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宣長少年、「赤穂義士伝」聞き書きの巻ー松阪・本居宣長記念館~天神亭日乗20

二月二十三日(金)
 松阪 本居宣長記念館 令和五年度冬の企画展「ノートを書く人びと」へ。
 私にとって本居宣長は敬して近づかず、といった郷土の大国学者。子供の頃訪れた記念館も古くて暗い印象で、馴染んだものではなかった。
 しかし、勤務先の大学の国文学科がかつて三年生を毎年全員この記念館に連れていっていた。私は驚き、非常に恥ずかしくなった。あまりにも不勉強だったと。
 
 地元に帰るとこの記念館を訪れるようになった。建物も新しく改築され、子供向けの分かりやすい展示も増えている。
 新しい展示で、まず衝撃を受けたのが、階段の壁に大きく貼られた地図だった。宣長十七歳のときに書いた日本全図。近隣だけでなく東北から九州、離島の地名まで書き込まれている。この成立過程も興味深い。
また年表を見てもうひとつ不思議に思ったのが、宣長の娘たちの名前。皆地名だった。「飛騨」「美濃」「能登」。これも記念館の方に尋ねたことがある。何かこの地方に縁があったのでしょうか。その職員の方はにこりと笑って、壁の地図を指さして言った。
「いや、宣長さん、地図マニアだからでしょう」
地図マニア!お気に入りの地名を娘に名付けたのか。本居宣長先生、今なら鉄道マニアになっていたかも、と可笑しくなった。

 さて、今期の「ノートを書く人びと」の展示。
「おい、見てみい」
ある展示の前で父が手招きしている。ガラスケースの中にびっしり書かれた巻物の文字。その横に添えられた説明に目が釘付けになった。
『赤穂義士伝』!
「これ、宣長さん、覚えて書いたんやなあ」
と父。
「嘘やろ⁉講談⁉これを?覚えて家で書いたん⁉」
私は小さく声をあげた。
 本居宣長十五歳。延喜元年(一七四四年)九月、松阪新町の樹敬寺で、江戸の説教僧の実道が毎夜語る赤穂浪士討ち入りの話を宣長が一言も漏らさぬように聞き、家に帰って書き留めたという。全長3メートル62センチ!忘れたところは「ワスレ」と書き込まれている。展示の解説ではその「ワスレ」の数は少ない、と宣長の記憶力を褒めている。
 これは、いわゆる落語や講談でいう「速記本」だ!やがて「古事記」の研究をするこの宣長少年。自身も稗田阿礼なみの語り言葉の記憶力を有していた!
 また、赤穂浪士の討ち入りは一七〇二年。四二年後の時点で、江戸から来た僧が松阪の寺で語っているとは…しかも毎夜の連続物として。宣長少年はおそらく初日から記憶、記録するつもりで臨んでいるのだろう。どんなふうに寺のお堂に座っていたのだろう。毎夜、楽しみで楽しみで、そして帰ってまたそれを筆で書き留めていく。なんと胸の高鳴る光景だろう。
そしてこの赤穂義士伝。「仮名手本忠臣蔵」の初演は一七四八年。芝居として成立する前に、こうした説教僧が全国の寺で語っていたかと思うと面白い。

 この宣長の少年時代の息遣いを感じるような「赤穂義士伝」の速記を繰り返し眺めたいもの、と売店で記念館発行の「令和版本居宣長の不思議」を買い求めた。

 実家に戻り、母の遺影に線香をあげ、この本の頁を開いた。「赤穂義士伝」の頁をめくろうとして、その前の章で手が止まった。
『本居宣長の核には≪謡曲≫がある』
 宣長は十二歳の七月から謡を習い始めたという。十五歳までに全部で五十一曲を修めたとある。日記に記された曲名の数々。その中に「東北」があった。私は去年のはじめからこの曲の仕舞を習い始めたのだが、全く覚えられず、母の入院なども相まって、私も少しパニックになっていた。何度も間違えてしまったお稽古日の終わり、初めて先生に「私、もう無理です。覚えられません!」と叫んだ。いつもはクールな先生が少し驚いたようで、でも私の状態がちょっとおかしいと感じたのかもしれない。「焦らなくていいよ。ゆるゆるやればいい」と優しく声をかけてくださった。
 その後、母を送り、そしてこの曲の上げがあり、この「東北」の仕舞のお稽古を何とか終えた。
 宣長少年もこの「東北」をお稽古していたのかと嬉しくなった。美しい謡。仕舞であんなに手こずったのに、この詞章は本当に好きだった。先生の謡を聞くのは楽しかったのだ。宣長少年もこの曲を謡っていたのか。
〽袖を連ね裳裾を染めて色めく有様はげにげに花の都なり—

 宣長少年が出会った謡。「源氏供養」もある。ここから「源氏物語」の世界を広げていったのか。上代文学の扉も開いていったのだろうか。この知の巨人の若き日、松阪の町に謡をうたい、「赤穂義士伝」を書き留めていた。その姿がなんとも愛おしく、あらためてこの人を知りたい、と思った。

*歌誌「月光」84号(2024年4月発行)掲載
 *写真は「令和版本居宣長の不思議」(本居宣長記念館・刊)表紙

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