽ばたいて空に浮かぼうとした。ところが、うまく飛びあがれなかった。島が沈むときの乱気流を甘くみていた。海の奥でうなる振動が大気を揺らし、空までも引きずり込もうとするようだった。あっという間に、ぼくは海の中に落ちてしまった。ぼくといっしょに、金色に光る緑色の草を生やした棲者の体が沈んでいく。昼間には薄らいでいた金色が、月の光を浴びたためだろう、黒々とした海の中で燦然と輝いていた。みんなこのまま死んでしまうのかな。ぼくは激流の渦にのみこまれながら、どうすればよかったんだろうと思った。
 意識を失いかけたぼくのお尻に、柔らかい何かが触れた。最初はゆっくり、そして加速度的に、ぼくの体は浮上した。そして、ぽんっと海面に跳ね上げられて、ぼくは勢いよく咳き込んだ。何が起きたのかわからなかったけれど、ぼくはもう海に沈まなくなっていた。
 お尻の下が、ぷよぷよと揺れていた。それは、草と言うにはあまりにも巨大な緑色のモノだった。ぷよぷよしているのは、緑色のモノに袋状の葉っぱが付いているからで、その中には、まだらに輝く金色が流れていた。見まわすと、ちょうどあの泉くらいの大きさの、緑色のモノでできた陸地が、海面を覆っていた。
 金色の光が、緑色の葉っぱを透かして、渦で濁った夜の海を明るく照らしている。この緑色のモノは、どこから伸びているんだろう。ぼくは海の中をのぞきこんだ。まだらに光る金色の筋が、ずーっと下の方まで続いているように見えた。

