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みじかい小説#135『恋人たち』

 電車内に傘を置き忘れたことを思い出して、あきらは家路の途中でひとり空を仰いだ。

 夕方まで降っていた雨は、もう止んでいる。空全体を、灰色の重たい雲が、どんよりと覆っていた。

 彰が急に立ち止まったので、後ろから追い抜かそうとしていたスーツ姿の男性は、一瞬、びっくりした顔を見せたが、彰とは目を合わさぬまま、すぐに何食わぬ顔で彰の横を通り過ぎていった。その後ろから流れてくるベージュ色のスーツ姿の女性も、彰とは目を合わさないまま、かつかつとヒールの音をさせながら通り過ぎてゆく。

 みなが俺を、通り過ぎてゆく――。

 彰は、ふいにそんな気持ちになったが、すぐに、いかんいかんと頭を振った。最近は残業続きで、家に帰っても胃に何か入れてシャワーを浴びて寝るだけで、すぐに次の日がやってきてしまう。毎月毎月、一週間がそんなふうに過ぎてゆくので、気を緩めると、最近ではすぐに精神的に不安定になってしまうのだった。

 それでも、仕事だけはきちんとこなしている。趣味らしい趣味はなく、週末はいつも決まって爆睡して終わる。彰は、そんなふうにして、かろうじて精神の安定をはかっていた。

「田中先輩、マッチングサイトやってます?」

 後輩の宮崎さんが、そう声をかけてきたのは、週明けの月曜日のことだった。

「知らない。何それ、面白いの」

「現代版出会い系?」

 宮崎さんはそう言ってニコッと笑った。彰には、なぜだかその笑みがおそろしいもののように思えた。

「へえ、危ないんじゃないの」

「そんなことありませんよ、私、これで彼氏できたんですから」

「へえ」

 彰はとりあえず記憶の片隅に、そのマッチングサイトの名前をとどめておくことにした。

 次の週末、彰は果たして、そのマッチングサイトに登録を決めた。特別彼女が欲しいわけではなかったが、なんとなく、週末に会話できる女友達でもできればいいなと思ったのだった。

 ピロリン♪

 登録してすぐに、おすすめの女の子が表示された。

「はやっ」

 彰は少々、興奮する。しかし、慌ててはいけない。ここは紳士に、冷静に。彰はつとめて平静を装い、彼女と無難な会話を試みる。はじめはお互いに相手を探るような質問攻めが続いたが、それがおさまると、次第にたわいもない世間話に移ってゆく。

 ああ、長いこと忘れてた、この感じ――。

 彰は、自分の心がじんわりとほぐれてゆくのを感じた。

 それから二人がつき合い始めるまでには、長くはかからなかった。彰は関西、彼女は北海道と、遠距離ではあったものの、週末には二人でお茶をしたりして楽しんだ。幾度かのデートを重ねた後、二人は肌を重ねた。

 数か月後、二人はめでたくゴールインした。出会いが出会いなだけに、お互いの両親には嘘をつく形となったが、それは二人だけの秘め事として、生涯大切に守られることとなった。

 今でも、二人はたまに、当時のことを思い出して、家にいながらにしてチャットをすることがある。

「はじめまして、akiraさん」

「はじめまして」

 そんなふうにして始まる二人のチャットは、一晩中続くのだった。

 


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