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みじかい小説#193『いらだち』

 あらたはいらだっていた。

 家を出る前に、母にさも当然のように「今日ゴミの日だから」と言われたからだった。
 母の意図するところはもちろん、「ゴミを出しておいて」ということだ。
 それならそれで「悪いけどゴミ出しておいてくれる」とでも頼めばいいのに、と思った。
 まるで出してもらって当然といった態度の母に、新はいらだちを隠せず、「いってきます」も言わずにゴミを持って外に出た。
 なんで自分が。
 そんな新を、母は無言で送り出した。

 学校へ着くと、さして親しい友人もいないので、まっすぐに自分の席に着く。
 そうしておもむろに鞄から文庫本を取り出し、それを読み始める。
 カバーがしてあって外からは分からないけれど、タイトルは「現代思想史入門」だ。
 挟んであるしおりをとり、53ページから読み始める。
 新はひとり静かに、学びの世界へ入っていく。
 目の前の席では女子3人が今朝報道されたばかりの芸能ニュースについて盛り上がっており何やらかしましいが、新たにとって彼女たちの存在はもはや空気である。

 そんな新の好きな授業は、世界史である。
 幸運なことに世界史の教師は勉強熱心なうえに教え上手ときていて、彼女のおかげで、新は世界史が好きになった。
 世界で起こっている諸問題について、新は我が事のように関心を示している。
 幸い根っから好奇心が旺盛だったのも手伝って、新は勉強熱心で、学校での成績はすこぶるいい。
 新自身、そんな自分に誇りをもっていたし、自分はそれなりに能力が高いと思っている。
 だから新は考える。
 芸能ニュースなどどうでもいい、今世界で起こっている諸問題こそ、自分は関心を持つべきで、将来にわたり取り組んでいきたい、そのために自分は今能力を高めているのだ、と。

 ともすれば選民思想に陥りがちな、ありがちな新のエリート意識であったが、新は思想の歴史にも関心を持っていたため、選民思想がいかに危険か知っていたし、自分では決して抱くまいと心得ていた。
 新はそんな自分を、高く評価していた。

 十代は短い。
 その短い間に、いかに多くの知識を吸収し、学び、汗をかき、世の中の予習をし、いかに上手に学歴を築き、その後のキャリア形成につなげていけるか、新にとっては毎秒が真剣勝負であった。
 毎秒を惜しむ新にとって、ふわふわした同期との間に繰り広げられる、内容の無い会話は、はっきり言って時間の無駄であった。
 新は、世間話や馴れ合いをいっさい自分に認めなかった。
 友人はいらない。
 かわりに、新はつとめて戦友を作ろうとした。
 定期テストの度に互いに意識する成績上位者と、つかずはなれずの関係を保った。
 彼等との交流はまた、新の自尊心をさらに高めた。
 そして彼等とのかかわりの中でだけ、新はおおいに自由を感じ、安心して素の自分を出すことができた。
 新にとって、高め合える戦友の存在は、何者にも代えがたいものであった。

 一方で、新には我慢のならないことがあった。
 世に流布する、たわいもない知識の存在である。
 なぜ人は、くだらない知識ばかり集めようとするのか。
 なぜ人は、とるに足らない問題に、貴重な自分の時間を費やして笑っていられるのか。
 新はそんな他人を見るたびに、大いににいらだった。
 毎日のように手をかえ品をかえ他人が用意する話題の種に、蛾のように群がって恥じない彼等の生き方を、新はおおいに見下した。

 新はその意味で、まぎれもなく多感な十代の青年に違いなかった。
 しかし賢い新は、所詮多感な十代のことだからと判断されることをおそれ、いちいち他人についていらだつ自分を、決して表には出さなかった。


 そんな新も、今はもう50をむかえようとしている。

 なぜそんな昔のことを思いだしたかというと、クラウドデータを整理していて、十代の頃の画像が出てきたからだった。
 新はひとり書斎でパソコンにむかい、目を細めてそれらを眺める。
 あの頃は、確かに自分は十代であった。

 世の中に挑戦していこうという勢いだけはすごかった自分が懐かしい。
 いや、今も実は変わっていないのかもしれない――。
 新は思う。

 
「あなた、そろそろ行かないと」
「お父さん、まだ?」

 妻と娘が、自分を呼ぶ。
 今日はこれから、外交官としてはじめて招かれたオペラに家族で出向く。
 妻はオペラなんて堅苦しいものは嫌いだとのたまいながらも、ばっちり化粧をしている。
 娘はオペラなんかより芸能ニュースのほうが大事だといいスマホから目を離そうとしない。
 今日はそんな二人の運転手兼ツアーガイドをつとめる。
 十代の頃は一秒たりとも他人のために費やしてなるものかと思っていた時間を、いま、新は惜しむことなく妻と娘に使っている。

 新の挑戦は終わらない。
 変わってゆくもの、変わらないもの、それらの自然な変化を受け入れつつ、同時に自らの意思を通してゆく。
 新は妻と娘を持つことで、そんな柔軟性を手に入れた。
 そんなふうに「進化」した自分を、新は誇らしく思っている。
 自分のこだわりを極めると同時に反動として自然発生する、あの目に映るものすべてにいらだっていた感情が、今ではとても懐かしい。

 十代の頃の自分にメッセージを送るとすれば、新はこう言う。
「後悔のないように、一心に励め」と。

 そして、新はこれからの自分に期待する。
「後悔のないように、一心に励むのみ」と。
 




 


 



 

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