09 イオとリトロ

「おーい。あんまり下をのぞくと、また落ちるぞ」
 空から声が聞こえた。仰ぎ見ると、ぼくと同じ涅色の体で、鈍色の飛膜で羽ばたいている仲間がいた。大きな網を持っている。回収者のイオだ。
「ごめん。……半分しか交換できなかった」
「知ってる。俺の仕事も半分になって楽だからいいよ」
 イオは、緑色のモノの上に静かに降り立った。だけど、ぷよぷよに足をとられてよろけていた。
 ぼくはいまそれを笑うことは許されない。
「……ごめん。設計図を増やせなくて」
 反省している顔を崩さないように努力しながら言ったけれど、笑いを我慢していることはバレてしまったみたいで、イオににらまれた。
「やっぱり棲者は、したたかだね」
 いつのまにか、調査者のリトロが、ぼくの背後に立っていた。大きな鞄を三つも抱えている。
「これ、モザイク病って言うんだって」
 ぼくは足元の緑色のモノを見ながら言った。
「綺麗だなぁ」
 イオとリトロは声をそろえて言った。
「綺麗だけど、病気なんだ。ぼくのせいで」
 泉の水は棲者の体の中に閉じ込められているのかな。だから海に混じらなかったのかな。だけど、このままだと、死んでしまう。
「……治せないかな」
 ぼくはつぶやくように言っていた。
 ガサガサと音がすると思って顔をあげると、リトロが調査書を広げていた。
「治せない。というよりも、治す必要はなくなっていると思う」
「もう調べたの?」
「当然。でも、すごく古い記録しかなくて大変だった」
「でも、どういうこと? 治す必要がないって、どういうこと?」
 ぼくはリトロを急かすように聞いた。
「モザイク病っていうのは、症状の見た目で付けられた名前だから、いろいろな場所にその名前の付いた病気がある。同じ名前でも違う病気だったりするんだ。だから、今から言うのは、ツキノミ島のモザイク病のことね」
 リトロは前置きをしてから話を始めた。
「ツキノミ島において、モザイク病になった泉は、唯一の栄養源である月の光が飲めなくなるから、そのままだと死ぬ。ちなみに、このモザイク病の種を持ち込んだのはヴィース。経緯からして間違いない。だけど、この島の棲者は、モザイク病の種を持った配達者をずっと待っていた。ヴィースの前に二十人以上の配達者が追い返されているし、ルーカ婆さんの言ったことやヴィースを一晩も泉にいさせたことからも、わざとモザイク病になったと思う」
「……みんなで一緒に死ぬために?」
「違う。モザイク病にかかった泉は、死なないために、生きるために、他の生き物を乗っ取るスイッチが入る」
「乗っ取る?」
 ぼくは驚いた。イオも驚いた顔をした。
 リトロは得意げな顔をして調査書を見ながら続けた。
「八百年前のツキノミ島でモザイク病になった泉の記録を調べた。それによると、ツキノミ島の泉は、モザイク病になると、とある種を作りだす。その種を飲んだ生き物は、泉の水にとっての容器のような役割を果たすモノに変わる。泉は、その生き物の中に棲むことができるようになるんだ。そして、この緑色のモノを生やす。この緑色のモノは、泉の触手で、手当たり次第、栄養を探して伸びていく。その結果、ツキノミ島の生態系は壊滅した。獣も、昆虫も、鳥も、いなかっただろ?」
 山の中の静けさは、そういうことだったのか。ぼくは満月の夜の静寂を思い出した。
「当時ツキノミ島に棲んでいたヒト形質以外のほとんどの生き物は、モザイク病になった泉にその体を乗っ取られたか、食べられちゃって絶滅した。近海の水棲生物までも食べつくしたそうだから、凄まじい食欲だよ。月の光に匹敵するエネルギーを得るには、大量の生き物を食べないと足りなかったんだろうな。だけど結局は、モザイク病になったその泉自体も駆除されてしまって、消滅したんだけど。つまり、この上にいると、俺たちも……」
 ぼくとイオは青ざめて飛びあがった。
「冗談だよ。降りてきてよ」
 空に逃げたぼくたちに向かって、リトロは笑って言った。
「やめてよ。驚かすのは」
「なんだよ。またリトロの悪い癖か」
 ぼくとイオは形だけの抗議をして緑色のモノの上に戻った。
「普通なら、俺たちも食べられちゃうんだよ。だけど、八百年前、ほとんどの生き物が絶滅してしまったツキノミ島の棲者は、今回みたいに配達者を呼んだんだ。そのときに渡されたのは、太陽光から栄養を作りだす機構の設計図。食べ物がなくなってしまった島で生きるための作り変えだったんだ。それでね、今、泉は、棲者の体を乗っ取って、たぶん、太陽光から栄養を作りだす機構を使えるようになっていると思う。モザイク病の前は月の光でやっていたことだから、親和性も高い」
