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みじかい小説#140『ベランダ』

 私の家には小さなベランダがある。

 3DKの我が家には、和室が2部屋、洋室が1部屋あるが、その和室と洋室に面するように設置されているのが、細長いコンクリートのベランダだ。色は黄土色、手すりとなる面はこれまた一面コンクリートで、ところどころに風を通すための穴が設けられている。

 そんな我が家のベランダには、室内からくだの伸びる空調の室外機と、母の選んだプランターが置かれている。今回の主役は、母の選んだプランターの方である。

 さて。うちの母は植物を育てることに関しては人一倍不器用である。まずプランターを買ってくる段階からして何も考えていない。私はよく母の荷物持ちとして買い物に付き合わされるのであるが、母の買い物といえば、とにかく安いものを買いたがるのである。私としては多少高かろうが質の良いものを選びたいという思いが強いが、その違いを差し置いても、母の選択はいつもちぐはぐだ。買い物に行く度に、とにかく安いものを一点だけ買いたがり、そうして増えに増えたプランターは、現在10にも及び、我が家のベランダを圧迫している。それだけならまだいい。しかし悪いことに、彼女の美的センスはゼロに近く、それらのプランターに統一感がまるでないのである。なぜ1点1点異なるテイストのものを買うのか。なぜ全体のバランスを考えて買わないのか。我が家のベランダを前にして、私はいつもなんだか不安定な気持ちになってしまうのである。

 毎回、思い出したように毛色の異なるプランターを買ってきては、土と苗をせっせと詰める母ではあるが、こと水やりに関しては植物が可哀想になるほどに無関心である。「水なんかあげなくても大丈夫だから」が母の言い分であるが、なぜそう言い切れるのか、植物にしてみれば「ごはんなんかあげなくても大丈夫だから」と言われているのに等しいわけだが、それでいいわけがないだろうというのが私の考えである。仕方なく私は、いつの頃からか、母が完全にぶんなげた水やりという作業を、母に代わって毎日夕方に行うようになった。私としては、植物に水をやっているとなんだか豊かな気持ちになってくるので作業自体は苦ではなく、毎回、「ぞんぶんにお育ち」とばかりに愛情込めて水をやるのだが、同時にテイストのアンバランスなプランターを前にすることでげんなりしてくるので、結局プラスマイナスゼロになっている。人の自由にならない植物に対しては完全に他者として愛情を注げる一方で、人の自由にできるはずのプランターには出来るだけ手をかけたいという思いが強いので、自然と、母の選択により台無しになっている目の前の景観を口惜しく思う自分がいるのである。

 理想的な子供であれば、それでも愛する母の選んだプランターなのだからと、その不格好さもひっくるめて愛することが出来るのかもしれないが、残念ながら私はどれだけ身近だろうが、調和を欠いた状態に非常に不安感を抱く気性の持ち主なので、こればっかりはどうしようもない。アンバランスでも全体として調和がとれていれば安心することができるし、アンバランスであること自体が一種のアートであるという主張も理解は出来、はたまた調和した世界を逆に不自然だとしてアンバランスを求めることも無くはないが、果たして私の母がそんなプロの域に到達しているとは考えにくく、仕方なく私としてはなるべくプランターのことを考えずに水やりをする以外にないのである。

 そんなことを考えて、今日も水やりをする。母が死ぬまで、あと何回こうして水やりをすることが出来るのかと考えれば、母が生きているうちには、せめて母の代わりに水をやろうと思える。これは一体、母に対する愛情なのだろうか、それとも植物に対する愛情なのだろうか。しかし。いつか母が死んだときには、今ベランダにあるすべてのプランターを植物ごと必ずや私の目の前から消し去ってやろうとは思っている。そうして、新たなベランダの支配者となった暁には、私好みのプランターで、私好みの植物を、種から大事に育てていきたいと思っている。

 そんな密かな野望を胸に秘めて、それまではと、私は毎日、ベランダに出て水をやるのである。


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