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運命の女神 (2)



   二、




 誰かにこの気持ちを伝えられれば、楽になるはずなのだ。
 それは計算と言うよりも、そうであってほしいという希望で、頭の中では何度も誰とはなしに自分を表現する瞬間を思い描いている。頭の中の自分はとても雄弁で、感動されたり受け入れられる。何らかの変化が起こる。そういう欲求。
 だいたいは叶えられない。
 「本当のこと」は話そうとしても言葉にはならず、また、誰もそんなことを聞きたいとは思っていない。誰もがまず自分があり、自分を第一としていて、だからこそそんな誰かに聞いてほしいと思う。誰もが聞いてほしい側なのだ。そして自分の思い描いたように相手に反応されたい。あるいは何かを知らしめられたい。下心なく。鬱憤がたまればたまるほど、期待は大きくなっていく。
 自分の番はいつになったら来るのだろう?
 今日こそ話したいことがあった岡田尋人は、西野総治のお決まりの話題に先を越された。
 「世界が滅亡したとすると、俺たちが暮らしているここは一体何なんだろうな?」
 またその話題か、と尋人の口から思わずため息が漏れた。尋人は前よりもずっと落胆を隠せなくなっている自分に気づいた。
 その話題を繰り返す事に一体何の意味があるのだろう?そもそもが答えの出ない話題で、聞いていてもどう返事をしていいかわからない。それでも、尋人なりに総治の話題を受け止めて考え答えを返していた時もあったが、現実的な対応を話す尋人と、ただぼんやりと夢だか妄想だか分からない話を垂れ流す総治の話は決定的に噛み合わない。疲れる。つまるところは、何も建設的な意味を持たない会話。
 総治はいつからこんな滅亡の話をするようになったのだろう?聡子のしている話なのだから、聡子が病気になってからだろうが、聡子の調子が悪くなって結婚したのだったか、それとも結婚してからだったのか、その境目を尋人ははっきりとは言い得ない。ただ、働きだして二三年で総治は今のような滅亡の話をしだしたのだ。
 せっかく時間を作って会っているのに、総治がどんな答えを求めてその話題を振ってくるのか、尋人には理解できなかった。ただ聞いてほしいだけなのかもしれないが、いつも聞き手と話し手のバランスが崩れている。それを尋人は不快に思うようになっていた。同じ話題に何度も時間を取られるほど、尋人に余裕はなかった。それでも最後の愛想をとりもどして尋人は答えた。
 「そういうのって、あんまり真に受けてもしょうがないだろ。そういうこと考えてると、精神的にもたないよ」
 「そうかもしれないけど、でも……」
 (でも?)
 まだこの話を続けるのか、という尋人の不満の空気に総治が口をつぐむ。そのまま不自然な間が生まれたが、尋人はそれ以上滅亡の話が続きそうな言葉は返さなかった。
 結局、滅亡の話はそのまま終わり、最近あった大したことのない出来事の話が続いた。それはお互いに差し迫った話題ではなかったが、そういう時程会話と言うプロセスはまともに機能しているようだった。積極的に会う時間を延ばす意味も見つからず、結局尋人は自分が話したいことは話せないまま、総治と別れた。
 別れたそばから、尋人の中には後悔の念が湧いてきた。
 ああ、きっと俺は総治を傷つけている。と分かる。のに。
 なぜ、自分は友人の話が受け入れられないのだろう?つまらないから?自分にとって意味のない話だから?
 総治は滅亡の話を聞いてもらいたがっていた。ならそれが、どんなに無意味な話でもきちんと受け止めるべきだったのではないか?総治はきっとそれを求めていただろう。彼の話を聞けば、どこかでそれは途切れ自分の話の番だって回ってきたかもしれない。かと言って滅亡の話は、あまり現実的な話ではないし、本当にあまり真に受けてもよくないという思いもある。その非現実的な話に埋没すればするほど、総治は現実から離れていってしまうのではないか。現実から離れても、離れている間も現実は流れ、自分たちは確実に年を取る。けれど、それはどれくらい総治のためを思っているだろう。自分本位な考えに落ちいっていないだろうか。むしろそれは総治の方なのか?
 尋人には総治が羨ましかった。言うか言わないか悩んで何も話せない人間よりも、どんな話題だとしてもありのままに何も気にせず話せてしまえることが。そしてどこかでそういう人種に苛立つ。
 自分にとって苦痛となる時間を過ごすくらいなら、初めから総治と会う時間なんて持たなければいい。あるいは、丁寧に聞いている振りをしてやり過ごし、適当なところで自分の話題にすり替えて話したいことを話してしまえばいい。そういう自分の気持ちをまず考える。世に拡散されている会話術。それこそが相手にも自分にも良い正しい方法なのだと考えている人間の方が、ずっと社会に適応して、組織の中で安定して能力を発揮している。他者と調和し、自分の意見を発し、周囲の人間からありがたがられている。だから尋人は重すぎないように、実益のある話を探している。
 しかし、自分はそれを求めているわけではないのだ。本当のところ。ちょっとした退屈をやり過ごしたり、顔見知りになるための円滑なコミュニケーション、冗談が、必要であるというのは本当だろうか?効率のために必要なのだろうか?繰り返す程に絶望する過程が。
 総治の滅亡の話も尋人は求めていない。だが、近い。しかし、総治は遠い。
 自分も遠くへ行ってしまえたら、総治のようにあのぼんやりした瞳の中に、自分の葛藤の全てを溶かし込んでしまえるだろうか。
 総治にとっての聡子のように、まだ静と別れていなければ。あの時これが最善なのだと思っていたのに、なぜこんなにも自分は気になってしまうのだろう。因縁について。別れについて。
 今日総治と話そうとしていたことだって話題としては大したことはない。ただのゴシップだ。中学生の頃のクラスメートが女子アナになって、サッカーの日本代表選手と結婚したというだけの話。けれどそのニュースを見た時、尋人は思い出した。結婚した女子アナは、中学時代、才能ある野球部員と付き合っていて、二人はきっとこのまま結婚するのだとぼんやりと思っていたこと、それはお似合いでどこかで憧れていたことを。そして思うのだ。
 どうして二人は別れてしまったのだろう、と。





