言葉が通じやすいということ

 インドから帰国して数日が経った。この数日で私は気づいたことがある。


 私は植物が好きだ。だから、インドのあちこちの植え込み植わった可愛らしい白い花をたくさんつけた木々の名前が気になった。
 旅行中、ガイドさんと友人がトイレに行き、私と自動車の運転手さんの二人で車の外で待つということがあった。車の脇には、気になっていた白い花をつけた木が植わっていた。
 ジャスミンかもしれない。当てずっぽうな予測をつけて、「what's name this flower?」とドライバーさんになんとうなく問いかけた。ドライバーさんは、私が話しかけることなんて、起こりえないと信じていたような驚きを浮かべたあと、困ったように小首を傾げた。私の言葉が伝わらなかったのだ。居心地の悪い沈黙に、私は地面に落ちた比較的綺麗な花々を拾って匂いを嗅いでいった。もしかしたら、ジャスミンの香りがするかもしれないと思ったのだ。そうしたら、その花を持って「ジャスミン!」と云える。
 ドスっと大きな音がして、ボタボタと白い花弁が降ってきた。見上げると、幹を蹴り上げた足の向こうから、ニコッと笑ったドライバーのおじさんがいた。おじさんは、そのままスルスルと私の隣にしゃがみこむとたくさんの花弁の中から、比較的綺麗なものを私の手のひらに乗せた。ゆっくりと鼻を近づけだけれど、白い花の中心からは想像したような香りはしなかった。
 結局、花の名前はわからなかった。だけど、あの時ドライバーのおじさんがまったくの純粋なやさしさで私にたくさんの白い花々を降らせてくれたのはわかった。何も為せていないし、何も語り合えてはいないけれど、とても通じ合えた気がした。あの時、白い花が降る中で私とおじさんは喜ばしくてはにかんだ。


 日本にいるとたくさんの日本語と一緒に、情報が私のなかを行き交う。外から入ってきたり、私が思ったことや知っていることを出したり。だけど、そこにはとくに感動はない。私の言葉は、ほぼ正確に相手に伝わって、相手も、伝わりやすい言葉と一緒に私の欲しい情報や行為をくれるのに、ハイタッチを交わしたくなるような高揚感もない。たくさんのやさしさがそこには隠れているのに、ついつい忘れてしまうのだ。そして、伝わらないことや、分かってもらえないことに、うまくいかないことへの苛立ちすら感じてしまう。
 私たちは、言葉が通じやす過ぎるくらいに通じるくせに、好意や優しさをシンプルにまっすぐ通じ合わせることが苦手だ。本当はとてもやさしくてあたたかいことであふれているのに。
下唇を噛みたくなってしまったとき、深呼吸をして、掬い切れなかった優しさやあたたかさを思い出せるようになりたい。

2018.09.28

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