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よみびとしらず #04 光 終章 朔の祈りとタケミカヅチ
僧兵たちにより病床にあった若丸を奪われ、がらんどうとなった小屋の中で、しばらく聖子たちは動けずにいた。
ただ時間だけが過ぎ、小屋の内に満ちていた白い煙がゆっくりと晴れていく。
それに伴い現れるのは、しっとりと湿った小屋を支える柱であったり、土間のかめであったりした。
「朔、お前は山へ入り祈るがいい。お前の祈りならきっと聞き届けられるだろうから」
聖子はそう、朔に言った。
そして、のろのろと、若丸のいなくなった畳の上を掃除しはじめるのであった。
「なあ、おばさんの言葉、あれはどういう意味じゃ」
山頂の社への道中にあって、光は朔に尋ねた。
冬の山中、硬くなった小枝に足をとられながら進む。
落葉の重なる上を歩くたび、乾いた音が足元から響く。
「さあ。母さんがああいった物言いをするときには、大体父親がらみなんじゃがな」
先をゆく朔は振り返らずに言う。
どうにも面白くない様子である。
父親の話が出てきたときには朔も不機嫌になることを、光はよく知っている。
「そうか……」
それだけ言うと、光は何も言わずに朔のあとに続いた。
社にたどり着くと、朔は早速、狐を呼び出した。
「なんじゃなんじゃ、さわがしいのう」
今度は団子をくわえてはいなかったが、狐は再び、なんとものんびりした様子で現れた。
それを光は、やはり少し離れた場所からうかがっている。
「それが狐殿。困ったことになってしまった。例の悪霊じゃがの、若丸という若侍に憑りついておるのは間違いないのじゃが、その若丸殿が僧兵たちに連れ去られてしまったのじゃ。もう私らは一体どうすればいいのか……。このままでは若丸殿が殺されてしまう。助けてはくれぬじゃろうか」
朔は一気にまくしたてた。
「待て待て、そう急くな」
狐はゆっくりと朔から、そして離れて聞いていた光を呼び寄せて話を聞いた。
「なるほどの。ようはその僧兵たちをどうにかすればよいのじゃな」
狐はひげをつまんでそう言った。
朔と光は一心に狐を見つめた。
「そんな目で見るんじゃないわい。仕方がない。朔、お主は特別じゃからの」
狐はそう言うと、くるりと一度宙を舞い、その場から姿を消してしまった。
朔は知らぬことであるが、その昔、まだ聖子が若かりし頃。聖子は満月という男と恋に落ちた。妖力の強い満月は、わけあって物の怪と相対することとなった。そうして満月は物の怪の大将と一騎打ちとなり、あえなく命を散らしたのであった。つまり、物の怪は朔の父の仇だったのである。
「ま、いずれ知ることになるかもしれぬがの」
狐のいなくなった宙に、そんな言葉だけが、一枚の木の葉とともに残されたのであった。
はたして、狐の姿は妖界にあった。
妖界は人界とは異なり、あらゆる不思議が成り立つ世界である。
その成り立ちは人の思念といい、人間が思い浮かべるものが形を成し、また人間が強く願うものが力を持つ世界である。
その中にあって、狐は絶大な信仰を誇り強大な力を保持している。
そんな狐が、ある扉の前にいた。
朱塗りの、大きな丸柱がどっしりと据えられた四脚門である。
狐一匹が通るには、大きすぎる門である。
「あけませい」
狐は声を張り上げた。
すると扉が内側に、ゆっくりと音もなく開いた。
狐一匹が通れる隙間だけ開いて止まる。
狐はすかさずその間に身をおどらせた。
「そんじゃ、お邪魔しますよっと」
誰に言うでもなくそう言うと、狐は奥へと歩を進めた。
入り口を入ると両脇に桜の花が何本も植えてあり、それが揃って見ごろを迎えているため、風が吹くたびに花びらが散っていた。