   三、




 もしも理由があったら、黙って耐えていけるのだろうか?その言葉にはっきりと答えることができたら。執拗に求められることもなかったのだろうか?理由とは誰のためにあるのか?理由とは、単なる因果関係の説明とは違うのだろうか。
 どうして?って。
 問われ続けた日々のことを、今はもう思い出したくはなかった。それでも自分がまたあの頃の事を思い出すようになったのは、自分が問う側に回っているせいだ、と思う。
深く吐いた息が白く広がっていく。それを切り裂くように白いボールがひゅんと澤田秀明をめがけて飛んできた。
 秀明はボールをグラブで難なく受けると、目の前の少年にゆるく放った。瞬間、つ、と垂れてきた薄い鼻水をすすり上げ、視線をわずかに上に上げるとキャッチボールの相手をしてる少年の向こうにどんよりとした冬の曇り空が広がっていた。河川敷に広がるグラウンドのそこここで少年野球の子供たちが各々練習メニューをこなしている。
 冬のグラウンドに降りてきている空気は重たい。
 この川縁の広い更地とそこにある全ての存在に、私と共に静止しよう、と大きく疲れきった肥満人がその身を横たえているかのようだった。時折音を立てて吹く風も、留まろうとする何かを無理矢理強く動かしたような鋭く直線的な動きで駆け抜けていく。
 その乾燥した空気は、水分を多く含んだ夏の空気よりも、一層グラウンドを走る子供たちの声を辺りに反響させているようだった。高い音が辺りに良く響き、そして静まっていく。この静けさは実際、大概のものが冬の空気の呼びかけに応えて素直に静まってしまうからかもしれない。しかし、呼びかけられるまま静止すれば、外部から熱の供給を受けない限り、空気と共に凍えていくだけだ。
 またボールを受けると、秀明はミットにそのボールを収めたまま、剥き出しのまま凍えた指先に息を吐いて手と太ももをごしごしと擦り合わせた。
 そろそろ少年たちが練習メニューを交代する時間だった。と思うと交代の号令がかかる。
 子供たちが号令に応じて、はい、と応える。一瞬その響きがグラウンド内の冬の空気の容積を上回る。ユニフォーム姿の小さい体が、銘々目的の場所に向かってかけてゆく。子供たちの荒い息が、外気に触れて一瞬白くなり、透明にほどけていく。
 屈んでいた秀明は立ち上がって子供たちの様子を見た。体に絡みついていた寒さを振り払うようにその場で軽くジョギングする。
 「はい、じゃあいくよ」
 目の前に来た少年に声をかけると秀明の僧帽筋の辺りに張り付いていた寒さがはがれ落ちていった。
 ああ、自分がこの場所にいられてよかった。
 少年たちを見ていると、秀明は胸がわくわくした。
 別に、ここにいる子供達の全てが、プロの野球選手になる訳ではないだろう。一人出たってすごいことだ。きっと何人かは現時点でも目指していない。
 だが、そんなことはどうでもいいことだ。
 少年達がここにいる理由は、きっと大体同じだが完全には一致しない。全然違っていても構わない。みんな理由は違うのに、こんなに寒い冬の最中、わざわざ暖かい家から出てきて、集まって野球をしている。そのことが、楽しい。どんなスポーツより、やっぱり野球が良い。秀明自身が少年の頃、こんな風に皆と野球の練習をして、テレビで見て、研究して、学校の友達と話して、また練習して上手くなって、それが楽しかった。野球をしている仲間に出会えるのは、やっぱり嬉しい。
