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みじかい小説#156『探偵事務所』

 ねむたい。

 四月の第三土曜のある日、まことは都内の雑居ビルでひとり、大きなあくびをかみ殺していた。浮気調査に素行調査、目の前にはそんな書類が山積している。

「山口探偵事務所」
 古いガラス戸の表には、白い文字でそう書いてある。

「ねーおやっさん、事件はないんすか、事件は」
 大学生の真は、大きな声で、昼飯をかっ食らっている親父さんことオーナー山口健次郎を読んだ。連日の度重なる浮気調査に辟易していたのである。

「そんなこと言ったっておめー、映画やドラマじゃねえんだから、事件なんざ降ってこねえって」
 山口はそう言うと再び目の前の弁当に向かう。

「ちぇっ」
 真はソファの上で大きく伸びをした。
 真は大学2年生であった。
 陸上部に所属しており、先輩から代々伝わるこの探偵事務所のアルバイトに1年生の時に応募し見事採用されたのだった。
 はじめは「探偵事務所」なんていうから、どんな事件が舞い込んでくるのだろうと期待に胸躍らせていたが、なんということはない、陸上部は足が速いだろうから、浮気現場で万が一相手が逃げ出した場合にも取り押さえられるだろうという理由で、代々の陸上部員が選ばれてきたということを、真は採用されてから知った。

 はじめのうちは楽しかった。
浮気の疑われる男女を追跡するのは、どこかのスパイ映画のようであったし、いざ現場を押さえるとなれば、それこそ小さな正義感が躍動した。
 しかし2年間もそれを続けていれば、さすがに真も飽きてきた。
 もっとドラマのような事件がふって湧かないものかと思うようになってきたのだ。

 午後のあたたかな日差しが窓ガラスごしに照りつけて、事務所の中はぽかぽか陽気である。緊張感のかけらもないこの日常に、真はなかば感謝しつつもつまらなさを覚え、手元のミステリー小説に手を伸ばす。
 「〇〇殺人事件」と、使い古された表題が恥ずかし気もなく載っている。その中では、実は男前な探偵が、刑事を差し置いて華麗な推理さばきを見せている。

「はあ」
 真は今度はもっと大きく、体全体で伸びをした。

「まあいいか」
 本当の本当は、そんな事件なんて起こっては欲しくないことを、真本人が誰よりも知っている。このたいくつが、今のご時世どれだけ貴重なのかということも。

 時の止まったようなビルの一室で、時計の秒針の音だけが、規則正しく流れる時を知らせていた。

 


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