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七年目の「野火」~天神亭日乗6

八月十一日(水)
 夏休み前の最終勤務日。しばらく迷っていたが、塚本晋也監督の「野火」を見に行くことにした。その日の池袋新文芸坐の最終上映なら間に合う。
 封切は二〇一五年。私が入院する直前の時期で、映画を見に行く状況ではなかった。また戦闘シーンの描写がかなり残酷だという評を記憶しており、これまで避けていた一本であった。
 しかし、昨年、祖父の弟、福松の歌を作ったこともあり、この映画が気になっていた。この大叔父、福松は南方で戦病死をしたと聞いている。五島の祖母の家に飾られた額装の遺影。優しい顔の軍服姿の青年だった。映画「野火」、今年、やはりスクリーンで見ておこう。意を決して池袋に向かった。
この映画は塚本監督が自ら主演している。最近では役者としての彼が印象深い。スコセッシ監督の「沈黙―サイレンスー」でのモキチ役。彼が十字架にかけられ、波に打たれながら讃美歌を歌う場面はこの映画の白眉のシーンだと思う。
 その監督が主人公、田村に扮していた。日よけのついた軍帽。福松もこんな帽子をかぶっていた。写真を思い出していたら冒頭いきなり上官から殴られる。
 レイテ島での悲惨な戦況の中、日本兵たちがあてどなく彷徨する姿が描かれている。フィリピンの美しい山々の緑、河を渡り、汚れて傷ついた日本兵が歩いていく。繰り返し描かれる煙。これが野火か。ゲリラの合図か。そこで田村が見晴るかす樹々の間に光る十字架。
 この場面で、はっとした。「南方で戦病死、ナンポーデセンビョーシ」。呪文のように聞かされていた言葉。
 福松が死んだ「南方」とはどこなのか、はっきりわからない。この「野火」のようにフィリピンのどこかの島に向かわされたのかもしれない。彼は五島のキリシタンの生まれである。山の樹木の間から見える十字架。故郷、五島の島と同じ風景ではないか。十字架のある村に銃を持って入っていく?同じ祈りの言葉を唱える女の子に銃を向けられた?緑の樹木の葉の匂い。肌に触れる潮風。山も海も故郷と同じなのに。ここで自分は殺すのか殺されるのか。
 映画では多くの血が流れた。米軍の機銃掃射で日本兵の大殺戮が映し出される。このシーンがセンセーショナルに取り上げられたのかもしれない。やはり少し怯む。しかし、この映画の映像はちゃんと直視しなくては、と背筋を伸ばし瞬きせずに見た。これが戦争。美しい傷のない死体などない。原爆の記録で小崎登明修道士が語ったように、腹から腸が出るのだ。頭蓋から脳漿が零れるのだ。ましてやこの至近距離での機銃による攻撃である。人が人の形をしていることが難しい。「〇人死亡」という言葉の裏にこのような肉体の滅びと痛みがあることを熱をもって描いている。厳粛な気持ちになった。
 同胞たちの死体を横目に見ながらの彷徨。見知った顔の男たちとの遭遇。「食べていいよ」と差し出される腕。血にまみれた口。そして記憶がとぎれる。炎を見つめる田村の顔。
 全身が緊張していた。ふっと息をついたとき、タイトルロールが始まり、私はぐったり椅子に身を預けた。
 この日は上映後に、塚本監督のトークショーがあった。私は何の予備知識もなかったので、まずこの映画が自主制作と聞き驚いた。そして、毎年この8月に上映していること。しかもその呼びかけを、春頃から監督自身が全国の映画館にメールを送っているというのだ。この池袋の新文芸坐でも封切から数えて7回目の上映だという。
 初めて見る客のため、創作のきっかけから監督は話してくれた。高校生のときに大岡昇平の「野火」を読んで、映像が浮かんでいたこと。同じく高校生の時に、銀座並木座で市川崑の「野火」を見て感動したこと。三十代の頃から映画化を考えていたが、なかなか進まず、しかし、戦後七十年が近づいて、このままでは体験した方から話が聞けなくなる、とインタビューを開始した。そして今の日本の不穏な状況にこれは今こそ、と自主映画で作る決心をしたという。
 作成の志と、危機を叫び続けて、七年間も上映を続けている信念。監督は若い人々に語り掛けたいのだろう。あなた達も戦争となったら、こうして死ぬのですよ。そして殺さなくてはいけないのですよ。どうするのですか。
 そして今の日本。「結核くらいで来るんじゃないよ」と衛生兵からも見棄てられる田村。今、コロナの中で、同じように見棄てられ自室で死んでいく人がいる。赤ん坊まで見殺しにされた。戦場と一緒ではないか。この国は何も変わっていないのか。何のために、この何万もの人が死んでいったのか。結局、為政者の失策に翻弄されるのは国民だ。それで命が失われることを、本当に痛みとして感じているのだろうか。映画の余韻と「憂国」の思いに震えつつ、帰路についた。

八月十六日(月)
 大岡昇平「野火」読了。自分がこれを読まないできたことを恥じ入る。夕陽を見ながらの将校の場面。これは「捨身飼虎」なのか。キリストの肉と、弥陀の慈悲。原作の黙示録的な世界を塚本版「野火」が見事に表現していることに、あらためて感動した。

八月十八日(水)
 中公文庫「レイテ戦記」を贖おうと街に出る。正午過ぎ、飯田橋の軽子坂でスコールにあう。夏の日差しの光の中の雨に濡れていると、ふと軍服を着て彷徨っている気持ちになる。すれ違う人に身構える。私の中でまだ「野火」が燻っている。
 
*歌誌「月光」70号(2021年12月発行)掲載

*写真は池袋新文芸坐2021年8月公開時の館内掲示より

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