 もし、出会えた彼らが困難に膝を折るとしたら、やはり自分は「どうして?」と言ってしまうのだろう。声にせずとも。
 そう思い至った時、秀明は自分が、「託す」側に回ったのだと気がついた。
 ああ。
 でも、もしも。あの時、その問いを自分が、自分に問いかけてじっくり向き合うことができたら、もしかしたら何かが今とは変わっていたんじゃないか?
 本当は、自分のために、自分のためだけに考えたかった。誰かに答えるために、ではなく。不満な誰かを納得させるために、ではなく。誰にも奪われずに。だってその責任を誰が取ってくれるというのだろう。口にしたところで、誰が理解してくれるというのだろう。
 (あの「どうして?」をみんなに返すために俺はここにいるんだろうな)
 どうして?
 どうしてなの?




   四、




 それは交通事故のせいだったのだと、前島豊から聞かされた時、交野祐基は内心では「ふーん、それで?」としか思わなかった。
 なぜこんな話になったかすら興味がなく忘れてしまった。高倉明子が、いや前島明子が中学校時代に付き合っていた野球少年の話なんて。結局明子は前島と結婚して、あ、それはそういう残酷さを楽しむ話なのか?前島君はサッカー選手で、スポーツだって変わってる。
 でも、そんなことどうでもいいよ。本当に。
 このエピソードを他人と分かち合いたいと思うほど、どうしてそれぞれの心を揺らしたのか祐基には理解できなかった。それは“そういう人間”にしか見えない世界、なのだろうか?
 どういう感想を持つべきなのだろう。
 たとえ一瞬でも輝けたなら、そういう瞬間の中にいることができたら、それは幸福ではないのか?誰もが行けるわけではない場所に、行くことができたら。一発屋で終わるなんて困るけれど。その場所を目指している自分は、ああ自分なんて、視界にすら入っていない。まあ、こちらがこちらならなら向こうもも向こう。恵まれた人間には恵まれない人間の気持ちなんて分からないだろう。恵まれた人間の恵まれたゆえの成功論だって、自分勝手な理論ではないか?
 不幸自慢をはじめてやろうか?
 と、いうことを言った、その後の自分がどう見られるか、を気にしてそのまま口に出せなかった自分が、何重にもみじめになった。
 前島がいい奴だと話してみれば確かに分かる。何気なくニコニコしながら、ずっと努力してきたんだろう。練習風景を一目でも生で見たら分かる。だから、サッカー一筋に頑張ろうなんて思わなかった俺は逆立ちしたって前島みたいにサッカーなんか出来ないし、そうだよ、やってたらモテるって分かってても、それぐらいの意気込みじゃ到達できないところにあいつは居て、いろんな重責といっぱしのギャラ背負って九十分とロスタイムを駆け抜けてる。
 そういう人間には輝かしさがお似合いで、賢過ぎて苦労なんて知らないような綺麗な女の子しか辿り着けない。し、そんな女は俺みたいなののお飾りになんて、なるだけかわいそうだし、前島だって欲丸出しの醜い女に付きまとわれたら試合になんて集中できずにくすぶるだけ。釣り合う釣り合わないの問題じゃなく求めあってる。そういう決まり。
 前島君の何もかもが俺を抉ってくるけど、黙んないで、やめないで。君はそういうキャラなんだから。実際君はすげーから。見てるだけでパワーが貰えそうなくらいね。そう、夢を与える、ってやつ。
 でもね、俺だって。俺だってそこへ行きたい。