「ほんとか? この上にいても、俺たちを食べたりしないんだな?」
 イオがいつでも飛び立てる態勢をしながら聞いた。
「食べないさ。そうじゃなければ、ヴィースはとっくに食べられちゃっていたはずだ。食べるって言っても、葉っぱで獲物をからめとって、この孔の部分を吸着させて、獲物の体を溶かしながら吸い取るっていう食べ方だと思うけど」
 リトロは、ぷよぷよとした袋状の葉っぱを持ち上げたり裏返したりしながら観察していた。
「うん。構造的には、そうだなきっと」
 リトロが葉っぱを動かすたびに、濃淡のある金色の水がユラユラと動いて、ぼくたちの顔をまだらに照らしていた。
「でも、シキは……、シキっていうのは、泉の化身なんだけど、……とても優しそうだったよ。そんなに怖い生き物には思えないよ」
「泉の化身ねぇ。俺たちとは思考回路がまったく違うんだろうな。もう調べようがないけど、今回の設計図の交換対象じゃなかっただろうし、いわゆる生き物といえるのかもよくわからないし、会話も成り立たなさそう」
「会話はできたよ。シキは、ぼくのこと、ずっと待っていたって言ってくれた。会えて嬉しいって言ってくれた。ぼく、それを聞いてがんばろうって思えたんだ」
 リトロとイオが顔を見合わせた。
「俺には真実を告げる勇気がないから、リトロ、頼んだ」
「それはねぇ、ヴィースの持っているモザイク病の種を『ずっと待っていた』んだよ。モザイク病の種を持っていたから、『会えて嬉しい』って言ったんだよ。熟練の配達者なら、そこで何かおかしいって気づいたんだろうなぁ。普通に考えて、配達者ってそんなに歓迎されないから」
 リトロがさらりと言って、イオはぼくを憐れんだ目で見た。
「そ、……それは、……そうかもしれないけど、でも、シキは、みんなから好かれていたよ。きっと仲良く暮らしていたんだと思う」
「そりゃあそうさ。貴重な水源だから。島の飲み水は、泉にしかなかったんだから」
「棲者と泉が仲良しかはどうでもいいけど、結託していたってことか? でも、泉は思惑どおりだったとして、棲者にとってはどうなんだ?」
 ぼくはシキの誤解を解きたかったけれど、イオが話題を変えてしまった。だけどイオの疑問は、ぼくも気になることだった。ルーカお婆さんたちは、これで満足なのかな。
「さぁ。偶然うまくいったのかもしれないし、わかっていたことなのかもしれないし、実は違う結果を望んでいたかもしれない」
「そんないい加減な」
「これから調査はしてみるよ。今は推測しか言えない。けど俺は、これは棲者にとっても望んだ結果なんじゃないかと思う。賭けとしても悪くなかった。サカナ形質への作り変えの成功確率が一割前後の個体もいたしね。泉に乗っ取られてはいるけど、ヒト形質のときと同じように太陽光から栄養を得て生きられる。ヴィースが聞いた『泉とともに』『シキとともに』っていう棲者たちの言葉とも矛盾しない。この金色の水が酒みたいなものだっていうのなら、ずっと宴が続いているのと変わらないのかもしれない」
「これが棲者の望んだ結果? ほんとかよ。俺にはよくわからないなぁ。でもまぁ、確かに、棲者は死んでいない。設計図が放出されている気配も感じないしなぁ。このあとも安定して存在するとしたら、待っていても、回収できる設計図は増えそうにないってことか」
 イオがぼくを責めようとして言っているのではないことはわかっている。だけどぼくは、申し訳なくてうつむいてしまった。
「すまない。配達者に憑いている良くないモノを利用されるなんて、思いもしなかった。今回は、調査不足だった」
 リトロの意外な発言に、ぼくとイオは顔を見合わせた。
「リトロでも謝ったり反省したりすることがあるのかぁ」
 イオがケラケラと笑うので、ぼくも思わず笑ってしまった。
「貴重な事例だから、俺はしばらく調査に残るけど、ふたりはどうするの?」
 リトロはむっとしながらそう言って、鞄の中から実験用具やら筆記用具やらを取りだして、緑色のモノの上に並べ始めた。
「何を調べるの? ぼくも知りたい。それに、魚になった棲者たちのことも気になるし。師匠からも、見届けるように言われているんだ」
「俺も残る。この近くで未回収になっている設計図でも探すよ。設計図を少しでも多く回収しないとな」

