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安全な宗教なんてない

 機を得てNHKの「こころの時代」シリーズ問われる宗教とカルトを見た。このシリーズは、昨年起こった安倍首相銃撃事件を受けて、旧統一教会の問題やカルトの問題などについて、宗教の研究者を主とした専門家達が討論するもの。
 6回目は宗教リテラシーについての討論だった。
 さて、これを読んでいる人は宗教リテラシーという言葉を聞いてどんなものを想像するだろう?リテラシーと言えば、昨今よく聞くのは情報リテラシーという言葉だから、これも活用する力や、不都合を避ける能力などというイメージがあるのではないだろうか?宗教とリテラシーという言葉が結びついたのを私はこの番組で初めて耳にしたのだが、その時抱いたイメージは「統一教会といった危険なカルトを避け、宗教の持つ効能に安全にアクセスする術」というイメージだった。
 アクセスする術、というイメージがあったのは私が、「人を超えるもの」に出会いたいと思っていたからだったのかもしれない。つまり、”宗教”自体が危険と思っている人も日本にはたくさんいて、少しでも宗教が現れたら回避することを考えれば危険から逃れられる、そう考える人もたくさんいるはずである。
 しかし、宗教リテラシーについての討論の実際は、宗教を持つ人々の文化を知ることの重要性や、日本人が戦前に尊んできた神性について考えるなど、習慣や文化として人々の中にすでに体現された宗教との関わり方についての話となった。
もちろん危険なカルトの定義などはこの1回目の議論の中でも語られているところだったので、すでに議論の対象ではなかったのかもしれないが、私には意外だった。
 カルト宗教の諸問題における一番重要な時点とは、すなわちこれまで自分が接してきたことのない未知の宗教に接しそれを信じるかどうかの場面、その信仰に入っていくかの時点ではないかと考えていたからである。旧統一教会の問題も、まず信者を獲得しなければ始まらなかったのではないか。もしくは、その後、さまざまな場面で問題点が露呈した時に、信じ続けるか、という問いに立った時、つまり、信仰を選択する際のリテラシーこそ宗教リテラシーなるものであると思っていたのである。
 たとえばこれが、購買に関するもので考えれば分かりやすい。知識を身につけ、自分が本来求めていた商品を手に取るための力。誤った契約を交わした際、それに気づいて取り消す能力。信仰を選択する際のそのような能力こそ宗教リテラシーとして存在してはいないのだろうか?それは私が存在していて欲しい、と思っているだけなのだけれど。いや、実はこういう人は多いと私は思っている。宗教には関わらなくても、「スピリチュアル」にハマる年若い人々を目にすることもあるからだ。
 このシリーズの討論は基本的に宗教を研究もしている宗教者が多かった。もしかすると、宗教者からすれば、伝統的な宗教を自分の身に浸透させると、それが一種の免疫となり、宗教における危険な行為を見分けることができる、というような考えなのかもしれない。これはちょっと乱暴な言い方がすぎるかもしれないが、Howtoにできるほど簡単じゃないのだよ、宗教は。ということなのかもしれないし、実際そうだろう。
 ただ、おそらく私たちが”リテラシー”を求める意識というのは、情報リテラシーという言葉が出てきた時もそうだが、誤った関わり方をすれば、自分が危険に晒されることもある領域で、安全性というのを第一に求めているような気がする。情報リテラシーは子ども達への教育の場面で言われることも多い。で、きっと子どもの親達は自分が正解の知識を満足に持っている自信がない状態で、もしかしたら学校やメディアなど、どこかにはその正解があり、それらが正しく子ども達に注入されることによって、自身の子どもに不利益がかからないようにする、といった求められ方をしているような気がするのである。
 残念なことだが、宗教も情報も100%安全ということはあり得ないだろう。どちらも変化し、多様で、深淵で、広く物事に関わっている。言えることいえば、困った状況にならないために、こんな対策をしよう、といった現実的な小さな知恵の積み重ねみたいなものだろう。その本質を捉えて、短い言葉で簡潔に、などということは思い描くリテラシーに到達する術はない。
 どちらかと言えば、私みたいに誰かによって与えられるリテラシーに縋って思考停止したい人間に問題があるのかもしれない。技術の習得も、時間をかけた鍛錬も行わず、なんのリスクも犯さず、そこに隠された宝に到達しようとすることはできないということだ。かといって、リスクが自分への不利益ではしょうがないわけだけれども。
 ちょっと戻るけれども、宗教リテラシーとして信仰を持つ人々の文化や信仰の根幹を理解する必要を討論者達が説いていたのは、そこにある、歴史によって培われてきたものに触れるため、なのかもしれない。伝統宗教は、かつてみんな新興宗教だった。それが長い年月を経る中でさまざまな危機を乗り越えて、それでも信じてきた信者によって今に成立されているものだ。少なくとも、長い年月信者を獲得し、一定の信仰を得てきた宗教ということは、1代限りの指導者だけでは成立し得ない。そこには、誤魔化しや屁理屈の効かない、人々が信じるに値する教えが残っている。それを伝統宗教に連なる宗教者達は確かに感じているのではないだろうか?
 ただ一心に信じ、進むべき宗教に進んでいく時、問われるのが他宗教との比較や迷いであるのは皮肉な気もする。宗教は”人を超えるもの”と自分との関係であるが、その教えは同じ人を介してしか伝わらない。人の目線という同じ立場からでは、悪意や巧妙な嘘と真理を見分けるのは可能そうで難しいものだ。そこに危険性が潜んでいるのだ。
 宗教にも安全な領域と危険な領域があり、宗教リテラシーとは宗教の安全な領域からまず宗教に触れてみることなのかもしれない。宗教の全てが安全であるとは決して言えない。そこには簡単に答えの出ない問いの危険性が潜んでおり、それは宗教だけの問題ではないと思うのだ。社会のそこかしこで、同じ危険性を抱えながら、時に捉えられ苦しんでいる。もっと巧妙に隠されている悪意に。
 結局、人が関わる以上、万人向けの高度なリテラシーなんて、そんな都合のいいものはないんですよ。だから、ちょっとずつ知っていく、分かっていくしかない。んなだなぁ。そうだよなぁ。リテラシーくれよ!というリテラシーの難しさへのため息でした。


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