   *




 (あーあ、選ばれるだけでいいのになぁ。)
 正確に言うと、それは交子にとってもう過去のことだった。確かに交子は選ばれたのだ。でも過去に一度選ばれたからと言って、その後の未来にずっと必要とされるかは分からない。誰かと比べられる度、選ばれ続けなければならない。
 その為に、私はどう振る舞うべき?
 例えば、今見るからに不機嫌な、女を搾取するだけの男に対して。
 交子は考える。
 今がチャンス。それとも、もう少しもの思いに耽ってから?
 いつだったら彼の心を捕らえられるだろう?どのタイミングで声をかけたら、一番効果的に彼の心を開かせることができるのだろう。(彼に心を開いてもらえるんだろう)どんな風に声をかけたら。何を言ったら。何をしたら。どんな態度でいたらあなたは私を特別だと思うんだろう。私を好きになってくれるんだろう。どうしたらあなたの一番大切な人になれるの?一番。私をずっと側に置いてくれる?結婚してくれる?
 言ってみたい。訊ねてみたい。約束してほしい、将来を。
 そうしたら…
 そんなの嫌、と言うだけでは、じゃあやめれば、とか他の男を探しなよ、とか、それはまだいい方で何も言わずに切り捨てられていく。
 だから、そんなことは口に出さずに、彼を慰めてあげなくちゃ。何とかしなくちゃ。
 私のことなんてどうだっていいから。ただ選ばれるだけでいいの。ただそれだけなの。
 けれど、初めはなんて声をかけるべきなんだろう。
 交子の視線に気づいた祐基が見るとはなしに交子を見た。振り向いて口を開く。交子は少し、期待する。
 「ちょっと出かけるから、今日は帰ってくれる?」
 そして落胆する。虚ろな瞳が拒絶するように反らされていくところを交子はじっと最後まで眺めていた。
 交子のすぐそばをすり抜け、祐基が狭いマンションの玄関に歩いていく。
 疑問形だが、命令であるその言葉に交子は「うん」と答えた。
 キィ、と金属製の扉が開く。促す視線に応えて、交子は手早く荷物をまとめて室外に出ていく。
 次いで出てきた祐基がガチャガチャと扉に鍵を掛けるのを見ながら、交子は自分に巡ってきていたチャンスが失われことを思った。
 (もっと早く声を掛ければよかったんだ。そうしたら今頃二人はもっと仲良くなっていたかもしれない。あんな考えなくてもいいことを考えて悩んでいないで…)
 今だめもとで声をかけてみる、ということを交子はしない。そんなことはできない。やってはいけない。(だめもとって、だめだったらどうするっていうの?)
 平等なんてない。選ばれる側は選ぶ側より弱い。弱いから選ばれる側なのかもしれない。弱ければ弱いほど悲観的になり、消極的になるという循環。
 夜の向こうへ離れていく祐基の背中を、交子はしばらく眺めていた。
 (たとえ何か良い方法があるとして、それが簡単に分かるようなことなら、きっとこんな風に悲しくなったりしないよね。)

運命の女神 (1)

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