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みじかい小説#121『腕時計』

 うろおぼえの住所をさがし、さとるは小一時間ほど裏通りを行ったり来たりしていた。
 陽は既に陰りをみせはじめ、大通りは家路をたどる人々の群れでごったがえしている。

「すみません、『にしき時計店』にはどう行けばいいでしょうか」
 そばを通りかかった中年の人のよさそうな女性を選んで、思い切って悟は声をかけた。
 女性は悟を振り返ると、その姿が思いのほか幼いことに驚き、膝を折り、視線を悟に合わせてこう言った。
「あら、ひとりでおつかい?えらいわね。『にしき時計店』ならあの角の郵便局を右に曲がったところにあるわよ。おばさん、一緒に行ってあげよっか」
 女性は、悟に右手を差し出した。
 悟はなんだか恥ずかしくなって、ふいと視線をそらす。
「いい。ひとりでいける。ありがとう、おばさん」
 悟は早口にそう言うと、ひとり角の郵便局の方へ向かい歩いていく。
「気をつけてねえ」
 悟は背中で、その声を聞いた。

 女性に案内された通り、角の郵便局を曲がると路地のすぐ左に『にしき時計店』と大きな看板が掲げられていた。
 まだ漢字の読めない悟は、「にしき」だけを読んで、ここだな、とあたりをつけた。
 入り口の大きなガラス戸を引き中へ一歩足を踏み入れると、途端にひんやりとした空気が足元からあがってくるのを感じた。
 夕方というのに灯りはついておらず、店内に所狭しと並べられた時計の針の音が幾重にも重なって室内に響いている。
「ごめんくださあい」
 返事はない。
 カチカチというその音のただなかにあって、悟はなんだか急に自分が時の流れに呑みこまれてしまうかのような感覚を覚えた。
 悟はこわくなって、再び声を張り上げた。
「ごめんくださあい」

 すると、奥から小さく「はあい」という返事が聞こえた。
 悟はほっとして、声の主が現れるのを待った。
 声の主は、意外にも悟と同じ年の10代の女の子であった。
「お店のひと?」
 悟はつとめて冷静にたずねた。
「ううん、ただの店番。ご用はなあに」
 女の子はつっかけを履くと、笑顔で悟に近づく。
「いや、お父さんの時計を、直してもらおうと思って」
 そう言うと悟は、持っていた大人用のバッグを開き、中から大人用の腕時計を取り出した。
 女の子は腕時計を受け取ると、「ちょっと待ってて」と言って中へ引っ込んでいった。

「お父さん、急ぎのおしごと」
 奥から女の子の声が聞こえる。
 悟は待たされている間、店内に据えられた小さなベンチに腰かけて待っていた。
 四方八方から刺すような時計の針の音がする。
 いつのまにやら、悟はその音の中で、ひとり静かな眠りについていた。

 一時間は経ったろうか。
「お客さん、目をさましてくださいな」
 悟の肩を叩く者があった。
 悟は驚いて飛び起きた。
 丁稚の悟を起こすのは、いつも決まっていじわるな姉様たちだからだ。
「お客さん、お目覚め?時計がなおりました。はい、これ」
 目を覚ました悟の目の前にいたのは、あの女の子だった。
 見ると両手で大事そうに悟の持ってきた腕時計を抱えている。
 なるほど腕時計は、きちんと針が動くようになっていた。
「ありがとう」
 悟はそう、礼を言った。
「100円ね」
 女の子は言う。
「しっかりしてるなあ」
 悟はそう言いながら、懐の財布から出がけにあずけてもらった500円を取り出した。
「おつり、400円ね」
「はあい、ただいま」
 悟から預かった500円を握りしめて、女の子は奥へ消えていく。


 悟はそこで、目を覚ました。
 窓の内はカーテンがあるため仄暗く、東の空から差し込んで街中を照らしはじめているであろう陽の光は、室内にまでは及んでいない。
 布団のなかでゆっくりと上体を持ち上げると、枕元の眼鏡に手をやる。

「あら、起きたの」
 隣で寝ていたはずの美紀子が目を覚まして言う。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん、平気」
 悟は眼鏡をかけると、同じく枕元に置いてあるはずの腕時計に手を伸ばす。
 それを見て美紀子が言う。
「お客さん、うちの仕事は確かでしょう」
 悟は、ふふ、と笑顔をこぼし腕時計に目をやる。
「うん、確かだ」
 腕時計の針は、不思議なことに、あの日から一度も止まったことがない。

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