風はあたたかなそよ風で、社の外の気候とはえらい違いである。
あたりは一枚の絵のようで、それがなんとも言えず美しかった。
「いいところに住んでるよなあ」
誰もいない広い回廊を進みながら、狐はひとりごちる。
柱や欄干には鹿の彫り物が随所に見られる。
狐は少し爪を出し、彫り物をつつつとなでて歩く。
時が止まったような大きな境内を歩いて、狐は再び扉の前で立ち止まった。
その扉は、この社のご神体が眠る館であった。
狐は律儀に鈴を鳴らして来訪を告げた。
「タケミカヅチよ、起こしてすまない。助力を頼みたい」
狐のか細い声を聞いてか、しばらくして社の扉が内側にゆっくりと開かれた。
と思うと、中からまばゆいばかりの光が照らしだされた。
「タケミカヅチよ、まぶしい、タケミカヅチよ」
狐はうろたえた。
そこへ、はっはっはと笑う声が降ってきた。
「すまぬのう、狐よ。前回の囲碁の負けが響いてのう。ああ、傷口が痛むわい」
そう言って、声の主は再びはっはっはと笑うのである。
「ええい、いい加減にせぬかタケミカヅチ。こちらは頭を下げておるのじゃ。聞く耳を持てい」
狐はいきどおって言う。
「はっはっは。しかし傷口がしみるのう」
声の主はまだ続ける。
「ええい、そんな百年も前のことを言って何になる。さあ、ご助力願おうか」
狐はいよいよ声を張り上げた。
「仕方がないのう」
そうしてようやく、タケミカヅチは光輝くのをやめ、社の内から姿を現したのであった。
「話は聞いておる。早速ゆくぞ」
狐は目を見張った。
次の瞬間、瞬きをする間もなく、タケミカヅチの指の先から特大の雷が落とされた。
狐が下界をのぞいてみると、雷の落ちた先は興福寺である。
「これで貸し借りはなしじゃけのう」
そう言い残すと再び社の内がまばゆく光り、タケミカヅチは姿を消した。
あとには、大きな鈴と、それにぶら下がる狐が一匹。
「やっぱり獣の神とは違うのう」
狐はため息交じりにそう言うと、地面に降り両手を合わせその場を後にした。
恵敬たち僧兵は、熱をもった若丸の体を抱え、寺の門をくぐった。
「ここならよいじゃろう」
寺に身を寄せる病人たちの中に若丸を寝かせ、恵敬は一息ついた。
「それにしても若い……」
恵敬は何度も若丸の顔を見やった。
「さあ、どいたどいた。でかいのは邪魔じゃ邪魔じゃ」
そう言って腕まくりをし、たすき掛けを始めたのは聖子である。
僧兵たちについて小屋から寺までついてきたのである。
「俺も、邪魔させてもらうぞ」
兼家までいる。
「ご苦労なことじゃな。勝手にせい」
恵敬はそう言うと、他の僧兵たちとともに講堂の奥へと歩いて行った。
外は相変わらずの雨であった。
屋根を打つ雨の音が、屋敷の中にこもって聞こえる。
それが今の恵敬の心には、どこか穏やかに響く。
軒を伝う雨の姿も、恵敬の目に優しく届いた。
恵敬たち僧兵は今、寺の講堂の奥に設けられた、広い土間のただなかに揃って立っていた。
彼等が囲む中央には、一人分の亡骸が横たえられている。
土間の隅には、のこのことついてきた兼家が陣取っている。
「こんな場所ですまぬ。戦の最中じゃが、こうせぬと持って帰れぬでな、成仏せいよ」
恵敬がそう語りかけるのは、今はもう何も語ることのない、良俊の亡骸であった。
「では各々方、はじめて下されい」
恵敬のかけ声で、恵敬のまわりで用意していた僧兵たちが亡骸に萱をまき、火を放つ。
かぶせられた萱に徐々に火がまわり、亡骸は音もなく煙をあげだす。
恵敬をはじめとした読経の太い声が、足元からあがってくる冷たい空気とともに染み渡っていく。
広間ではその時、病人たちの囲む中、聖子が小屋と同じ呪文を唱え除霊の続きを試みていた。
小屋の中と同じように、若丸の体から不思議の白い煙がたちのぼる。
