八年目の「三年目」ー桂竹千代独演会 2024春~天神亭日乗21
四月十六日(火)
内幸町ホール 桂竹千代独演会
遡ること2か月前、一本のメールが入った。桂竹千代さんからだ。内容に息を吞んだ。この独演会にかける演目「三年目」についてだった。
私が病の床にあるときに出会った落語「三年目」。抗癌剤で禿げた頭で横たわりながら、これを聞き私は涙した。その日から私は眠れぬ夜の夜毎夜毎、落語の語りに耳を傾けることになった。その月日を重ね、今や八年目、もはや落語なしには私の日常は語れない。
コロナ禍のなか、勤務先の大学で落語会を開催し始めた。桂竹千代さんに来ていただいたのは二〇二二年のことだ。その後の打ち上げで何の流れだったか、おそらく落語に嵌ったきっかけの話題だったと思う。竹千代さんにこの「三年目」の話をしたのだ。
私の左隣に座られていた竹千代さん。その時の竹千代さんの表情と言葉をよく覚えている。くりくりとした目をさらに大きく開いておっしゃった。
「いや…実はこの噺、習う気なかったんですよ。でも覚えようかな…」
この「三年目」はあまり高座にかからない。私も一度だけ、さん喬師匠が紀伊國屋寄席でかけたのを聞いたきりだ。笑いの箇所が少ない噺だし、今と違う風習がベースなので説明が必要なところもある。だから古典も新作もどんどん自分のものにしている竹千代さんでも、「覚えてもあまりかけられないかな」と判断されていたのかもしれない。
「ぜひ、お願いします!この噺を復権させてください!」
その時、私は嬉しくなって叫んでいた。
それから半年ほど後、竹千代さんはご自身の勉強会で「三年目」をネタおろしした。本当にあれからすぐ習われたのだ。
私もその会に駆け付けた。若い竹千代さんの演じる「三年目」は明るく、とても良かった。嬉しく帰路についたことを覚えている。
竹千代さんからのメールは内幸町ホールで「三年目」をかけること、この噺をさらに練り上げたいとのことで、私が打ち上げで話した内容の確認であった。私は喜んで、少し興奮しながら返信した。
この独演会に父も誘った。当日、三重県から父も上京した。手術から八年、随分心配をかけた。お詫びとともに、私を救ったこの落語の一席を聞かせたい。当代人気の若手落語家が私の想いをくみ取ってくださり、この「三年目」を習い、このような晴れがましい席で披露されるその現場を、父にも見せたかったのだ。
満席のお客様、ゲストは春風亭昇太師匠。客席のテンションも高い。竹千代さんの「転失気」も大いにウケていた。また東北のアテルイを描いた人物伝落語「北天の雄」は国史では語られぬ偉大な人物を取り上げ、胸が熱くなる一席だった。
そして最後に「三年目」が始まった。
竹千代さんの「三年目」はネタおろしの時からまたさらに練られてこられていた。マクラも奥様との会話のエピソードで笑わせて、若夫婦の会話のシーンに入っていく。若い竹千代さんが演じるこの「三年目」は妻がより可憐に、そして誠実な旦那、この二人の会話にお互いへの想いがこもっていて、とても良かった。途中聞きながら、闘病の風景を思い出し、涙が零れた。
妻の台詞がサゲとなる。会場から拍手。そして竹千代さんが「少しだけ時間をください」とアフタートークを始められた。
それは私と「三年目」のあのエピソードだった。もちろん名前や詳細は伏せてくださっていたが、私が竹千代さんに語ったこと、髪が抜けてしまっていた自分の哀しみ、封印していた女心をこの「三年目」が解いてくれたこと。「落語」は笑わせるだけじゃない、こんな噺もあるのだ、とそれから落語を聞いて救われたこと。
この大きなホールの中で、私は不思議な感覚にとらわれていた。あの神田川沿いのYビルの一室で、独りで志ん朝師匠の「三年目」を聞いて泣いていた禿げの私。今、内幸町ホール、満席のお客様の前でその私の姿が語られている。
永らえて、だ。本当に命永らえて、私は今ここにいる。
この八年の間に、私は落語を聞く側から、落語家をお招きし、落語会を催す側にもなった。それはあの時の、禿げて泣いていた私のような女に、大丈夫だよ、と言いたいからかもしれない。私は「落語」で救われた。もしかしたら、誰かひとりでも、「落語」で救われる人がいるかもしれない。
竹千代さんの「三年目」。これからまた全国でかけられるだろう。この噺がまた誰かを救うかもしれない。竹千代さんに感謝を込めて、私は大きく拍手を送った。
*歌誌「月光」85号(2024年6月発行)掲載