みじかい小説 #117 合わない小説と出会ったときは
「ふう、疲れた」
圭吾はそれまで読んでいた小説にしおりをはさんでテーブルの上に置き、ソファの上に寝転ぶと仰向けになりこめかみを揉んだ。
どうにも、合わないのだ。
もう小一時間も読んでいる、テーブルの上の小説の話である。
「本なんか、合わないと思った時点で読むのを止めてしまえばいい。そのぶん合う本を読んだ方がよっぽど時間効率がいい」とは、よく聞く言葉だ。
けれど圭吾は、それはビジネス本やハウツー本に関して言えることだと思っている。
小説は――。
圭吾はそこまで考えてソファから立ち上がるとコーヒーを入れにキッチンに移動する。
コーヒーを入れながら、圭吾は思う。
小説に関しては「合わないと思っても、とりあえず読み進めてみること」だ。
これは小さい頃からの癖であった。
小さい頃から、圭吾は本を読むのが好きであった。
そして、「合わない本」に出合っても「本を読むのが好き」であるため読み進めてしまうのが癖であった。
圭吾には、それを繰り返してきて、分かったことがあった。
自分が「合わないと感じた本」は、どこかの誰かが、他の誰かのために書いた本だ。
つまり、自分ではない誰かには「合う本」なのかもしれないのである。
それはまるで人間同士の相性のようで。
はたまた「人間」と「趣味」の関係のようで。
そう考えれば簡単だ。
自分も「合う人」になりきって読み進めてみれば、感じ方が変わるんじゃないかしら。
はたして圭吾はそれを試みた。
すると予想通り、それまでまったく面白くもなかった本が、自分のなかになんの感動もなかった本が、きらきらきらめき出したのである。
それはまるで、それまで存在しなかった心の琴線を見つけたように、いや、それまで「気づかなかった」心の琴線に「気づいた」ように――。
幼い圭吾には、それはそれは大発見であった。
圭吾はコーヒーをすすりながら、思う。
「人間」も「趣味」も、同じようなところがあるのじゃなかろうか、と。
だって本って、人間が書いたものなんだから。
そこまで考えて、圭吾は再びソファに戻り、テーブルの上の小説を手に取り、しおりをとり、次のページをめくりだした。