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みじかい小説#188『洗濯物』

 奇抜な着想の推理小説を一旦テーブルの上に置き、結衣ゆいは大きく伸びをした。

 5月も今日で終わり、朝から天気はくもっており、梅雨の到来を予感させるような陽気だ。
 空気全体がじっとりと湿り気を帯びている感じで、こんな日は、なんとなく動くのがおっくうになる。
 柱に設置してある小さな温度計は、午前中にもかかわらず、既に28度を示している。

 ピーっと、脱衣所から洗濯機が、仕事終了の合図を出している。
 結衣はそれを聞き、どっこらしょと重い体をソファから起こすと、「は~い」と返事をしながら脱衣所へ向かう。

 どんよりとした空を見上げながら、ベランダでひとり、洗濯物を干す。
 3カ月前に結婚したばかりの結衣の夫は航海士をしており、今、長い航海に出ていて家を留守にしている。
 夫の仕事に理解をしめしていた結衣であったが、まさか新婚ほやほやで一人にされるとは思ってもみなかった。
 しかし、いざ一人で暮らしてみると、独身だったころの感覚が蘇って来て、どこかふわふわした気分になることに気がついた。

 洗濯物を干したら、今日はお気に入りの文庫本を持って、一駅先のこじゃれた喫茶店にでも行こうかしら。
 そんなことだって自由にできるのだ。
 夫がいないのは寂しいけれど、一人で家にいるのも平気なのだ。
 結衣のそんなところを見込んで、夫は結婚を決めたのだろう。
 結衣はそんな自分を、どこか誇らしく思う。

 そういえば、昨日テレビで「手縫いのワンピースの作り方」を紹介していたっけ。それを作ってみるのもいいかもしれない。
 そういえば、昨日いきつけのお花屋さんで、月末セールをやるっていってたっけ。午後になったら行ってみてもいいかもしれない。
 洗濯ものを干しながら、結衣は午後の時間の過ごし方を自由にあれこれ考える。

 そんなふうに考えることを、夫のいない妻の強がりだと言う人もいるだろう。
 けれど結衣の場合は、本気の本気で夫のいない一人時間を楽しんでいるのだった。
「これは夫婦の危機かしら」
 そんな言葉が、つい口をついて出る。

 そんなことを考えながら洗濯物を干していたら、時計の針はもう10時を指している。
 結衣がコーヒーを入れて、再びソファに横になろうとしたときだった。
 結衣の携帯電話が鳴った。

 着信は、夫。

 結衣は満面の笑みで電話に出る。
 そうはいっても、夫を愛する気持ちに嘘はないのだ。
 夫の声は、結衣を安心させる。
 夫の声を聞いて、結衣は一人の時間が楽しめるのだ。

 見ると、ベランダには一人分の洗濯物がずらりと並び、外の景色を遮っている。
 夫が帰ってきたら、洗濯物は二人分になるのか。
 それにしても今日は乾きそうにないなあ。
 そんなことを思いながら、結衣は電話口で夫の労をねぎらうのだった。

 空はくもり、テーブルの上には、奇抜な着想の推理小説がひとつ。

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