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みじかい小説#190『結婚とコーヒーブレイク』

 つむぎは、今年40になる。

 紬の仕事は、とある地方都市のコンビニのアルバイトだ。
 給料は周知のとおり、そんなに高くはない。
 週に2日働いて、月に手にするのは5万円そこら。
 実家住まいの紬にとって、その5万円が、唯一自由になる自分のお金だ。

 そんな紬にはいくつか楽しみがある。
 まずひとつは、地元の市立図書館に通い好きな本を借りること。そしてその本を、バイトのない日の昼間に読むことだ。
 ふたつめの楽しみは、毎日、一本の缶コーヒーを買うこと。午前中の決まった時刻に、決まった自販機で、決まった缶コーヒーを買う。そしてそれをちびちびやるのが、至福の時間であった。
 みっつめは、月に一冊の文庫本を買うこと。紬にとって、一冊1,000円を超える単行本は高級品にあたる。だから紬は毎日本屋に通う。そうして一ヶ月かけてあれこれと吟味し、これと決めた文庫本を、月末に買うのだった。

 稼いだ5万円のうち、大半を貯金にまわす紬にとって、消費は最大の敵である。
 使うスマホは格安スマホと決めているし、いきつけのスーパーでは値引き品が当たり前、移動は徒歩か自転車で、服は基本的に格安店で売っているものをシーズンごとに2,3みつくろう。

 そんな紬の両親はそろって節約家であった。
 紬は小さい頃からぜいたく品は与えられなかった。
 けれど両親は、習い事と学習に関することだけには十分なお金を使うのだった。
 紬の倹約ぶりは両親の影響によるところが多い。

 それでも紬は生来、ぜいたくが好きであった。
 いつだって好きな服を着たかったし、好きなものを手に入れたかった。
 しかし両親はそんな紬を知っており、いつも先回りして「あんな高い服は駄目だからね」などと念を押すのだった。紬はそんな両親を呪った。そんな両親の影響下にある自分を呪った。
 そのため、大学生になると紬はアルバイトに精を出した。そしてそれまでの自分をいたわるかのように、思い切り自分の為だけに金を使った。
 学生がアルバイトで稼げる額など知れているが、それでも紬にとってそれは自分を甘やかすのに十分な額だった。
 20代を通して、紬は幸せな日々をおくっていた。

 ところが紬は病気になる。
 避けられない病気であった。
 紬は自由な生活を捨て実家に戻った。
 療養のための数年が経ち、病気が癒えるのを待って、紬はアルバイトをはじめた。
 月に手にできるのは5万円。
 はじめはその額の少なさが悔しかった。
 これではあの満足感はとうてい得られない。
 もう二度とあの幸福感は得られないのか――。
 紬は自分を呪った。

 しかし紬はその5万円の中に次第に自分なりの幸福を見出すようになる。
 それを可能にしたのは、かつての両親の教えであった。
 30代、紬は節約家として、つつましいながらも幸せな日々をおくった。

 ところが人生とは分からないものである。
 40になった紬は、ある日、とある男性と恋に落ちる。
 二人は順調に関係を深めていった。
 そしてついに、男性は紬に結婚を申し出た。
 紬はそれにイエスで答えた。
 男性は言った。
「お金の心配はもうしなくてもいいからね」と。
 紬はそれを聞いて、「ああ、自分はもうお金の心配をしなくていいのか」と思った。

 それからある日、紬はひとり、喫茶店に入った。
 そして、一番大きなアイスコーヒーを頼んだ。
 それを飲みながら、一日一本と決めて買っていた缶コーヒーが、妙に懐かしく思われた。

 紬の頭の中で、男性の顔と、お金と、缶コーヒーが、いつまでもぐるぐるとまわっていた。
 


 

 

 

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