それが形を成し、小屋の中と同じように、再び若丸の姿が浮かび上がった。
それを見ることはかなわない病人たちは若丸と聖子を囲み、みな目元口元をおさえて成り行きを見守っている。
奥の土間からかすかに読経が鳴り響いてきたと思われたころ、その良俊の姿に変化が見られた。
鬼の形相であった若丸の表情が、幾分か揺らいだのである。
聖子はその変化を見逃しはしなかった。
「良俊殿」
聖子は、それでもなお目の前で苦しんでいる煙の怪人に、慎重に呼びかけるのであった。
奥の土間では読経がうなりをあげていた。
恵敬はひとり、その合間に良俊に語りかける。
「この戦でも死者が出た。良俊、おぬしは見ずに済んでよかったのう」
恵敬は見ることはかなわなかったが、その言葉を受けて、良俊の顔からふっと邪気が抜けたのであった。
聖子は若丸の寝顔に目をやった。
それまで苦しそうであった表情がやわらいでいる。
若丸の両目が、ゆっくりと開かれた――。
そのうつろな目と、煙が成した良俊の視線とが、かっちりとかち合う。
「すまなかったね」
聖子は確かに、そう良俊が口にするのを両の耳で聞いた。
そのとき、読経を続けていた恵敬の前に、立ち上る煙が形を成し、良俊の姿があらわれた。
良俊は恵敬の顔を見ると、ついと涙を流した。
そして、そうっと口を開いたのである。
「恵敬、もう、誰も恨むまいよ。成仏させてくれい」
恵敬は目を見開いた。
その目いっぱいに涙がたたえられる。
「良俊」
恵敬の唇が震えた。
恵敬はいま、顔いっぱいに泣いていた。
「成仏、せいよ……」
恵敬は、最後の読経をあげた。
その様子を、何も見えていない兼家が、固唾をのんで見守っていた。
またその傍らに、尾の別れた猫が一匹、座り込んでいた。
「……すまぬ……」
横たえられた若丸の口から、そんな言葉が聞かれた。
「本堂、焼失せり」
恵敬たち僧兵の元にその伝令が届いたのは、夜になってからであった。
「なんじゃと、みな、すぐに出立じゃ」
無事良俊を見送り遺骨をおさめた木箱をその胸に提げた恵敬が、号令をかけた。
そうして僧兵たちは、村を出て行ったのである。
村の武士団は何が何やら分からぬまま、ときの声をあげた。
「やった、勝ったぞ」
「もう来るんじゃねえぞ」
知らぬとは、幸福なことであった。
その中にあり、もっとも胸をなでおろしていたのは兼家であった。
しかし、その様子まで事細かに記している者があった。
例の猫又である。
猫又は兼家に言った。
「事の顛末を明らかにされたくなくば、儂の家来になれい」
「猫のくせに人様を下に見るか」
兼家はいっそこの猫又めをくびり殺してやろうかとすら思った。
だが相手は物の怪、それもかなわぬように思われた。
「嫌ならいいんじゃ。すべてを明らかにするまでよ」
「ぐぬう」
兼家はこうして、この件を境に、人知れず猫又の家来になったのであった。
寺の広間では、病人たちにかこまれ、若丸が聖子に抱きかかえられていた。
もう熱はすっかりひいている。
そこには、山をおりてきた朔と光の姿があった。
若丸がようやく目を覚ます――。
「やあ、若丸」
光が言う。
若丸はそれににこりとぎこちない笑みを作り返した。
「良俊殿は」
すっかり煙の晴れたあたりを見回し、朔が聖子に問う。
「成仏したみたいじゃ」
「狐殿のおかげかの」
朔がひとりごちる。
「きっとそうじゃな」
聖子が微笑む。
「おかえり」
「ただいま」
寺の庭には梅の木がひとつ。
枝になる花々が、いまめいっぱいにほころんでいる。
そこを横切る猫が一匹。
その尾は、二股に分かれている。
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