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文章を書くことのめんどくささの正体

生きていると、とかくめんどくさいことだらけで嫌になる訳です。僕は本当にどうしようもないくらいめんどくさがりで、何事に対しても常人の数倍の感度で「あぁ〜めんどくさいなぁ」と感じてしまいます。
特に、文章を書く、ということが本当にめんどくさくて困っている訳です。文章を書く機会の多い仕事に就いてしまったものですから、毎日そのめんどくささとの闘いなのです。仕事というものは「めんどくさいモノをめんどくさいから」という理由で放棄して逃げることができない、大変めんどくさい、めんどくささのラスボスみたいなやつです。
ということで、業務上の文章作成の場合、他人様が過去に作ってくださった文章なんかを切り貼りして、それらしきモノを何とか整えて、ごまかしごまかしやってきたわけなのですが、自分の中で湧き上がってきた考えやらを文章にしたい場合、僕の培ってきたインチキ文書作成法では太刀打ちすることができず、ほとほと困り果てているのです。
自分の思っていることを借り物の言葉で表現しても、それはもはや自分の考えと呼べるのか?と疑問に思うくらいの知性と感性と倫理観は残っているようです、よかったー。
なぜ、こんなに文章を書くことがめんどくさいと感じるのだろうか、ということを少し考えてみたのですが、おそらくこれは持病の完璧主義的思考からくるものなのだろうと思います。
僕はそれなりに本は読みますし、ネット上の書き物(文章とまでは言えない呟きや書き込みなんかも含む)などを読むことは全く苦ではないです。それにインチキとはいえ、業務上でも何とか体裁は整えて、それなりに関係者にはふむふむと言ってもらえる文章は書けている訳ですから、それなりに文章を書いていく素養みたいなものは、客観的に見ても、ギリギリ持ち合わせているハズです。
でも、noteやらブログやら、もっというとTwitterでの呟き程度の文量においても、いざ書くぞ、となると、一行目から「うーむ」と唸ってしまい、何とか数行捻り出しては「なんか違うな」と書いては消し、書いては消し、を繰り返し、最終的には「アカン、もうやめや!」となぜか関西弁になってブラウザをそっ閉じしてしまうのです。

これはどういう心理からくるものだろう。

文章を書きたい動機があって、文章を書く能力は最低限備わっていて、媒体も用意されている、という状態で書けない。ちょっと意味がわからない。少なくとも、かなり不合理で非論理的である。

僕が思うに、「書けない」のではなく、自分が「書いたものが気に入らない」のではないか、と自分なりに仮説を立てている。書いては消し、という愚行を繰り返すのも自分が書いたものが気に入らないからだと推測できるし、ブラウザをそっ閉じしてしまうのは、自分の文章力の無さに辟易してしまい、もうとても現実を直視していられず、現実逃避する行為に他ならないのだと思う。

「何とかそれらしき文章を書き上げられる能力」と「それなりに豊富な読書経験」というアウトプットとインプットのアンバランスさ、その歪みを許容できない完璧主義的思考、の合わせ技一本がこの「めんどくささ」の正体ではないだろうか。

ということは、スラスラと文章を書けるようになるには、この「めんどくささ」を相当の期間我慢して、何とか自分の中からひねり出した文章を相当数書き上げていく必要がある、ということになり、ああ、もう書いてる側からめんどくさいめんどくさい。
もしくは、完璧主義的思考を少しでも緩めてやって、自分の書く自分のストライクゾーンで言えば明らかなボール球な文章を、多めに見てやる、という解決法しかないのではないか。

という思考実験をもとに、この文章は後者のマインドでほぼほぼ推敲も書き直しも見直しもせず、直線的にワーッと書き上げてやりました。結構書けるやん。


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