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明石家さんまストーリー1 1955〜1981 「明石家さんま」の誕生 (エムカク)

「テレビのレギュラー番組を一番多く持っているたタレントは誰だ?」
という質問があればあなたは誰と答えますか?

これを10人に質問すると、5人以上の人は、明石家さんまと答えることでしょう。
それほどみんなに支持されていて、楽しませてもらっているスーパータレントである明石家さんまさんがフジテレビの「俺たちひょうきん族」のレギュラーを獲得するまでの実話がまとめられています。

中学生、高校生時代

小学生、中学生の頃から人を笑わせることが得意で、高校の先生からも吉本興業に入社することを勧められたほどです。

テレビの視聴者を笑わせているさんまさんを見ていると、思いつきで次から次へと面白いことが湧いて出てくるような印象ですが、実は相当な勉強家であり努力家でもあり、そのうえ抜群の運動神経の持ち主なのです。

さんまさんの面白い性格は祖父と兄に影響され、近所でも有名だったそうで、「奈良の3バカ」とも呼ばれていました。

中学校に入学にても人を笑わせることが好きで、高校に入るとさらに面白さに磨きがかかったのです。


高校3年生のとき、新入生にクラブ活動の案内をする集会があり、体育館に1年生全員が集まられ、各クラブの代表者が自分のクラブを魅力的に伝えて新入生を獲得するための集会で、さんまさんが所属していたのはサッカー部。最初の順番がサッカー部で、説明するのはさんまさん。
サッカー部のことを面白おかしく紹介したところ新入生にバカウケ。それを見た別のクラブからクラブの紹介を頼まれ引き受け、そのクラブの紹介でもバカウケ。更に次のクラブもその次のクラブもというように全てのクラブの紹介をさんまさん一人でこなしてしまったのです。

またおなじく高校生のとき、隣町の不良高校生が乗り込んできて、後輩から助けを求められたさんまさん。単身その不良高校生と対峙し、暴力もなくお笑いもなく相手を帰らせたのです。これは中学校時代の相撲大会で準優勝したときの対戦相手との関係にまでさかのぼります。

弟子入り時代

その後、笑福亭松之助という落語家に弟子入り。この松之助以外に弟子入りすることは考えられなかったというほど最大級の敬意です。
その当時の弟子入りですから、師匠の身の回りの世話をすることが仕事の殆どで、空いた時間で落語を教えてもらっていたそうです。

この弟子入り時代に現在のさんまさんの面白さを作る師匠からの言葉がありました。
師匠の家の外を掃き掃除していたさんまさんに、「掃除は楽しいか? 楽しいわけないよな。 掃除が楽しくなるようなことを考えてみろ」この言葉がさんまさんの将来に大きく影響を与えます。


さんまさんは、自分が楽しくなることと同時に他人を楽しませることを考え続けるのです。

さんまさんは自由奔放なイメージがありますが、師匠からの助言には従うのです。若手噺家が大人数でテレビの深夜番組の生放送に出演する機会がありました。師匠に相談したら「一番目立ってこい。噺家ばかりが出るならタキシードを着ていけ」と言われたとおりに赤いタキシードを着て一番目立つ服装で一番真ん中の席に陣取り、一番面白おかしく発言しほぼ独り舞台。師匠の助言を実践したのです。そのため司会の藤本義一には嫌われたが、当時のスーパースターである横山やすしに気に入られ自宅に招待されたほどです。

もう一つの師匠からの助言「チャンスがあれば他人のことを心配しないで手を挙げろ」。
ある時、さんまさんが出演している劇場で先輩芸人が病気で欠席したので、さんまさんに代打の依頼がありました。さんまさんは師匠に相談したところ「他人のことを心配する。遠慮していると出番が回ってこない」という助言を受け、その代打出演を受けたのでした。

ライバルと先輩

さんまさんとの交友関係も書かれています。
笑福亭鶴瓶、島田紳助その他の有名芸人との交流も盛んでした。
島田紳助とは初対面のときから、これはすごい芸人だと両者ともに認め合い、切磋琢磨しました。
島田紳助がさんまさんに、コンビを組みたいと申し出たところ「コンビはいずれ解散して疎遠になる。紳助とは疎遠になりたくない。だから組まない」と言いピン芸人の道を突き進むのでした。

さんまさんが出始めの頃、笑福亭松之助の他にさんまさんの才能にきづき、厳しき指導した人がいます。桂三枝です。
当時の売れっ子である桂三枝の番組にさんまさんを出演させ、他の出演者がミスしたことでも番組終了後に、さんまさんに対して居残りで厳しく指導し続け、多数の人気番組をさんまさんに引き継いだのでした。

勉強熱心なさんまさんは、多少人気が出てきた頃にも時間があると落語、漫談、コント、講談等の舞台を見に行き芸の幅を広げていました。

MANZAIブーム

その後にやってくるMANZAIブームにはピン芸人の為乗れなかったのですが、さんまさん自身「後ろ姿が見えるくらいの距離にはいるように」と決めて地道に努力し続けてきました。

MANZAIブームの最中は、人気芸人はテレビ出演、地方営業や演劇場出演等で新ネタを作る時間がなく芸がマンネリになり下火になったとのことです。
アウトプットばかりでインプットする時間が無かったのです。

東京進出

さんまさんが本格的に東京に活動の場所を移すきっかけはフジテレビの「笑ってる場合ですよ」という平日12時からのバラエティ番組でした。この番組には不定期で出演していたところ、レギュラーだった春風亭小朝さんが降板することになり、その後釜としてレギュラー出演するようになりました。

その後バラエティ番組で勢いをつけたフジテレビが不定期番組として「俺たちひょうきん族」を放送し、その後に土曜日午後8時のレギュラー番組。

俺たちひょうきん族のメイン出演者は、番組スタッフの会議でビートたけし、明石家さんま、島田紳助に決まりメインコーナーとしてビートたけし主演の「タケちゃんマン」。

その「タケちゃんマン」の中のキャラクターであるブラックデビルは、最初は高田純次でしたが、体調不良で欠席したときにさんまさんが代役をしてスタッフから高評価を得てレギュラーに決定しました。

とまあここまでがこの本に詳細に書かれています。

20210105明石家さんまの誕生

師匠からの一言

自由奔放に見える明石家さんまさんは師匠からの
「掃除が楽しくなることを考えてみろ」が基本になっているのでしょう。

明石家さんまファンの他、4〜50歳代で「俺たちひょうきん族」を夢中になって見ていた人は必読です。


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