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『みじかい小説』#147 どんぶらこ

 僕はたまに波にさらわれる。

 今日もスマホの液晶画面を眺めていると、つい油断して、波をかぶってしまった。

 たとえばこうだ。

 ニュースを読んでいると、「どこそこの芸能人が離婚した」なんて言っている。僕は「ふうん」なんて思う。離婚なんて昨今めずらしいことじゃない。他人が結婚しようが離婚しようがどちらでもかまわないのに、まあいいや、僕には関係の無いことだ。そうして僕は次のニュースに移る。けれどその一瞬に、僕の脳裏には、コメント欄の「子供がいるのに離婚するなんて何を考えているんだ」という無名の文字列がこびりつく。「そんなこと、どうだっていいじゃないか。だいたい、子供がいる状態で離婚するのはなぜ悪いのか」と、僕の頭の中で自動的に会話がはじまる。誰が書いたかも分からない、そんな無責任な文字列に、僕は心乱されるのだ。

 油断しなければ、こんなことにはならない。誰が書いたのかも分からない無責任な文字列に、自分の大事な思考と気分を乱されるわけにはいかない。何を見たとしても、自分は動じない。普段からそう強い姿勢を保つ決意を維持していれば、そう簡単に思考と感情を侵されることはないのだ。

 SNSだってそう。匿名性で自分を守って、普段言えないことを言ったりして楽しむのがSNSの楽しみ方だ。厳密に言えば匿名ではないのだけれど、それはさておき、だからSNSってものは、無責任な言葉で埋め尽くされているものだ。普段見えない他人の人生を垣間見ることができる、とても面白いツールなのだけれど、ここにも罠は潜んでいる。自分が油断していると、「今日はステーキ」という文字列にさえ、反応してしまうことがある。それも悪いふうに。「自慢か?こっちは白米とみそ汁だぞ」と、勝手に自分の頭の中で会話が始まり、それによって勝手に気分が害されてしまうのだ。「私ってこういう所あるんだよね」という文字列にさえ、「聞いてないし」なんて会話がはじまり、自分の思考により気分が害されてしまう。

 今晩の夕飯が焼肉だとしたら、「今日はステーキ」なんていう文字列を見た場合、「自慢か?こっちは焼肉だぞ」とばかりに自分も負けじと写真を撮って公開するかもしれない。この場合も自分の中で勝手に会話が始まり、それによってマウントを取りたいという気分が起こり、なまじ手元にカードがあるが故に、実際の行動にまで発展する例だ。なんにせよ、たまたま目に入った文字列によって、勝手に自分の中で会話をはじめ、勝手に気分が揺らいでいるのだ。

 最近では、「あなたへのおすすめ」なんていって、AIが勝手に普段の傾向からコンテンツをおすすめしてくることもある。それによりそれまで関心の無かった世界に触れることができる機会もあるが、たいていの場合は、普段見ているのと似たり寄ったりのコンテンツが表示される。それでも、「そうそう、こういうのが見たかったんだよね」と脳内で会話が展開される場合は、自分で気分がよくなり、結果オーライである。けれども「違う、そうじゃない」といった場合、自分の気分は悪くなってしまうのである。

 いずれにせよ、目に入ったものから自分で勝手に会話を始めてしまうのが悪いのだが、残念ながら人間は何かに触れると感想を抱く生き物でもある。おすすめなのは、「今日はステーキ」という文字列を見ても反射的に感想を抱くことを自分に許さず、「ああ、今この人はステーキを写真に撮って公開しているな」と事実をそのままとらえ、その上で自分はそんな行為をする人に対して何か思うことはあるだろうかと、丁寧に自分に問いかけると言う手順を踏む方法だが、これには相当な訓練がいる。それに、いくら気持ちを強く持っていても、ふと油断した瞬間に、つい反応してしまうこともある。そういう時には自分が油断していることを認め、対策を講じることだ。

まずは、そっと自分の目線を変えるという方法がある。別のものを見るのだ。少なくとも、自分の気分を害さないものを。コンテンツで溢れている今の時代、少なくとも自分の気分を害さないものを探すくらい簡単だろう。自分の機嫌は自分でとるのだ。

 そうは言っても、悲惨な光景から逃れられない時はある。そんな時に効力を発揮するのが、思考停止と創造だ。先ほど提案した「この人は今こんなことをしている」と事実をそのままとらえることをした上で、まずはそれ以上反応しないと決める。つまり、そこで一旦思考停止するのだ。その上で、何か自分で出来ることを考える。何もできない場合もあるかもしれないが、その場合は、頭の中で考える。とにかく生産的なことをするのだ。するとその途端に、自分との対話が始まる。他者の行為に反応して自分勝手な会話を繰り広げて疲弊するのではなく、たとえ他者の行為から出発したとしても、そこから自分の行為につなげ、自分の中で会話を展開していくのだ。そうしている間は、少なくとも何かは形づくられているわけで、集中している限りにおいて、精神の平和は保たれる。この方法のいいところは、回復する頃には、何かが勝手に出来上がっているという点だ。

 価値観が多様化する現代において、万人受けするものは作りづらくなっている。その「万人」ていったい誰なの?という問題が立ち上がるからだ。いまや何かを作れば、それを誰かがけなすのが当たり前になっている。それだけ自由になってしまったのだ。もう逆行はしないだろう。だからその分、多様な表現が増えればいいと思うのだ。そして、誰もが自分に合った表現を自由に選べる時代がくればいいと思うのだ。そのためには、既存の表現が気に入らなければ自分で作る、そんな人がもっともっと増えればいいと思うのだ。

 そうは言っても、皆で「この表現はちょっとやめようよ」というラインは必要だとは思うけれど。たとえば全裸で外を歩くとか。
と、きれいに締めようと思ったら、こんな記事にぶち当たってしまった。さすが自由の国アメリカ…。

 まあそういうラインて、実際はコミュニティごとに合意形成していくしかないんでしょうけどね。

 そんなことを考えながら、今夜の僕は、ひとり液晶画面を閉じて創作活動にいそしむのでした。

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