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みじかい小説#134『文と鼠』

 戸棚の中で、何かが、かたりと音をたてた。

 ふみは、その場で身をこわばらせ、耳をすませる。

 ことり――。

 今度は、もう少し大きなものが動いたような音がする。

 ゴキブリだろうか――。

 家の中には、今、文しかいない。とりあえずもう片方の手に丸めた新聞紙を持ち構えて、文はそろりと、戸棚に反対の手を伸ばす。それから、そうっと、戸棚の戸を開けた。

「うわっ」

 思わず、変な声が出た。

 戸棚の中には、拳大こぶしだいの大きさの、大きな鼠が一匹、横になっていた。積まれた皿とお椀の間の、そのちょっとした隙間に、すっぽりとはまっている。こちらに尻を向けていて、頭の方がどうなっているのか、見ることはできない。毛は灰色で、何かで濡れたのが乾いたあとのように、ごわごわしている。尻の真ん中から、桃色の尻尾がくるりと伸びているのが見える。

 文は、このとき、はじめて鼠を見た。

 これが鼠というものか。

 文は、鼠が動かないのをいいことに、まじまじとその様子を眺めることにした。デフォルメされていない、本物の鼠。三次元の、本物の鼠だ。

 しかし、いくら経ってもまったく動く気配が無いので、とうとう文は、もう片方の手に持った丸めた新聞紙で鼠をつついてみることにした。

 とりあえず、くるりと丸まった尻尾をつついてみる。

 尻尾は新聞紙の先で小突かれ、わずかに反応して、反対側にたおれた。

 生きている――。

 正直、死んでいると思っていた。

 文は、呼吸を浅くすると、今度は新聞紙の先で、丸くふくらんだ胴体をつついてみた。

 すると、新聞紙の先が、じわりと黒ににじみ、ぐしゃりとつぶれた。

 新聞紙の変化を見て取り、しばらくの間を置いて、文は、ああ、これは鼠の体から出ている血なのだ、とあたりをつけた。

 何らかの事情があり、この鼠は傷を負い、今、戸棚の中で体を休めているのだ。

 さて、どうしたものか――。

 そのとき、文の背後で、にゃあという鳴き声がした。飼い猫のミケである。

 振り向くと、ミケはリビングのテーブルの上で、こちらを向いてじっとしている。

 ああ、もしかしたら、こいつはミケの仕業かもしれない。文は、そう思った。そうして、さて、どうしたものかと、再び考えをめぐらした。

 鼠を助けたい気持ちはある。しかし鼠は既に、動けないほどに弱っている。鼠を動物病院に連れて行ってやる気もないし、そもそもそんな経済的余裕もない。一方で振り返ると、ミケはご馳走を待っているかのように見える。どちらにせよ戸棚はこれから掃除しなければならないだろう。

 文は、思い切ったように息を吐いた。

 そして、ゴム手袋をはめて戻ってくると、鼠を両手でそっと持ち上げて、ベランダまで持って行った。それから、ぎゅっと、鼠の首をしめてやった。鼠は文の手の中で、しずかに息絶えていった。ゴム手袋には、鼠の体から染み出した体液が、手のひらいっぱいに広がっている。

「おいで、ミケ」

 文はミケを呼んだ。

「おたべ」

 ミケは文の意を察したように、くしゃくしゃの新聞紙の上に置かれた鼠の死骸に、ふっと口をつけるやいなや、勢いよくむしゃぶりついた。

 ミケの口元で原型を失ってゆく鼠の死骸を、文はかがんで、じっと見つめていた。

 

 

 

 

 

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