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みじかい小説#196『とある心理カウンセラーの告白』

 佐藤みなみは、2015年の春から、都内某所の雑居ビルの一室を借り「さとうクリニック」を営んでいる。

 今年でもう7年になるが、クライアント数は年々右肩上がりである。
 特にここ2,3年は、世界的な感染症の流行のせいで、皆が心身ともにウチにこもり、その結果精神的にまいる人たちの数が増えている。
 商売人としては大繁盛のため嬉しい限りではあるが、いちカウンセラーとしては毎日彼等の病んだ精神に接することで嫌でも影響を受ける自身の精神状態が心配でもある。

 そのため、佐藤みなみは、人一倍日々のルーティンを大事にしている。
 まず、朝は6時に起きる。
 コップ一杯の水を飲むと、洗面所に移動し、鏡の前でむくんだ顔とにらめっこ、リンパ節をマッサージし血行をよくしてやる。
 そこで歯を丁寧に磨き、次はリビングのカーテンを全開にした上で、自然光の下30分間ヨガをしていい汗をかく。
 シャワーを浴びてさっぱりしたら、ヨーグルトとシリアルとバナナといった簡単な朝食をすませる。これも、よく噛んで胃に入れることを心がける。

 全身の体温が上がりきったところで、みなみはコーヒーをいれ、パソコンを立ち上げる。
 まずはニュースのチェックから。
 続いてキュレーションサイトをはしごし、めぼしい話題がなければ娯楽系のニュースに目を通す。
 新しい情報を目から入れることで、脳がだんだんと活性化してゆくのを感じる。
 世間一般の主だった変化を把握したら、次は目の前タスクに移る。
 メールチェックをし、必要があれば早々に返信する。
 カレンダーをチェックし、今日一日のおおまかな流れを確認する。
 手元の手帳を開き、その他のスケジュールを把握する。
 それから簡単に身支度を済ませ、みなみは一人、家を出る。

 移動は電車である。
 朝1時間のラッシュを乗り切ると、人込みでひとしきり揉まれたみなみは、よれよれになりながら「さとうクリニック」の扉を開く。
 一晩よどんでいた室内の空気が、重くみなみの体にまとわりつく。
 みなみはエアコンのリモコンに直行し、最大風速で冷房を入れ、すぐさま空気清浄機のボタンをオンにする。
 部屋の空気が循環し浄化されている間、カウンセリング室の自分のデスクに移動すると、スタッフにより用意された引継ぎ記録に目を通す。
 今日のクライアントは10名。
 朝一は10時からの石井さんだ。
 みなみは石井氏のカルテに目を通す。

 石井康介、35歳、既婚、29歳の妻との間に2歳の一男あり、うつ病を患い、この春に勤めていた不動産会社を退社、現在自宅療養中。今回の来院では簡単な精神鑑定を期待している云々――。

 ざっと下まで読み進めると、ここに一人の人物像が浮かび上がってくる。
 みなみは脳内で、まだ見ぬ石井氏の状態を予想し、かけるべき言葉をいくつかピックアップするイメージトレーニングをはじめる。
 みなみにとっては数多いクライアントのうちの一人にすぎないが、石井氏にとってはみなみだけが唯一の心理カウンセラーである。
 いただいている料金分は、きっちりと話を聞き、精神状態を把握し、できるだけ回復に必要な言葉を用意すること。
 とはいボランティアではない。話を聞きはするが、決して感情移入せず、寄り添い耳をかたむけはするが、あくまで導く者として話を聞き、適切な言葉を提供する。それがみなみのスタンスである。
 幸い、クライアントからは好評を得ており、みなみの評判はすこぶる良い。
 みなみは今日も、一期一会を信条に、クライアントを出迎える。
 学生の頃はまさか自分が開業するなど思ってもみなかったが、今ではこうして働いていることが、天職のように思えてならない。


 一日が終わると、みなみはくたくたになっている。
 なにせ10人もの、精神衰弱者を相手に数時間、拘束されるのだ。
 疲れないわけがない。
 しかしみなみは心理カウンセラーである。
 自身の精神状態を正確に把握し、その日の疲労はその日のうちにとってしまうのもお手の物である。
 みなみはスタッフにお疲れ様を言うと、ひとりクリニックを後にした。

 立ち寄るのはいつものバー。
 適度に証明が落とされ、音楽はうるさくなく、女性が一人でカウンターに座っていてもナンパされない、フロアに座っている誰もが自分の時間と対峙している、高級だけれどそれだけの価値のある、そんな安全地帯だ。
「いつものください」
 みなみはお気に入りのドリンクとおつまみを注文する。
 数分後、辛口のジンジャエールとチーズと干しブドウが運ばれてくる。
 みなみはそれらに口をつけながら、ひととき、何も考えずに時を過ごす。
 至福の時間である。

 時計の針が22時を打つころ、決まって、みなみのラインに複数のメッセージが届く。
「今日もお疲れ様」
短いメッセージの下には、センスのいい花束の画像が添付されている。
たつきだ――。
みなみは、しばらくその文面と画像に目をとめ、おもむろにリプライを返す。
「めっちゃ疲れたー!癒して!!」
樹にだけ見せる、みなみの甘えである。
すぐさま返信がある。
「へい、よろこんで」
文章の最後には、寿司のアイコンがいくつか並んでいる。
なんじゃそら。
みなみは他の客に分からないように、ひとりにやりと笑う。

今日一日で、みなみは一生分のネガティブな他人の言葉を聞いた気がする。
仕事が終わるたび、みなみはいつもそう感じる。
他人のネガティブな言葉を一日中聞き、適切なアドバイスを提供して、その対価を得る。それがみなみの仕事だ。
好きでしている仕事だけれど、慣れているとはいえ、当然それなりに、耳と精神はダメージを負う。
しかし、そんなみなみの疲労は、樹の言葉で一気に吹き飛ぶ。それも事実だ。
樹が忙しくてメッセージをくれない日は、みなみは自分の言葉で自分を癒す。それはとても面倒だけれど、明日の仕事に響かせないよう、必ずその日のうちにすませなければならない仕事でもある。決して一人で回復できないわけではないけれど、それでも樹のメッセージによる回復力には叶わない。
それをみなみは少し、悔しいと思う。
とにかく、言葉によるダメージは、言葉により回復するのだ。
これは、みなみの自論である。

みなみは思う。
明日もクライアントから、ネガティブな言葉を聞くだろう。それに対し私の口からは適切な言葉が提供されるだろう。また運がよければ22時頃、樹からポジティブな言葉も与えられるだろう。
様々な言葉が、私の上を通り過ぎてゆく――。
私は言葉により活かされている。
言葉の中で生きている、と。

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