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前向きに後ろへ歩く

さいしょに

どうもご無沙汰しています。田村です。
「前向きに後ろへ歩く」ということをしていました。

この動画は、実際に展示会場に展示していたものです。

京都に住み始めての初めての作品です。(ってどこから作品と言うのか自分の中でも曖昧なので難しい)
清水寺付近と四条通、新京極商店街、錦市場にかけてと、京都市立芸術大学構内で前向きに後ろへ歩いてました。


なぜ前向きに後ろへ歩こうと思ったのか

あんまり覚えていないんですけど、確か大勢歩いているところで一人だけ後ろに歩いてたらどうなるんだろうとか、ぼんやり思ったのが本当に最初だったんじゃないかな、たぶん。

自分じゃどうしようもない大きな流れみたいなのにやられてて。
なんて言うのかな、直接的になっている、というか。
うまく言えないですけど、宗教二世の問題を明るみにするために人を殺めてしまうだとか、国葬反対で焼身自殺を図ってしまうだとか。そういった主張したいものが直接的になって表面に出てきているのが、なんだかしんどい。
そこにはきっとその問題に対する切実さがあるとは思うんですけど、でも…うーん。
切実さがあるからこそ私はずっと気になって考えてる、だろうけど。

まぁそこで、公共の場所で一人くらい後ろに歩いててもいいんじゃないかな。とか思ったんですよね、確か。
そのくらいの許容力が必要なんじゃないかなぁとか思った、はず。

すべて曖昧に書いている理由というか言い訳なんですけど、
ついこの前同じ場所を友達と遊びに出かけたら「ええっ!自分ってここを後ろに歩いてたの?!やばすぎる。」と衝撃を受けて、そんな自分に自分もびっくりみたいな。過去の自分は今の自分につながってるはずなのに、どこかでなんかが起こって切り離されてる瞬間がある、んだろうな。
そんな感覚のせいで、過去の自分が文章で残していても、どこか懐疑的になってしまっています。現在。

あと、言葉に興味があるんでしょうね。
前向きに後ろに歩くって一見すると、間違ってるというか矛盾しているように聞こえますが、やっていること的にはこの言葉は合っている。矛盾を馬鹿にしたり、間違っていると指摘したりするよりも、許容した上で越えるというか。これもうまく言えないですけど。
タイトル含め、言葉で遊ぶような作品が多いなと自分でも感じている次第です。


前向きに後ろへ歩いてみて

やっぱり恥じらいみたいなのがありますね。
そしてその恥は慣れによって侵食されてきます。
とか説明していると、「自身を自ら不快な状態にしていくのって不思議ですね。」と言われました。確かに。でも、見てみたかったんだもの。
街の中で後ろに歩いている人がいるのを。

あと、めちゃくちゃ人と目が合います。
すれ違い様に2度見をすると普段は、2度見ですれ違った人の後ろ姿を見て己の中の理解をより深めようとするんだけど、私が後ろ向いてるから目が合っちゃうんですよね。

歩いた直後は、テンション高くてわぁーってなってて、とにかくバイブスがブチ上がってて。そこから映像を編集したり、展示をして繰り返しみたり、人から感想をもらったりして、どんどん言葉、文章を作っていくという感じでした。とにかく歩いた直後は感想とかじゃなかったです。
もしかして自分はこんなこと考えてたのかな、後ろに歩きたくなった原因はこれなんじゃないかな、みたいなのを後から探していくんですね。
だから、理由が曖昧というか。

そして、人は避けてくれます。ありがたいことに。
物は避けてくれないです。当たり前ですが。
大学とか物が多すぎます。危険です。
案外人混みの方が、人は人を避けてくれます。人として認識してくれます。



こうしてみても良かったかな

☆カメラマンの存在を曖昧にする

カメラマンの存在を曖昧にすることによって撮れる映像が変わったんじゃないかという考察。

1つは、カメラマンの存在を私が意識しているということ。一人で撮影もしないのに、ただ四条通で前向きに後ろへ歩いている状況とカメラマンに頼んで撮影をしてもらっている状況では心理的な部分で自分の気持ちやモチベーションが変わってくると思うんですよね。
何かトラブルが起こったとしても、カメラマンがいるから何とかなるだろうという安心感が自分の中にあったのは事実です。

2つ目は、カメラマンの存在は他者(第三者、街ゆく人)としても、「カメラがあるってことは何かしらを撮影して何かにしようとしているんだな」とカメラを向けている視線の先に何らかの意味を持たせて納得しようとするわけです。

カメラマンの存在を曖昧にする。それがいいのか悪いのか、は置いといて比べて気になる一つの事象ですね。
(って、油屋の時からカメラとパフォーマンス問題は考えてる気がする。)

ちなみに大学構内で前向きに後ろへ歩いていた時は、誰も見てない(カメラマンもいない)のに、ただただこの世界に後ろに歩く私がいる、という状況です。カメラマンをしてくれていた子なんかは、こっちの映像の方が好きだと言ってくれたりしましたが…。一人でカメラを置いてやるって、映像を撮るためにパフォーマンスしてるみたいで、それはそれで嫌なんですよね、個人的には。

解決策として、町中に監視カメラ的なものを事前に仕掛けておいてそこでパフォーマンスをしてみたら、などといったアドバイスもいただいたけれど…これもどうなんだろう。たぶんカメラを仕掛けるのは私じゃない方が良いですね。
カメラとパフォーマンス問題は、今後もずっと続いていく課題です。


☆大阪でも試してみる

別に大阪じゃなくてもいいんですけど、今回は京都だったので。別の場所でもやってみたらどうなるんだろう、と思ったわけです。
この映像を展示していた場所が大阪の北加賀屋だったこともあり、「大阪でこれやったら怒られそうやけどなぁ」と意見をもらうことが多々ありました。
怒られてもみたいけど、怒られたくはないです。
もしかしたら、このパフォーマンスは街の許容力を試されているのかもしれないです。
ちなみに、京都ではまだ一回も怒られてません。


さいごに

今も頑張って文章を捻り出しているけど、やっぱり難しい!
頭の中にあるどれを表に出して、どれを出さないままにするのか。そもそも私はそれに気づけているのか。どうしたら人により伝わるのか。
その作業に自信を持てないまま書いている文章でしたが、ここまで読んでくださりありがとうございました!
次回作にご期待ください。


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