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イスの持つ役割/『すずめの戸締り』感想

『すずめの戸締り』のタイトルに主人公である鈴芽の名前が入っているのは、亡くなった母の喪失感をどのように乗り越えるのかという鈴芽の個人的な物語であるからだ。そして、タイトルにある”すずめ”との表記は、物語を進行させている鈴芽を指しているのか、あるいは母を失ったばかりの幼少期の鈴芽を指しているのかを曖昧にさせるため、あえてひらがな表記しているのだろう。それは物語の構成から読み取ることができ、常世に入ってしまった幼少期の鈴芽は、結果として、物語を進行させている現在の鈴芽から母の形見である椅子を受け取ることで一時的に救われる。まるで足の欠けた椅子が母への喪失感を肩代わりしているかのように、幼少期の鈴芽はそれ以来母を探すことを止めている。足の欠けた椅子は、このタイムリープ的物語を示唆しており、現在の鈴芽と幼少期の鈴芽の二人が同時に存在する物語の構成上、タイトルには鈴芽ではなく、”すずめ”を入れているのだろう。しかし、幼少期の鈴芽は亡くなった母の喪失を乗り越えたのではなく、あくまで一時的な措置として忘れてしまっただけのようである。では、現在の鈴芽はどのようにして母の喪失を乗り越えたのだろうか。

もともと母子家庭であった鈴芽は、東日本大震災で母を亡くした後、独身であった叔母に引き取られる。叔母は宮崎県漁協に務めており、40歳現在において独身である。それには引き取った鈴芽の存在が少なからず影響しているようで、鈴芽は自身が原因で叔母の人生を奪っているのではないかと、道中出会った少女海部千果に吐露している。そして、後戸を探すために母と住んでいた宮城県にある実家跡地を目指す鈴芽は、叔母と合流した後、大谷海岸ICの道の駅にて叔母の本音を聞くことになる。叔母の本音は鈴芽にとって辛辣なものであり、叔母の等身大の思いであることは間違いなかったが、その後も叔母は鈴芽に対して協力的な姿勢を崩さないことから鈴芽と叔母は和解に至る。鈴芽と叔母の関係性は一般の母子と同等のものであり、母の喪失感を埋めるのに十分な役割を果たしているが、ここでの母の喪失感とは結び付かないように思う。というのは、母の死と東日本大震災は不可分であり、あるいは自然災害にどのように向き合うべきなのかというのが本作におけるキーであるからだ。

叔母とともに実家跡地に辿り着いた鈴芽は庭の中から絵日記を掘り出し、東日本大震災があった3月11日のものを見つける。絵日記は幼少期の鈴芽によって黒塗りされていたが、それが忘れてしまっていた震災当時の鈴芽の思いを思い起こし、反芻することとなる。そしてまた同時に、かつて母と出会った場所を想起することとなり、後戸を見つけ、草太を救うために常世に入っていく。地震の後にミミズを出てくることから分かるように、ミミズは津波のメタファーであり、常世ではミミズによって土地が燃えるように荒れ果てていた。そこで鈴芽は幼少期の鈴芽と出会い、かつて母として記憶していたものが母ではなく、現在の鈴芽であったことを知る。幼少期の鈴芽を救ったのは、母ではなく自分自身であったことを、かつて母と思っていた人物と同じ行動をとることで知り、母の不在を身をもって実感したのだ。そうして母の喪失を受け止めた鈴芽は、幼少期の鈴芽に足の欠けた椅子を渡す。喪失感を肩代わりしてくれていた足の欠けた椅子は、幼少期の鈴芽に渡り、現在の鈴芽は母の喪失を乗り越えることとなる。足の欠けた椅子は母の形見であると同時に、母との記憶を塞ぐという役割を担っていたのだ。そのような役割を持つ椅子を手放したということは、母の喪失を受け入れたことに他ならない。

ここで重要なことは、最初に述べたとおり、これはすずめの個人的な物語であるという点だ。東日本大震災から13年が経過するが、当時の私は宮城県在住であったことから震災を経験しており、津波が近くにあった川を氾濫させ、自身の腰のあたりまで水が押し寄せたことを覚えている。海辺からはかなりの距離があったことから問題ないと思っていたが、川伝いに津波が来るとは思いもよらず、その水は川の氾濫によるものであったことから津波ほどの勢いはなく助かったが、子供ながらに最も死に近い経験をしたと感じていた。結果として、中学校の校庭にいた私は校舎に逃げ込み、翌日には自衛隊によってボートで救出されたためすぐに実家に戻ることができたが、鈴芽のように家自体が流された方も大勢いるだろう。現に、当時の実家は住宅街の中ほどにあったため一階部分の浸水だけで済んだが、住宅街の端にあった友人の家には別の家の屋根が刺さっており、その横にあった一面の畑には何棟もの家々の瓦礫が並んでいたところを見たときには唖然としたものである。中には、家の二階部分だけが綺麗に畑の上に立ち、部屋の中の様子を見るとカレンダーが壁に掛けられたまま残っているものもあった。

自然災害に向き合うというのは、こういった現実に向き合うということだ。自然災害とは現実における抗いがたい脅威であるからこそ脅威なのであり、想像力によって飛び越えることができるものではない。アニメーションや漫画が死を描くことが困難であるように、それが想像上のものである以上、本質的に自然災害との向き合い方を描くには限界があるように思う。だからこそ、これはすずめの個人的な体験として描かれ、現実にあった震災を歪めることのないように直接的に東日本大震災というワードを使用することはなかったのであろう。

ところで、本作では3DCGがずいぶんアニメーションとして馴染んでいた。CGを使用したアニメーションの中では作画とは異なる画一的な動きが目立ち、作中において浮いたような印象を受けることがままあるが、アクションシーンが多くあったにも関わらず、CG臭さは最小限に抑えることができているように思う。物語の内容については、上述したように鈴芽の個人的体験として描かれたことから落ち着いた結末であったが、アニメーションとしての完成度だけならこれまでのアニメ映画の中でもトップレベルの技術に支えられた作品であった。







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