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雨―八木重吉と〜天神亭日乗10

四月二日(土)
 久しぶりに中学、高校と一緒だった友に誘われ、代々木上原に行く。彼女の絵の師匠、伏屋美希先生の個展だ。美希先生の色と光の小宇宙に身体か軽くなる思い。その友人との久しぶりの語らいも楽しい時間だった。

 この代々木上原は私にとって懐かしい街だ。
 この街には兄のアパートがあった。時はバブル。しかしそんな都会の片隅の、本当に典型的な貧乏アパート。四畳半、風呂なし、トイレ共同。外の階段を上がって入る、玄関も共同だ。
 私は寮に住んでいたのだが、門限を過ぎる時はよく泊まらせてもらった。来るたびに酔っぱらって外階段を千鳥足で上ってくる妹。とても煩わしかっただろう。

 帰りに兄の下宿のあったあたりを歩く。もう銭湯もない。アパートももう分からない。しかし歩いている時にふと、あるフレーズが浮かんだ。
――世のために働いていよう
 ああ、これは。兄の部屋で聞いた、男声合唱の一節だ。メロディーも覚えている。しかし、前後の歌詞もタイトルも分からない。
 兄は当時、大学4年生。グリークラブの一員だった。この部屋で兄はずっと煙草を吹かしながら男声合唱のCDを聞いていた。この「世のために働いていよう」の歌も「ええ歌やーええ歌や—」と何度も聞かされた。
私はこのメロディーとフレーズを脳内で再生しながら、上原の住宅街を歩いた。

五月四日(水)
 早稲田の八丁堀の短歌講座。宿題提出締切日。題は「声」。「声」をいろいろ思い返す。代々木上原で私の中に蘇ったグリークラブの声。「世のために働いていよう」あれは誰の詩だったのか。
 中也の「春日狂想」も彷彿とさせる。あるいは宮沢賢治か?
 このフレーズと「男声合唱」と検索する。パソコンの画面にあらわれたその詩人の名前に私は息を呑んだ。
 八木重吉!
 この八木重吉、その人の詩集を私はある人から贈られていた。中学生のときである。
 カトリックの家に生まれた私は、「幼児洗礼」といって生まれてすぐに洗礼を受けていた。そこに自分の意志はない。しかし、この信仰を選ぶのか、自分の意志を問われる機会が設けられている。それが「堅信」である。幼い時からこじらせた子供だった私は、信仰に関しても随分反抗心を持っていたと思う。しかし、いざ中学生となり、堅信式の予定を告げられると、急に堅信名を探しだしたりしたので内心は嬉しかったのだろう(結局、分厚い聖人伝に音をあげて、洗礼名と同じにしたのだが)。
 赤ちゃんの頃から私を知る教会の人々、シスターたちが堅信式にいらしてくれていた。式のあと、「お祝いに」とあるシスターからきれいな包みを手渡された。
 その贈り物が「定本 八木重吉詩集」である。彌生書房から出された、美しい白い一冊であった。
 こじらせたうえに、さらに反抗期でトンガリ女子中学生だった私は、パラパラと頁をめくり、平易な言葉で書かれた数々に「え?なんやこれ?」とそのまま本を函にしまい書棚におさめた。しかし扉にある、坊主頭の優しい顔をした詩人と幼い娘との肖像写真は心に残っていた。
 その、私がある意味、封印して見ることもなかった詩集。その詩人のこのフレーズを私はそうとも知らず、三十年以上心に抱えていたことになる。

   雨
雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでゆこう

 この「雨」で検索すると沢山のグリークラブの動画が出てきた。多田武彦さんという合唱曲の大家の先生が作られた名曲だったのだ。
 中学生の時に閉じた頁に眠っていた一篇の詩。まさかあの四畳半に充満した紫煙のなかで、二日酔いの頭でリピートして聞いていたとは・・・。今度シスターにお会いしたらこの話をしよう。きっと笑ってくれるだろう。

五月二十四日(火)
 出勤しようとしていた朝、父から携帯に電話が入る。こんな時間に電話。何かあったのか。不安に思いながら出ると、ある人の急逝の報が告げられた。私は声を失った。涙が溢れた。

 美しい五月、聖母月の日に帰天したのは、私の母校、セントヨゼフ女子学園で長く学長、理事長を務めたシスター中津幹先生である。女子教育にその人生の全てを尽くされた。私だけではない、多くの教え子に沢山の言葉と祈りと愛を捧げてくださった。そう、あの詩の雨のように。

六月十九日(日)
シスター中津幹が私にくださった「定本 八木重吉詩集」が私の手元に戻ってきた。函は少し灼けてしまったけれど、中は美しい白い表紙のままである。優しい詩人の顔も記憶のままであった。
「雨」の詩の頁に、私はそっと栞をはさんだ。

※歌誌「月光」74号(2022年8月発行)掲載


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