10 半魚の島

 下弦の月の夜が明けたその日の午後、魚になった棲者たちが次々に戻ってきた。みんな、緑色の陸地の下に潜っていく。
「行ってみよう」
 リトロが海に飛び込んだので、ぼくとイオもあとに続いた。
 海の中はすっかり穏やかになっていて、薄ぼんやりとした光に満たされていた。緑色の陸地は、海の中から見上げても金色に光っていた。海底からは何十本もの金色に光る緑色の幹が伸びていて、それらは互いに絡み合って、緑色の陸地を支えていた。
 元気のいい小さな魚が突進してきて、緑色の幹の隙間を縫うように泳ぎまわった。あのときの、鳥になりたいといった少年だろうか。ぼくはそうだったらいいなと思う。その小さな魚のあとを、少し大きめの魚が追いかけていった。そのあとをまたそれよりも大きな魚が追いかけていった。三人の棲者は、追いかけっこをして遊んでいるみたいだった。けっこうすぐに遊べるようになっちゃうものなんだなぁ。ぼくは、「魚になってしばらくは遊ぶ余裕なんてないよ」なんて言わなくてよかったと、こっそり思った。
 しばらく見ていると、緑色の幹の隙間に、棲者たちは各々の居場所を見つけたみたいに落ち着いていった。そして、金色に光る葉っぱをついばんだ。何をしているんだろうとぼくが思っていると、リトロが上に戻ろうと合図をした。
 緑色の陸地にあがって体を乾かしながら、リトロは興奮気味に調査書を書き始めた。
「何かわかったの?」
「この緑色のモノは、魚になった棲者の家になるし、食糧にもなろうとしている。狩りがうまくできない個体でも、生きていくことができるかもしれない」
「つまり?」
 ぼくとイオはリトロの言葉を待った。
「やっぱり、ルーカ婆さんたちの意図だったんじゃないかな。棲者は、泉を助けるためだけに行動したわけじゃない。泉も棲者もどっちもが利用しあったんだ。それにしても、凄い奇跡だよ」
「食糧って……、魚になった仲間のために、自分たちの体を食べさせているっていうこと?」
「少し違う。この緑色の葉っぱは、棲者の体そのものではなくて泉の触手だよ。泉の力によって生えているものだから、泉が生きている間は、どれだけでも増える。泉の水が湧き出るようにね」
「待ってよ。葉っぱを食べるっていうことは、泉の水も飲むってことだよね? 泉の水を飲んだら、乗っ取られちゃうんじゃないの?」
「それは大丈夫。俺、きのう飲んでみたから」
「えっ、飲んだの? いつの間に……」
「ふたりが眠ったあとで」
 そういえばきのうの夜は、ぼくとイオが寝始めようとしても、リトロはまだ何かしているようだった。調査者が夜通し作業をすることは珍しくないから気にしていなかったけれど、自分の体で実験しているとは思わなかった。
「よくそんな危ないことができるもんだ」
 イオがあきれたように言った。
「もちろん検査をしてからだよ。この緑色のモノから外に出た泉の水は、もう力を持たないことがわかった。わかりやすく言うと、死んでしまった。死んでしまったら、月の光を飲もうとしない。モザイク病の状態は、月の光を飲もうとして集めるのに飲めないから金色を帯びたままになってしまう結果なわけ。今はもう、本体から離れた泉の水は、何もしない水になっているよ」
 リトロは、緑色の陸地から葉っぱをちぎって、その中の金色の水をコップに注いだ。コップの中の水は、一瞬で透明な水に変化した。
「飲んでみたら? おいしいよ」とリトロに言われて、ぼくとイオは、「うん、あとで」と言った。
 リトロは、「大丈夫なのになぁ」と言いながら、透明になった泉の水をごくごくと飲んだ。
「俺の体は金色にもならないし、草も生えてこない。もう乗っ取りスイッチはオフになっているんだよ。そういうことをするには、莫大なエネルギーがいる。いつまでも続けられない。乗っ取った体で栄養を摂取できるようになっているから、もういいんだよ」
「モザイク病のままだけど、泉は元気になったっていうことなの? それなら、シキに会えるようになる?」
「それはわからない。今は回復に集中しないといけないかもしれないから。だけど、棲者の体が容器になって、海の水に混じらずに守られているし、緑色の触手を海面に広げて太陽光は浴び放題。当面、この営みは誰にも邪魔をされないよ。太陽が消えてしまったり、この島の上に大きな屋根でもできてしまったりしなければね。すぐに回復しそうな気もするなぁ。でも、完全に回復したからって、姿を現さないかもしれないよ。泉の考えていることなんてまったくわからないな」
 わからないと言っているリトロが、泉のことをいちばん理解しているみたいで、ぼくは少し悔しい。悔しいけれど、リトロの言うとおりにシキが元気になってくれたら嬉しい。それで、またいつかシキに会えたらいいなぁと思った。
 緑色の陸地のヘリから、海の中をのぞいてみる。魚の棲者たちが、まだらに金色に光る緑色の葉っぱをついばみ、ちぎって食べている。その体は、金色に光ってはいないし、緑色の草も生えていなかった。
「ここは、どう呼べばいいのかな。島、だよね?」
 緑色の陸地があって、棲者が棲んでいる。棲んでいるのは、陸地ではなくて海の中だけど。
「ツキノミ島だと変だよね? もう月の光を飲まなくなっちゃったんだし」とぼくが言うと、イオは、「この緑色のよくわからないモノの名前にしたら? なんて名前?」と言った。
「さぁ。棲者と泉の共生体だよなぁ。なんだろう? 名前は、そのうち誰かがつけるんじゃないかなぁ」
 気のない返事をしながら、リトロは調査書を書いている。
「名前が付くまではどうやって呼べばいいの? 呼び名がないと困るよね」
 ぼくはリトロの調査書に目をやった。すると、島の名称欄には、「半魚の島」と書かれていた。
 ぼくの視線を追って、イオが目ざとくそれを見つけた。
「半魚の島? 変な名前。半分の棲者が魚になったから? 残りの半分は何になったかわからないから放置? テキトーすぎ」
 リトロは顔を赤くした。
「うるさいよ。とりあえず事実を書いておいたんだよ。俺は、事実を大事にするから。なんかいい名前があったら言ってよ。書き直すから」
 珍しくリトロが焦る様子がおかしくて、イオといっしょに笑ってしまったけれど、ぼくはその名前が好きだなと思った。


おわり

この作品について

2021年9月23日~2022年6月18日:pixivで公開
2022年7月31日~:このページで公開