みじかい小説 #133『さくらのわかれ』
さくらはその場にぺたんとしりもちをついた。
大丈夫、誰も見てはいない。
そのことを確認して、さくらは大の字に仰向けになった。
大きな青い空と、春のあたたかな陽光がさくらをつつんでいる。
「あーっ!!」
さくらは叫んでみる。
思いのほか、すっきりしている自分におどろく。
涙ひとつ出ないのは、愚痴ひとつも出ないのはなぜなのか、それはさくらにも分からない。
ただ、たったいま富士山の山頂に登りきったかのような爽快感が、全身をかけぬけているのだ。
それだけはたしかだった。
一時間前、さくらはまだ自宅にいた。
さくらは一人暮らしである。
その自宅に、さくらはある男性と一緒にいた。
「じゃあ、わかれるってこと?」
男は言った。
「そうだね、そういうことになる。いい?」
さくらはたずねた。
自分でもおどろくほどの冷淡さである。
「わかった、じゃあね」
男はもう、さくらの顔を見なかった。
振り向きもせず、男はさくらの部屋を出て行った。
しばらく、さくらはその場に立ちつくしていた。
「男」とわかれたあとの「女」が、通常なにをすべきなのか見当がつかなかったからであった。
さくらは、それでものろのろと動き出した。
部屋の掃除をするのだ。
もう、あの男はいない。
もう二度と、この部屋に来ることもない。
じゃあ、この部屋からあの男の跡を消してしまってかまわない。
だから、掃除をするのだ。
そういうわけで、さくらはさきほどまで部屋で掃除をしていたのだった。
掃除が終わり、すっきりした部屋の中でそろそろ泣くかとも思われたが、残念ながら涙ひとつでない。
かわりにさくらの口から出て行ったのは、大きな大きなあくびだった。
そう、さくらは寝不足だった。
それから少しだけベッドで眠った。
ぴかぴかに掃除をされた部屋で昼間から眠るのはぜいたくで、ここちよかった。
これまた自分でもおどろくほど、ふかくふかく眠った。
目覚めると、それこそ宇宙遊泳でもできるかと思われるくらいに体からだるさが抜けていた。
そういうわけで、さくらはすることもなくなった。
しかたなく、今度こそ「失恋の痛みをともなう女」らしくふるまえるかもしれないという期待をこめて、近くの公園まで出向いたわけだ。
けれどやっぱりその身を支配するのは、すっきりとした心持ちで。
さくらはほとほと困ってしまった。
これじゃあ私が無駄につきあっていたみたいじゃないか、と。
涙ひとつくらい流さないと、少しはショックを受けないと、「恋にやぶれた可哀想な女」にならないじゃないか、と。
いままさに、さくらは悲劇のヒロインであるはずなのに、と。
いま、さくらは大の字になりながら空を仰いでいる。
遠くで犬の吠える声が聞こえる。
車のクラクションが聞こえた。
鳥のさえずる音も心地いい。
こんな開放感はいつぶりだろう。
……。
こんなに満たされているというのに、いったい何を悲しむというの。
なんだかひとり、笑えてきた。
「あーあ、失恋しちゃった!」
笑いながら声に出してみる。
そうすると更にそれがおかしくて、ひとりあははと笑いだす。
体を少しくねらせて、芝生の上で、さくらはひとしきり笑った。
「しあわせだあ」
さくらはそう言うと、大きく息をすいこんで、そしてゆっくり吐き出した。
自分の体が軽くなるのを感じた。
それはよく晴れた春の日の、とある午後のことだった。
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