【ショート・ショート】平穏

「おかえりなさい」
 平井孝夫は、出迎える妻の態度が、いつもと微妙に違うことに気づいた。はっきりどうとは言えないが、何か確かめるような視線を送ってくる。孝夫はそれが何だか分からず、のどに刺さった小骨が取れないような、もどかしさを感じた。

「お帰り。パパ」
 下の子が妻の足元をすり抜けて、孝夫の胸に飛び込んでくる。流石に上の子は照れがある。
「お風呂に入るぞ」
 子供達を洗ってやりながら、孝夫はいつもよりゆっくり風呂に入った。湯船の中に肩まで浸かりながら、妻の微妙な変化に思いをめぐらせる。探られれば痛いところがいくつかある。
 怒っている風ではないから、あのことではなさそうだし。口数も普段と変わらないから……。
 孝夫はこれといったほころびや失策には思い当たらない。気の回し過ぎかな。
「よーし、上がるぞ」

 食事中、下の子は、口を動かすより、遊んだり、しゃべったりしている時間の方が多い。上はかれないと学校のことも話さない。テレビを見ながら黙々と食べている。
 ふと気づくと、妻がじっと孝夫を見ている。視線が合うと、少し間をおいて、さりげなくテレビにそらす。何か探るような眼に思える。わずかの動揺も見逃さない、そんな風にも見える。

「今日、子供達がねえ」
 妻の話に空で返事しながら、頭の中はめまぐるしく動く。
 ん?、何か言うことがあったかな。今日は何かの記念日でもないし。誰のか誕生日でもないし……。

 えっ。あっ。
「髪を切ったのか」
「やっと分かったの。鈍いわねえ」
「似合うよ」
「嘘ばっかり」

 孝夫にしばしの平穏が戻った。

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