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みじかい小説#138『ひらめき』

 その日は夜更けまでパソコンで書き物をしていて目が冴えていた。

 智雄ともおは自分の部屋を出て、ひとり一階のリビングにまで降りていく。階段を踏みしめるたびに足元から、ぎいぎいと、何かをきつく挟み込むような音がする。リビングからキッチンに抜けると、智雄はおもむろに冷蔵庫のドアを開ける。

「あった」

 お目当てのコーヒーゼリーを手に取ると、智雄は冷蔵庫のドアをそっと閉める。食器棚の中からスプーンを一本取り出すと、その場で立ったまま食べ始める。

 深夜0時、季節は真夏。一階のドアや窓はすべて戸締りされており、室内はサウナのように蒸し暑い。半袖・短パンの智雄は、じんわりとにじんできた首元の汗を、ぐいとぬぐう。

 コーヒーゼリーをたいらげると、智雄は再び冷蔵庫のドアを開け、今度は2L入りのウーロン茶のポットを取り出す。きんきんに冷えたそれをグラスに注ぐと、これも一気に飲み下す。

 智雄以外の人気のない、一階のリビングとキッチンを、煌々こうこうと蛍光灯のあかりが照らしている。密閉された空間の中では、あらゆる音が壁に吸い込まれてしまったみたいだ。

 げふっ。

 智雄はひとつ、げっぷをすると、丁寧にグラスを洗う。そうしてキッチンの明かりを消し、リビングに移動すると、部屋の中央に置いてあるソファにどっしりと仰向けになる。ふう、と大きく息を吐き、そのまましずかに、けれども目だけは爛々らんらんと輝かせたまま、焦点を合わさぬまま、ぼうっと天井を見つめる。

 思いつかないのだ。

 何がって、智雄が書いている小説の、次の一章を始めるための大切な一文が、どうしても思いつかないのだ。

 智雄はもう一度、大きく息を吐くと、今度は全身の力を抜いて、しずかに目を閉じた。

 先ほどまで書いていた小説の文章が、細切れになって頭の中に浮かんでは消えてゆく。そこにまったく関係のないイメージや単語が、どこからともなく現れては消えてゆく。あるものはくっつき、あるものは反発し合い、くっついたり離れたりを繰り返す。なされるがままに頭を明け渡し、智雄はしばし、自分の意識を完全に手放す。

 自分は今、瞑想をしているのかもしれない。智雄はそう感じる自分をどこかで意識しながら、そんなことを思う。

 そうこうしているうちに、智雄の中では、自由に飛び始めたあれやこれやが、どんどん数とスピードを増してゆく。

 まるで平静とは程遠い、マグマのように煮えたぎって自分でも制御のきかないこの内面をどうしてくれよう――。もうどろどろに溶けて元の形も分からなくなったそれを、智雄はじっと見つめてひたすらに冷えるのを待つ。運が良ければ、冷えた表面に、形となった何かが見つかる時があるからだ。

 智雄は、ソファの上で、ひとり仰向けになり目を閉じて、その時を待つ――。


「あら、またこんなところで寝て」

 母の声で目が覚めたのは、その6時間後のことであった。どうやらあのまま寝てしまっていたらしい。体中がバキバキである。

「お茶いる?」

「うん」と答えて智雄は母からきんきんに冷えたウーロン茶を受け取る。冷たい液体が口の中いっぱいに広がり、続いてそれが喉から胃に伝わる。

 その時である。

 完全に冷えきった頭の中に、ぽかんと浮かび上がった言葉があった。

「やった」

 智雄は空のグラスをテーブルに置くと、続きをパソコンに打ち込むため、急いで二階に駆け上がって行った。

「やあねえ」

 リビングに残された母は、そう一言ぼやくと、一階のカーテンというカーテン、窓という窓を、いっせいに開け放ちにかかった。

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